放送局: TCM

プレミア放送日: 11/7/2006 (Tue) 20:00-22:00

監督: ピーター・ボグダノヴィッチ

ナレーション: オーソン・ウエルズ


内容: ジョン・フォードを回顧するクラシック・ドキュメンタリーのアップデイト・ヴァージョン。


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ライブラリ映画専門チャンネルのTCM (Turner Classic Movies) は、読んで字の如く普段はクラシックのハリウッド映画ばかりを放送しているチャンネルだが、年に数回程度の頻度でオリジナル番組も編成する。もちろんすべて往年のハリウッドに関するドキュメンタリーだ。


そのTCMが今回放送した「ディレクティド・バイ・ジョン・フォード」の何が特殊かというと、フォード狂として知られるピーター・ボグダノヴィッチがものしたジョン・フォードについてのドキュメンタリーであるオリジナルは、既に1970年に製作されていた。今回の本作は、それに新しいインタヴュウやフッテージを撮り足したアップデイト・ヴァージョンだということにある。


いったい、わざわざ3分の1世紀前に製作された、ある人物のドキュメンタリーのアップデイト・ヴァージョンを改めて製作することに意味があるのかとも思う。その対象となった人物は既に死去して久しく、本人の未発表作品が陽の目を見たとか、忘れ去られていたインタヴュウが発掘されたとかいうわけではないのだ。本人にではない別の人間に対して行われた新しいインタヴュウは収められており、フォード本人と、かつて恋愛の対象であったと噂のあったキャサリン・ヘップバーンの、これまでに知られていなかったプライヴェイトな会話の録音が新しく加わったとのことだが、それも、それほどのことだろうかとしか思えない。


と私はこの番組を見るまでは思っていたので、番組が始まる時に一応チャンネルは合わせていたものの、特に興味を惹かれていたわけではなかった。話にだけは聞いていたオリジナルを見たことがあったら、今回わざわざチャンネルを合わせることすらしなかったのは確実である。しかし、フォードを題材とするドキュメンタリーとして一応はクラシックと見なされ、インタヴュウ嫌いで知られたフォードがカメラの前でしゃべるめったにないシーンをとらえたこの作品を今回見逃したら、次は機会がいつ回ってくるかわからないと思っただけである。


それでも、いくら好きな監督でも、私の場合、興味は作り手本人や製作の舞台裏ではなく、でき上がった作品の方に向かうので、本気で番組を見ようと思っていたわけではない。ながら視聴で充分と思っていたし、面白くなかったらシャワーを浴びようと思って、食事の後にただちらちらと横目でTVを見ながら、カウチの横に立っていつでもバス・ルームに行く準備はできていた。


そしたら、見出したら止まらなくなった。考えてみたら、映画史を代表する一人である人物のインタヴュウやその人物にまつわる話、監督作の代表的な部分を抜粋したドキュメンタリーが面白くないわけがないという、あまりにも当然のことに私は思い至らなかったのであった。いきなり、番組出だしの「捜索者 (The Searchers)」の、ジョン・ウエインが長い旅から一時的に帰ってくる様を家の者が待ち構えるというシーンで、私は完全につかまれてしまった。


「捜索者」は、全映画史の中で多くの者がベスト・テンに入れるのは間違いなかろうと思える紛れもない傑作であるが、特に印象に残るのが作品の中ほどのこのシーン、ほぼ真っ暗な室内のこちら側に人物を配し、ほとんどシルエットになった女性が明るい屋外に向かって外に出る様を移動撮影で追い、その向こう、遠くを点景のウエインが近づいてくるというシーンで、その後カメラが切り替わって中央に佇む女性、そのそばをかすめ通って前面に出てくる夫、またカメラが切り替わって人物を横から映すショットとなり、ポーチの向こう側に犬と共に歩いていく次女、右側手前に立つ長女、その長女の前を薪だかなんだかを持って横切っていく長男という構図と動きをとらえた一連のシークエンスは、これぞ映画という魅力に溢れ、思わず鳥肌が立つ。いきなりこれを番組の冒頭にもってくるなんて、反則だ。


それから番組はオリジナルにあった、ジョン・ウエインやジェイムズ・スチュワート、ヘンリー・フォンダ、そしてフォード本人のインタヴュウ、それに新しく撮り足したフォード映画の常連ハリー・ケリーJr.やクリント・イーストウッド、スティーヴン・スピルバーグ、マーティン・スコセッシらのインタヴュウ、そして当然、フォードの数々の作品からの抜粋で繋いでいく。そしてオリジナルのナレーションを担当しているのは、やはりフォードを崇めていたオーソン・ウエルズだ。結局私は、切りのいいところまで見てシャワーを浴びようと思っていたのだがそれどころではなくなってしまった。ずるずるともうちょっともうちょっとと、カウチのすぐ横で立ったまま1時間も番組を途中まで見た挙げ句、これは途中で切り上げることなんかできないと、結局座り直してあとは最後まで見た。久しぶりに映画を立ち見で見ている感触を味わってしまった。


数々の撮影現場での逸話で知られるフォードの監督振りを、当事者のウエインやスチュワート、フォンダ本人の口から聞くのは、やはり面白い。フォードは撮影現場で俳優を呼んで、どうだった、どう思うと質問攻めにし、当然誰もフォードに逆らえないから、最初は誰も皆、すばらしい、いや、満足だとか誉める。それでもフォードは徹底して、じゃ、他になんかないのか、ほんの少しでもよくないと思うところとか、と突っ込むので、俳優の方も、じゃあ、あそこのシーンは今ひとつかもしれない、とか何とか答える。するとそこでフォードはやおら現場で仕事中の全員を集め、おおい皆ここへ来い、この役者はこのシーンが気に入らんと言っているぞとその俳優を全員に囲ませて真っ青にさせる、といういかにもフォードらしいいたずらというか嫌がらせを、ウエインもスチュワートもされたという話を本人たちの口から聞くのは、やはり楽しいのだ。


しかしインタヴュウといえば、なんといっても白眉はインタヴュウ嫌いで知られたフォード自身にまだ若いボグダノヴィッチが、フォード・スポットとして知られているモニュメント・ヴァリーを背景に屋外で行ったインタヴュウだろう。ボグダノヴィッチがフォードをほとんど神様視して崇めているのは有名な話で、当時まだ批評家としては駆け出しの若造に過ぎないボグダノヴィッチは、本人がカメラに映っているわけでもないのに、神様を前に上がっているのがはっきりとわかる。一方、フォード自身はインタヴュウ好きではないので、虫の居所がまったくよくない。ボグダノヴィッチが上がるのを紛らわせようとインタヴュウアーとしては早口で口数が多すぎる感じで質問すればするほど、フォード自身は寡黙になる。


アシスタント「テイク・ワン」

フォード「テイク・ワン? 一回で終わりじゃないのか」

ボグダノヴィッチ「ミスター・フォード、あなたは『三悪人』みたいな大規模な西部劇を撮っておられます」

フォード「ああ」

ボグダノヴィッチ「いったいどうやって撮られたのですか」

フォード「カメラで」

ボグダノヴィッチ「ミスター・フォード、あなたの作品は時を経るに連れて、例えば『幌馬車』から『リアティ・バランスを撃った男』になるに連れて、どんどんメランコリックで悲観的になっていくように見受けられます。あなたご自身はそのことにお気づきですか?」

フォード「いいや」

ボグダノヴィッチ「私が今言ったことについてなにかおっしゃりたいことはありませんか?」

フォード「あんたがなにを言っているのかさっぱりわからんよ」

ボグダノヴィッチ「西部劇があなたにアピールするのはいったいどういうところなんでしょう」

フォード「知らない」

ボグダノヴィッチ「『アパッチ砦』では個人よりも軍の伝統の方が重要であるという見方があることに賛同しますか?」

フォード「カット!」


もう爆笑である。ぜひ、フォードを前に引き攣っているに違いないボグダノヴィッチ自身の顔も見たかったと思う。


失敗談というわけではないが、15歳の時一度フォードに会ったことがあるというスピルバーグの話も面白い。たまたま偶然でフォードが1分間だけ話を聞いてくれるということになって、スピルバーグがフォードのオフィスに入っていくと、フォードが壁にかけられているいくつもの西部の絵を指差し、これらの絵で地平線はどこにあるか言ってみろとスピルバーグに問いかけたそうだ。その上で、地平線は上端か下の端にある方が真ん中にあるよりも絵になる、そのことをわかってたら、もしかしたらあんたはいつの日かすぐれた監督になれるかもしれない、わかったら出て行けと言われたと、スピルバーグがさも嬉しそうに述懐している。


また、スコセッシは「馬上の二人」でスチュワートとリチャード・ウィドマークの二人が川辺で会話するシーンを見て、自分もこういう風に映画を撮りたいと思ったという。実は私はこの映画を見ていなかったのだが、見せてくれたこの1シーン1ショットのクリップもすごかった。しかもこのシーンを一発で撮って撮り直しなし、切り返しのショットもアップもロングも俯瞰もPOVもまったくないのだ。現在のボグダノヴィッチが熱心にこのシーンの裏話をしゃべっていたが、いや、やはりフォードってすごかったんだと思わざるを得ない。


このシーンに限らず、フォードはなんでもテイクを繰り返すのを好まず、だいたい1テイク撮っただけでで終わりにしたがった。どんなシーンでも最初のテイクが最も役者がヴィヴィッドで敏感であり、気持ちが乗る上によい意味で緊張しているからだが、そういう話をまたスチュワートやフォンダ、ケリーJr.やイーストウッドが強調している。イーストウッドもたぶんほとんどNGなんか出さずに、フォードと同じように最初か2回目のテイクぐらいで終える演出をしているんだろうが、ほとんどあいまみえることのなかった西部劇を代表する二人の巨匠が、たぶんまったく同じことを考えている。


「馬上の二人」のこのシーンはかなりセリフが挟まるが、一般的にフォードの演出の特長は、できるだけ会話を排し、イメージと登場人物の行動によってストーリーを展開させることにある。実は私が生まれて初めて字幕すらない英語だけで見た映画が「マイ・ダーリン・クレメンタイン (荒野の決闘)」で、学生時代、フォード特集をやるということでわざわざ京橋のフィルム・センター (まだあるのだろうか) に出かけたところ、字幕のまったくないオリジナルそのものを見せられた。当時の私の英語力なんて知れたもので、会話がどれだけ聞き取れたか怪しいものだが、しかしそれは置いといても映画そのものはめちゃくちゃ面白かった。映画は映像で見せるものという事実を私に最初にわからせてくれたのがフォードだった。フォードは番組の中でも、トーキーよりサイレントを撮る方がよほど難しいと明言している。


「ディレクティド・バイ・ジョン・フォード」は、こういう魅力と発見に溢れた番組であるが、しかし、欠点もある。多くの作品を撮ったフォードのその一部しかとらえておらず、選に漏れて一瞬たりとも紹介されない作品が多い (「ハリケーン」はどこに行った?) ことは、当然その筆頭に挙げられて然るべきだろう。つまり番組はあまりにもボグダノヴィッチの好みが優先されており、映画史としてのフォードの収まる位置がこれではほとんどわからない。この番組はそういう、第三者的に歴史を俯瞰するというよりもボグダノヴィッチ本人のフォードに対する偏愛を優先した番組であり、わかっててその他の作品を敢えて収録しなかったこともわかるが、やはりフォードのその他の作品も見たかったと思う。とはいえ、一方でこういう番組を見ると、かなり満足してしまうこともまた確かなのであった。






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Directed by John Ford


ディレクティド・バイ・ジョン・フォード   ★★★1/2

 
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