Inglourious Basterds


イングロリアス・バスターズ  (2009年8月)

第二次大戦時、ナチのユダヤ人狩りの責任者として辣腕を振るうランダ (クリストファー・ワルツ) は、今日もフランスの農家の軒下にかくまれているユダヤ人一家を炙り出すが、からくもショシャーナ (メラニー・ロラン) だけが間一髪で難を逃れて逃げ延びる。彼女はその後パリで劇場を経営しながら、復讐の機会が来るのを待っていた。一方、レイン (ブラッド・ピット) に率いられたユダヤ系アメリカ人による有志戦隊バスターズは、徹底的にナチ狩りを行っていた。彼らは著名な女優かつスパイであるブリジット (ダイアン・クルーガー) の協力で、ナチをなきものにしようと画策していた。彼らは、ショシャーナの劇場にナチの主立った者が集まって戦意昂揚映画のプレミア上映が行われるという情報をつかむ。その時が千載一遇のチャンスになるはずだった。そしてショシャーナもまた、自分の考えがあった‥‥


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「グラインドハウス (Grindhouse)」に続くクエンティン・タランティーノの新作は、ヨーロッパ、主としてパリを舞台とする第二次大戦ものだ。「キル・ビル (Kill Bill)」では日本が舞台となっているわけだから今度はヨーロッパを舞台としても別にいいわけだが、しかし、タランティーノとしては初めて時代の異なる歴史ものだ。それとも「ジャッキー・ブラウン (Jackie Brown)」は見かけだけじゃなく舞台も70年代なんだっけ? いずれにしても、あまりにもお遊びが過ぎるとさすがに見る気がしなかった「グラインドハウス」はともかく、今回はそそられるものがある。


フランスの片田舎を映し出す作品の冒頭、まず高らかに鳴り響く、明らかに音量の大き過ぎるホーンのテーマ音楽にいきなり度肝を抜かされる。「キル・ビル」で梶芽衣子を使ったと思ったら今度はほとんどエンリオ・モリコーネ・タッチで、演歌からスパゲッティ・ウエスタン、しかも舞台はフランスか。


しかしその映像は男が切り株の上で斧で薪を割っているというもので、こりゃジョージ・スティーヴンスの「シェーン (Shane)」だ。しかもその後来客があってカメラが家の中から外をとらえるというのはジョン・フォードの「捜索者 (The Searchers)」で、これなんか「キル・ビル」でもやっていた。自分が始めたわけじゃない同じ事を何度も繰り返すこういう行為は、先達へのオマージュというよりは単に無神経さを露呈しているようで、この辺が時にこの男はバカかと論評される所以でもある。


しかし、その山の一軒家に到着したナチの腕利きのジュー (ユダヤ人) ハンター、ランダが家の主を家の中に率いれ、ユダヤ人を匿っていないかと軽い調子で話を始める件はいきなりタランティーノ節全開で、まるで関係のない話をしているかのようでありながら絡め手からねちねちと家の主人を追いつめる会話の妙は、これはもうタランティーノしか書けまいと思われる。本質の周辺をくどくどと迂回しながら関係ない話に終始しているように見えて、最後に会話が閉じてみると、相手はがんじがらめに身動きがとれなくなっている事に気づくのだ。


特に時代が戦争中で、会話の語彙の一語の選択が命に関わるというような時、こういう実のない戯れ言のような会話がいつの間にやら濡れた麻縄のように自分ののど元に食い込んでいるというようなシチュエイションは、緊張感を煽る。つまり、戦争という舞台はタランティーノに非常に合っている。意味のないことをほざいているように見えながらだんだん中心像が結ばれていくようなタランティーノ独特の節回し、本質に触れた瞬間に勃発するヴァイオレンス、そこに到達するまでの終わりがいつ来るのかわからない宙ぶらりんの緊張感といった彼の特質が、戦争という特殊な舞台とうまくマッチしているのだ。こいつは面白い。タランティーノの戦争作品がここまで面白いとは思ってもみなかった。


このタランティーノ節は作品中何度も現れ、その度ごとに緊張感とカタルシスを強いる。後半、ダイアン・クルーガー演じる西側の女優スパイが酒場でそれと知らない酔っぱらったナチの下っ端軍人に絡まれ、いったいどういう展開になるのかと思わせられるシーンで、一緒に見ていた女房が、トイレに行ってくると席を立った。帰ってくるまで少なくとも4、5分はかかったはずだが、戻ってきた女房は、登場人物が彼女が出て行った時とほとんど同じアングルで似たような会話をしていたので驚いたそうだ。タランティーノの会話は長い。そのしつこいねちねちさがあってこそのタランティーノ節なのだ。おかげでその後のカタルシス溢れる銃撃ヴァイオレンスにもちゃんと間に合ってよかったじゃないか。


この作品、ネイム・ヴァリュウの点から出演のブラッド・ピットに注目が集中している嫌いがあるが、主人公は明らかにジュー・ハンターのランダを演じるクリストフ・ヴァルツだ。時々一世一代のはまり役と感じさせる役を演じている俳優を目にする機会があるが、ここでのヴァルツがまさにそうで、この役をこれ以上うまく演じることのできる役者がこの世にいるとは到底思えない。彼はここではドイツ語、フランス語、英語、イタリア語の4か国語を話すが、現実に話せるのだそうだ。それだけでなく、彼の娘は7か国語を話すそうである。ドイツの片田舎に生まれて俳優を志す者にとって、数か国語を話すことはある種の要請で必要なことだったとインタヴュウで答えていた。


ヴァルツに勝るとも劣らぬ印象を残すのが、ユダヤ人の劇場主ショシャーナを演じるメラニー・ロランと、女優兼西側スパイのブリジットを演じるダイアン・クルーガーの二人の女優だ。この二人の破滅的美しさがあってこそ、また物語も引き立つ。ロランは特に若い頃のカトリーヌ・ドヌーヴを彷彿とさせる顔立ちで、いかにも薄倖の美女が似合うと言うと、誉めていることになるのだろうか。


ピットはアメリカ南部出身という役どころで、ちょっとお山の大将的、ややもするとちょっと鼻持ちならないアメリカ人という感じを、オーヴァーアクトすれすれのところで演じている。ピットが人気のある所以の持ち味とは違うところで勝負しているのだが、どちらかというと今回のそれはタランティーノの要請だろう。


タイトルの「Inglourious Basterds」はもちろんミス・スペルで、正しくは「Inglorious Bastards」となるべきだ。こないだCBSの深夜トークの「レイト・ショウ (Late Show)」を見ていたらタランティーノがゲストに呼ばれていて、ホストのデイヴィッド・レターマンがタランティーノを紹介してカウチに座らせるや否や、では、まずこのスペルなんだが、と始めたので、誰もが気にしていたものと見える。


レターマンは、IngloriousではなくInglouriousとなっているのは英国風の綴りだからか、BastardsではなくBasterdsとなっているのはなぜかと訊いたのだが、タランティーノは前者に対してはこれはクエンティン・タランティーノ風のスペルなんだ、後者に対してはバスキア風のスペルなんだと、答えになっていない答えを返し、結局レターマンに何言っているのかさっぱりわからないと言われていた。


私も同じ印象を受けたのだが、要するにタランティーノは、簡潔に物事を表現できないらしい。だからこそああいう映画になってしまうのであり、映画監督として以外は、正直言ってタランティーノは使えないやつでしかなさそうな印象を受けた。レターマンが質問をすると、それに答えているはずが勝手にどんどん話題がずれて行って、しかも一人で延々としゃべる。段々レターマンが飽きてきたのがよくわかった。


タランティーノは以前、なぜだかFOXの「アメリカン・アイドル (American Idol)」にゲスト・ジャッジとして呼ばれていたことがある。その時コメントを求められて、「あんたはパワー・ハウスだ」と、批評とは言えない、コメントにすらなっていない戯れ言をほざくばっかりだった。お前はパワー・ハウス以外の形容詞を知らんのか、まったくこの使えないやつを誰かなんとかしてくれと思わされた。そういうやつが唯一無二のエンタテインメント作品を撮ってしまうところが映画の面白さでもある。


映画タイトルに戻ると、私見ではタランティーノは昔、このようにミス・スペルで単語を覚えていてしまっていたのではないか。かつてそのことで誰かに笑われたり恥をかいたりしたことがあるのではないか。単純に、このミス・スペルが格好いいからと思ってわざわざこうしたという風には思えないのだ。一方でタランティーノのことだ、もしかしたら本気でこれが格好いいと思っているのかもしれないという懸念も捨て切れないのが怖い。こういう積極的なカン違いや思い込みが、彼の映画の魅力にもなっているのは確かではあるのだ。



(注) 以下、作品のラストをばらしています。



最後、劇場内に一堂に会したナチの重鎮たちは、ダイナマイトや機銃掃射によって、それこそ一網打尽で皆殺しになる。あっと思う間もなくヒトラーもゲッベルスも殺されてしまうのだ。まさかこんなに堂々と歴史を改変してしまうとはまったく思ってもいなかった。


トム・クルーズが「ワルキューレ (Valkyrie)」で命を賭して果たそうとして果たし得なかったことを、タランティーノはいとも軽々と成し遂げてしまう。あるいは「インタビュー・ウィズ・ザ・ヴァンパイア (Interview with the Vampire)」でそのクルーズと敵同士を演じたピットが、クルーズのできなかったことをやすやすと達成してしまう。これは現在のハリウッドの力関係を物語っているのか、それとも単にタランティーノの次元のずれた思い込みの現れに過ぎないのか。いずれにしてもタランティーノが、よくも悪くも唯一無二という形容詞が似合う映画作家であることは間違いないことを思い知らされる。








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