放送局: PBS

プレミア放送日: 7/4/2006 (Tue) 22:00-23:00

製作: プロジェクティル・アーツ、POV/アメリカン・ドキュメンタリー

監督: ケネス・エン

製作/脚本: アレックス・シアー

製作: タカヨ・ナガサワ


内容: 2004年の甲子園を目指す智弁学園和歌山高校と天王寺高校に密着して、ガイジンの目から見た日本の高校野球をとらえる。


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日本の高校野球は特殊である。日本人である私の目から見てもそう見えるんだから、ガイジン、特にベイスボール発祥の地であるアメリカの人間から見たら、ほとんど野球とベイスボールが同じスポーツだとは思えないんじゃないかと思う。とはいえ、そういう私もガキの頃は草野球に熱中し、ON砲や高校野球をTVで楽しんだ。だいたい、今40代くらいまでの男性が幼い時に熱中した遊びの筆頭は、やはり野球なんではないかと思う。


それがだんだん興味をなくしていったのは、当然、成長して他に遊びの選択肢が増えたのが第一の理由だろう。そして特に高校生になって身近に高校野球をやっている友人ができて、その一方で対象を距離を置いて見ることができるようになると、高校野球に対して非常に胡散臭いものを感じるようになった。


多かれ少なかれ教育の一環である高校スポーツは、プロ・スポーツのような、観客を楽しませるスペクテイター・スポーツに馴染んだ視点から見ると、まだ稚拙で、見るに堪えないレヴェルのものでしかない。それなのに、なぜだか地方を挙げて人々が熱狂する高校野球、これはなにかおかしいと、ごく普通の感受性さえ持っていれば誰だって感じるはずだ。感受性豊かな人間なら、絶対誰でも高校野球になにか得体の知れない違和感を感じると思う。あそこには通常の美意識に反するものばかり揃っている。


伊丹十三がどこかで書いていたけれども、彼は高校野球が嫌いで、特に何が嫌いかというと、あの頭の悪そうなにきびだらけの高校生のバカ面が大っ嫌いであるとかいうようなことを言っていた。これには激しく同意する。いったい高校生というものは別に野球をやっている者に限らずほとんどがバカであり、スポーツをやっている者ほどとことんバカだったりするが (ま、私もその一人だったわけだが)、その中でも特に高校野球をやっている者が一番頭が悪そうに見えるのはなぜか。


まず、高校野球をやる者だけが、なぜだか時代に逆行していつでも揃って丸刈りしているという時代錯誤がある。その時代錯誤どもが一堂に会して入場行進なんかしているのを見ると、これは気持ち悪い。長髪なんて一人もいず、普通の角刈りやスポーツ刈りすらいない。そういう全体主義を思わせる薄気味悪さに加え、今度はそのほとんどが眉を剃ったり剃り込みを入れているというおそるべき美意識ゼロのアンバランス。それがにきびだらけのまだ幼い顔に乗っかっているのだ。これを不気味と言わずして何を不気味と言えばいいのか。ただただ気持ち悪い。私の中では高校球児と渋谷ガングロ系 (死語?) は、気持ち悪さという点でどっこいどっこいだ。


そういう頭の悪そうな奴らが、試合に負けて全員でめそめそ泣いていたりするのを見ると、これはもう見てるこちらの方が恥ずかしい。同じ高校生でも他のスポーツにいそしんでいる奴らが、インタハイで負けたからといってこういう風に人の目も気にせずにさめざめと泣くシーンなんて、到底想像すらできない。なのになんでこいつらだけはこうも堂々と泣いてたりするんだ? 頼むからカメラもアップになんかしないでくれと言いたくなる。とっとと家に帰って勉強して、せめて掛け算九九をそらで言えるくらいにはなってくれ。


つまり私に言わせてもらうと、高校野球というのは見るに堪えるスポーツではない。MLBでまず球に殺気を込める格闘技としてのベイスボールに馴染んだ目から見ると、高校野球のピッチャーの投げる球は、落ちるカーヴかそれともキャッチャーまで球が届かないだけなのかよくわからない。なんであんなションベン・カーヴが打てないのか、なんであんなゴロがとれないのか、なんであんな勢いのない球が外野を抜けていくのか、まったくよくわからないことだらけだ。とにかく、いつどこでエラーが出るかわからないだけにむやみに緊張したりするが、これはスポーツ観戦時の正しい興奮とは当然無縁だ。


と、やたらとこき下ろしたりしているが、では、高校野球が面白くないかというと、そんなことはない。実は、高校野球はスポーツとしてではなく、リアリティ・ショウとして面白いのだ。つまり、一回こっきりで負けたらそれまでという常に崖っぷちでもがく球児たちを、時に罵倒し、時に感情移入したりしながら、自分は気楽にTVで試合を観戦する。これは今、アメリカで視聴者が勝ち抜きのリアリティ・ショウ、例えば「サバイバー」なり「アメリカン・アイドル」でひいきの参加者を応援するという構図とまったく変わらない。リアリティ・ショウにおいては、参加者の生の感情の発露こそが番組の醍醐味だ。こう見ると、なぜ高校野球だけが、視覚的には見苦しい以外の何ものでもない、球児が泣くという行為を許しているかがわかる。そこでは逆に視聴者の方がそれを求めているからだ。


さらに、人が炎天下を汗水たらして仕事なりスポーツなりしているのを冷えたスイカでも齧りながら第三者の視点から眺めるというのは、快感である。もうちょっと入れ込みたくなったら、自分の出身地の高校を探し出して応援すると、観戦にも身が入る。真夏の真っ昼間に、TVをつければ必ずどこかの高校が試合していてくれるのだ。かっこうの暇つぶしであり、日本の夏の風物詩と言えよう。つまり、スポーツとしてではなく、TV番組として、高校野球は確かに面白い。


とまあ、私は高校野球をスポーツとは見なしていないわけだが、実は高校野球をスポーツとは考えていない人種がもう一組ある。それが高校野球の監督だ。番組は、2004年の大阪府立天王寺高校と、和歌山の智弁学園和歌山高校の二校の野球部に密着し、甲子園を目指して予選を戦う様をとらえるのだが、そこで天王寺の監督が既に、私は高校野球を教育の一環としてとらえています、と堂々と口にする。智弁の監督だって似たようなものだ。


そんなの、私に言わせてもらえれば、他人の教育指導なんて間違っても見たいとは思わないのだが、まだ知能が未熟な高校生を率いて集団スポーツをさせるのだ、そういう意識がないと引率はできないというのはあるかもしれない。実際の話、スポーツとして見ると、高校野球なんててんでなっていないというのを最も自覚しているのが監督だろう。だからそこで教育としてとらえ直さないと、到底指導なんてできないのだろう。


「高校野球」で選ばれている智弁和歌山と天王寺という二校のうち、甲子園の常連校の一つである智弁和歌山が選ばれているのはわからないではないし、私立と公立を一校ずつ選んでいるのもわかる。しかし、甲子園経験のない天王寺が選ばれている理由はよくわからない (と思って調べてみたら、半世紀以上も前に出場経験があった。) 一方、智弁和歌山は甲子園の常連も常連、優勝経験も豊富であり、確かにこれ以上相応しい学校はなかっただろう。


思うに、天王寺が選ばれている理由は、都心という満足に練習する場所も確保できない立地条件に加え、さらに公立の進学校という、才能あるアスリートを集めるには不利な条件下で、スポーツとしてではなく、教育、修身指導という側面からの高校野球を強調しようとする意図があったのだろうと思う。どう見ても狭い運動場にいびつにフェンスが張り巡らされている場所で練習している天王寺と、ほとんど田舎の広いグラウンドでのびのびという感じで練習している智弁とでは、練習環境の差は一目瞭然だ。


そして2004年の地区大会が始まるわけだが、ここで思わぬ事態が起きる。ここでたぶん、作り手は天王寺に頑張ってもらいたいとは思ってはいただろうが、彼らが甲子園に行けると本気で考えていたわけではないだろう。いわば私立の野球エリート校の智弁に対する比較対照の捨て駒として最初から天王寺は選ばれているのであり、いくら一瞬先は何が起こるかわからないのが高校野球の醍醐味とはいえ、地区代表を本気で狙えるかどうかくらいは、事前にリサーチをすればすぐわかる。


結局天王寺は予選で敗退するわけだが、ここまではいい。予想通りとすら言える。予想外の展開は、智弁和歌山までがまさかの地区予選敗退を喫してしまったということにある。これには作り手も困っただろうが、敗戦は敗戦である。一発勝負の高校野球の面白さは、こういう強豪をまさかの相手が破るところにこそあるのだが、それでも、甲子園の常連が地区予選の、しかもまだ最初の方の段階で負けるとはまさか思っていなかったに違いない。これで追っていた2校とも予選敗退、甲子園には行けなくなってしまった。これはまずい。これまでの密着取材がすべて水の泡である。


実際、智弁和歌山は、1996年から2000年まで5年連続で甲子園出場、うち2回は全国制覇を成し遂げている名門中の名門だ。2001年こそ甲子園出場を果たしていないが、2002年にはまた甲子園で準優勝、2003年にも甲子園出場を果たしており、2004年製作の「高校野球」において、最も甲子園に近そうな高校として智弁が選ばれたのは、ほとんど当然の成り行きだったと言える。たぶん最初に智弁和歌山を選び、対比校として、智弁に近い取材に便利な近畿圏内の公立進学校という視点から選ばれたのが、天王寺だろう。


しかし、その智弁が負けるという想定はしてなかったに違いない。まあ、それはスポーツであり、負ける可能性だっていつもついて回るわけだが、その可能性が最も小さいという視点から選んだ学校があっさりと負けてしまう。実際、智弁はその翌年、また和歌山代表として甲子園出場を果たしているのだから、番組製作者も運がなかったとしか言いようがない。いずれにしても製作者はその時点までに収録したフッテージを用いて番組を構成し直さざるを得なくなり、高校球児全員が甲子園を目指す高校野球をテーマに番組を製作していながら、その甲子園での取材を断念せざるを得なくなった。


番組では、登場人物の誰もが甲子園のことを口にしていながら、甲子園そのものには触れずに終わらざるを得ないのだ。甲子園自体の映像は、番組の始めや終わりに、番組のストーリー・ラインとはなんの関係もない一瞬のフッテージとして挿入されるだけだ。この番組を見た誰もが、で、結局その甲子園で勝った学校というのはいったいどういう学校なの、という疑問を持たずにはいられないだろう。


やはり、高校野球をテーマにした番組で、甲子園で取材できていないというのは、番組としては失敗であると言わざるを得ない。全国4,000校の高校球児たちは、ただ一つ、甲子園だけを目的に野球をしているのであり、その高校球児たちを追う番組で甲子園が抜け落ちているというのは、些細な欠点として見過ごすにはあまりにも大きすぎるミスである。特に高校野球のなんたるかをほとんど把握していない外国人視聴者に見せる場合、甲子園を出さずしてこれが高校野球ですと番組を提出するわけにはいかないのは言うまでもない。


とはいえ、予算や日程が限られている公共放送出資の番組で、では来年また最初から別の学校を選んで撮り直すという選択肢は、最初から与えられていないのはもちろんだ。そのため、とにかく撮影したフッテージを編集して構成した「高校野球」は、智弁が勝ち進んでいけなかったため、私立エリート高と公立進学校の比較という点でも焦点を絞りきれず、当初想定した構図からは逸脱し、両校の地区予選の戦いぶりだけで終わってしまった。


一方、そのためかどうか、番組は野球そのものよりも、その周りの雑多な要素とらえることにかなりの時間を割いており、実は、その部分が面白くないこともない。特に伝統ある野球部である智弁には、当然伝統ある応援団がついており、この、何がなんだかよくわからない応援団という存在は、アメリカ人にの目にはすごく面白く映るに違いない。私も高校時代、昼休みだか放課後だかに男子生徒は校舎の屋上に全員呼び出されて声の出し方を練習するという、まったく言語道断の応援練習を強制させられたことがある。


まあ半分は興味半分で楽しみながらやったりもしたのだが、あれは、いったいなんだったのだろう。いったい誰の権限で、どんな名目で、なぜ教師から反対されることなく、ああいう全体練習とやらがまかり通っていたのは、不思議としか言いようがない。むろん授業科目の一環などではまったくなく、ある日いきなり学校に行くと応援団の連中が教室にやってきて、今日これこれの時間に屋上に集まるようにというお達しがあって、皆半分は不満そうな顔をしながらも、半分はなんか面白そうだと楽しそうにそれに従っていた。平時は平気で授業をサボる奴らが、これに来なかったら後でひどいぜと脅しにかかるのだ。この理不尽さはいったいなんなのだ。


「高校野球」を見て思い出したのは、そういう、自分自身の高校時代の記憶であり、そういうスポーツ以外の記憶と分かちがたく結びついている高校野球とは、やはりスポーツとは言い難いなにものかである。たぶん高校スポーツのほとんどはそういうものだろうと思うが、高校野球がその筆頭であることは言うまでもない。


番組は、どうせ甲子園に行けなかったんだから、たぶん取材自体はもっとしてあったはずの、チア・リーディング・チームや、選手の家族のサポートにも焦点を当てた編集にしたらまた面白かっただろうにと思う。智弁には越境というか、他県からのスポーツ入学を果たしている生徒らも絶対いるはずであり、それらの家族が息子を甲子園に行かせるためにどれだけの犠牲を払っているかというところに注目したら、また面白いものが撮れたはずだが、それでは最初の狙いから外れすぎるか。


たぶん「高校野球」が失敗している本当の理由は、番組製作者自身が甲子園を知らないことにあると思う。だから高校野球をとらえても、そこに甲子園がなくても特に本人たちに違和感はない。少なくともそこに至るまでの監督や生徒たちの道程、努力はちゃんととらえているからだ。しかし、むろんそんなことはない。高校野球で甲子園に行けずに終わった高校球児とは、その他の一般的日本国民にとっては存在しないも同じである。彼らにはもう、一生、晴れ舞台は回ってこないだろう。その辺りをちゃんと把握していないから、番組は日本人の目から見るとどうしても中途半端に映る。


もちろん私立野球エリート校と公立校を対比させた戦略は間違っていなかった。しかしそれが効果を上げるのは、一方の智弁が勝ち上がって甲子園に出て、できれば優勝して天王寺との差異を際立たせることができてこそなのだ。その差が月とすっぽんほどあることを経験として理解している日本人の目から見ると、「高校野球」は、高校野球を好意的に見ている視点に好感は持っても、やはり中途半端と言わざるを得ない。





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