La Vie en Rose (La Mome)   エディット・ピアフ 愛の讃歌  (2007年7月)

幼いエディットは定職を持たない母の元から父によって連れ出されるが、落ち着く先は売春宿を経営していた。少し成長したエディットを父はまた迎えにくるが、しかし売春宿から旅回りのサーカスに鞍替えしただけのことで、結局父は喧嘩してサーカスを飛び出し、大道芸でお前も何かしろとせっつかれたエディットは歌を歌う。大人になったエディット (マリオン・コティヤール) はパリのそこここの路上で歌を歌い、小金をもらって生活していた。それを見たクラブ経営者のレプリー (ジェラール・ドパルデュー) は、エディットにオーディションに来るように誘う‥‥


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エディット・ピアフというと、シャンソン歌手として知らない者はまずないと思われる。シャンソンはフランスを代表する国民的歌謡であり、そのあり方としてはポルトガルのファド、日本の演歌に近いものという気がするが、そこはフランス、日本の演歌と較べると、こちらの方がなぜだかとてもお洒落に聞こえるのだった。


作品は冒頭、60年代に入って既に絶頂期を過ぎ、身体にも衰えの見え始めたピアフがニューヨーク公演の最中に倒れるシーンから始まる。それから話は時を遡り、売春宿で育てられた幼子時代、サーカスの芸人である父親と一緒に町から町へと旅歩きながら過ごした少女時代、そして成長してパリの街角で歌いながら小銭を稼いだ時代と成長していく様をとらえると共に、晩年のキャリアとしては峠を越えてから、既に死期も間近のピアフを交互に紡いでいく。


問題はこの、晩年のピアフを描くパートで、私は最初、ニューヨークで公演の最中倒れてから死ぬまでのピアフと、若い頃のピアフを並列して描いていくのかと思っていた。そしたらそうではなく、若い方のピアフは時間軸に沿って段々成長していくのに、晩年のピアフは恣意的に1950年代から60年代にかけてのだいたい10年くらいのスパンの間で時間があちこちに飛ぶ。したがって、ほとんどもう腰も曲がり、歌うことなんてとんでもない余命幾ばくもないだろうというピアフと、一応キャリアとしては最後半期だが、それでもまだ人前で歌っているピアフが、晩年のピアフというパートの中であっちへ飛び、こっちへ飛ぶという感じで描かれる。


この晩年の方のピアフの描き方には、首を傾げざるを得なかった。若いピアフと晩年のピアフを交互に描くなら、両方とも並列で描き、キャリアの階段を駆け上っていくピアフと表舞台からだんだんと消えていくピアフを並列させるか、あるいは晩年のピアフを、彼女の死から始めて段々時間を逆行させ、クライマックスで、たぶんキャリアの絶頂期か、あるいは転換期となったコンサートを描いて幕を閉じるという描き方のどちかになるというのが常道だろうと思う。しかし晩年のピアフの時代のパートで時間が飛んだり遡ったりするので、見る方としてはそのポイントを絞りにくい。クライマックスに向けてストーリーが前進あるいは収斂していくというドライヴ感、カタルシスが得にくいのだ。


とまあ、苦情から先に入ってしまったが、では作品が面白くないかというと、むろんそんなことはない。だいたいある偉業を成し遂げた人物、それまで誰もが到達し得なかった場所に到達した人間を描くドキュドラマが面白くならないわけがないのであって、こういう題材でつまらないと思える映画を撮ってしまったら、製作者はほとんど犯罪もんだ。特に絵と音の両方を使える映画という媒体にとっては、ミュージシャンの一生ものは、まさにそのためにあるような最得手のジャンルだ。そういう点では「ピアフ」はちゃんとツボを押さえており、安心して見れる。


近年、いくらかミュージカルというジャンルが復活しているが、ミュージカルというジャンルとしてではなく、ミュージシャンのドキュドラマという点で、その構成上ミュージカルになってしまったという一分野がある。最近のこういうミュージシャンの実録ものとしてすぐ思い出すのは、「レイ」「ウォーク・ザ・ライン」「ビヨンド the シー」等で、「ドリームガールズ」もこの分野に含めてしまってもいいかもしれない。


この中で「ピアフ」は、主人公が活躍した時代が最も古いという点で異色だ。「レイ」も「ウォーク・ザ・ライン」も描かれる主人公が死去したために製作された作品で、「ドリームガールズ」の場合、ダイアナ・ロスは現役とは言えないかもしれないがいまだに健在だ。「ビヨンド the シー」にしたってボビー・ダーリンが死去した年こそ1973年と、ピアフが死亡した1963年にかなり近いが、1915年生まれのピアフと1936年生まれのダーリンとでは歳は20以上も開きがある。第一、第二次大戦中にレジスタンスや戦士の心の拠り所になったというピアフの歌と、戦後の繁栄期を彷彿とさせるダーレンの歌は、まったく別ものという気がする。こういう点もあるため、「ピアフ」はかなりコスチューム・プレイっぽい時代ものとしても楽しめる。


作品の中盤のストーリーの要となるのが、ピアフと世界的ボクサーのマルセル (ジャン-ピエール・マルタン) との恋で、実はマルセルには国に既に妻子がおり、この恋は禁じられた恋だ。完全に悪者はピアフになるはずなのだが、マルセルの妻子を完全に無視することで、逆に報われない悲恋として、ピアフを悪者にすることを避けている。私としては、ここは逆に不倫を強調することでピアフという人物をより際立たせることができるような気がした。


実際ピアフの一生はかなり悪役めいているだけでなく、不運というか逆境にもよく見舞われている。彼女を発見した、シンガーとしてのピアフの育ての親とも言えるレプリーはギャングかなんかから殺されてしまうし、不倫とはいえやっとつかんだ本当の愛と思えたマルセルとの恋は、飛行機事故でマルセルが死ぬという結末を迎える。作品の最後の方で明らかにされるが、若い時に生んだ子は脳炎かなんかで幼い時に死亡する。本人の最期はどう見てもアル中かヤク中だ。ついでに言うとピアフは幼い頃目が見えなかった時代があり、ほとんど奇跡的に回復している。そういうドラマティックな生涯という点で「ピアフ」を見て思い出すのは、実は最近の映画作品ではなく、TVミニシリーズの「ジュディ・ガーランド物語」だったりする。歌の才能にだけは恵まれているが、私生活では不運ばかり、しかし私には歌がある、というわけだ。


ついでに言うと、1915年生まれのピアフに対してガーランドは1922年生まれと生年こそ違うが、二人とも47歳という老いたというにはほど遠い、はっきり言ってまだ若い歳で死んでいる。方やアメリカを代表する、そして方やフランスを代表する国民的シンガーが同じ歳で死んでいるのだ。実はほとんど私の今の年齢と変わらない。自分の人生でこれまでにしてきたことを考えると、こういう人たちが本当に生き急いだことが実感できる。一方映画で見る限り、晩年のピアフはめっきり老け込んで、まるで7、80歳くらいのような老いたという印象を受けるように描かれているのだが、多少は誇張があるのだろうか。いずれにしてもこういう人たちって、望むと望むまいとにかかわらず、こういうドラマティックな人生を歩んでしまう。むろんだからこそ面白いわけだが。


タイトル・ロールのピアフを演じるのがマリオン・コティヤールで、私は現実のピアフをほとんど知らないが、結構研究したんだろうなと思える熱演。歌は実際に歌っているわけではなく、ピアフ本人および他の人が歌っているのを使用しているそうだ。そういう、演じる本人が歌まで歌うのではなく、演技と歌が別ものという点でも「ジュディ・ガーランド物語」を連想させる。ま、特に「ジュディ・ガーランド」の場合は、本人と同じように歌える俳優なんかまずいなかっただろうというのはある。


フレンチ映画だから知らない人の方が多かったわけだが、カメオ的出演のドパルデューとか、久しぶりにエマニュエル・セニエだとかを見れたのは楽しかった。また、最近見たフランス映画の「ザ・ページ・ターナー」「ガブリエル」に出ていたパスカル・グレゴリーがここにも出ていた。おかげでグレゴリーは私の中では、たぶん現在フランス人俳優として最も売れっ子であると思われるダニエル・オートィユより活躍しているという印象を受ける。


作品として上記の構成上の違和感以外にもう一点気になる点を挙げるなら、やはりピアフが最も活躍した、というか、それこそ世界中に知られる契機となった、第二次大戦中の愛国者としてのピアフの歌という観点がどこにもなかったことが挙げられる。ピアフという名前と大戦をほとんどイコールで直結して記憶している人々は多いはずなのだ。というか、大戦がなければピアフの名前はフランスという国境を越えて世界中に知られることはなかっただろう。それなのに映画では、大戦の描写は吹っ飛ばされてしまう。本当にまったく無視されるのだ。たぶんこの時代を描くと、戦争の描写が必須となって金がかかり過ぎるとか、話が広がりすぎて収拾がつかなくなることを懸念しての措置だと思う。ここはその時代だけを描いた、「エディット・ピアフの生涯 パート2」の製作を待たないといけないのだろう。   







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