放送局: サンダンス

プレミア放送日: 4/4/2006 (Tue) 21:00-21:45

製作: グロボ・フィルメス

脚本/監督: パウロ・リンス、カティア・ルンド、フェルナンド・メイレレス、パウロ・モレリ、フィリペ・バーシンスキ

撮影: アドリアノ・ゴールドマン

出演: ダグラス・シルヴァ (アセロラ)、ダーラン・カンハ (ラランジンハ)


物語: 第1話「皇帝の王冠 (The Emperor's Crown)」

リオのスラム街に住むアセロラとラランジンハは、学校の郊外授業に参加するために参加費用を捻出しないといけない。アセロラはうまく大人から金をせびりとるが、そのなけなしの金を年上の下っ端ギャングに奪い取られてしまう。ラランジンハの機転によりギャングの上の位の者と話をつけ、なんとか金をとりもどした二人だったが、今度は二人が山の下の薬屋までラランジンハの祖母の薬を買いに来たちょうどその時にギャング団の抗争が勃発してしまい、山の上のラランジンハの家に帰れなくなってしまう。祖母は薬がないと命が危ないと、焦る二人だったが‥‥


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アメリカでは英国やオーストラリア、カナダ等の一部の英語圏製作の番組を除いて、外国製番組が放送されることはめったにない。ただでさえ既に500チャンネル超の世界に突入して番組は供給過剰気味なのに、さらに外国から番組を輸入しようと考える者はほとんどいない。その中での数少ない例外が上記の英語圏のコメディ/ドラマと、一部のリアリティ・ショウ、それに日本製アニメだ。


英国製番組について言えば、これらは公共放送のPBSや民放のBBCアメリカのようなルートが確立されているため、BBC製作のドラマならば、それが話題作ならまず間違いなくアメリカでも見れる。だいたい、字幕や吹き替え等の手を入れる必要がまったくないというメリットはでかい。時には何を血迷ったか、NBCが、アメリカでも放送されている「オフィス」や「ティーチャーズ」のBBCコメディをリメイクするというバカげた行為に走ってたりまでしている。


リアリティ・ショウで言うならば、フード・ネットワークで放送されていた日本製の「料理の鉄人 (Iron Chef)」と、スパイクTVの「風雲たけし城 (MXC)」を忘れるわけにはいくまいが、まあ、オリジナル番組が放送されているのはそれくらいなもんだ。ヒット・リアリティ・ショウも、結局はだいたいご当地風にマイナー・チェンジが施されてリメイク放送される場合がほとんどであるため、吹き替えといえどもオリジナル番組がそのまま放送された上記両番組の場合は、例外中の例外と言える。


アニメの場合はしっかりとコアのファンという地盤ができているため、これまた話題になった番組なら、だいたいカートゥーン・ネットワークおよびWBかFOXの昼間の時間帯をこまめにチェックしていたら、高い頻度でアメリカでも放送されているのを見つけることができる。最近ではついにインディ映画専門のIFCまでアニメ放送に乗り出し、「Samurai 7」を編成していたりする。日本製アニメは、英国製ドラマを除けばアメリカで放送される頻度が最も高い外国製番組と言えるだろう。


一方、英語圏以外のドラマ/コメディとなると、通常、地元でどんなに流行った番組でも、それがそのままアメリカでも放送される見込みはまずない。もちろん外国語専門チャンネルというのがあり、特にスペイン語ネットワークのユニヴィジョンやテレムンドなんて、実はアメリカの弱小ネットワークのUPNやWBよりも規模がでかかったりするため、そこで南米産番組とかが見れたりする。とはいえ当然そういうチャンネルは英語スピーカーが見ているわけではないから、数字の上ではかなり見ている者がいるとはいっても、やはり表舞台には上がってきにくい。


そんな中で、昨年、ペイTVのHBOが放送したアルゼンチン製の刑事ドラマ「エピタフィオス (Epitafios)」は、吹き替えでなく字幕放送で放送になるなどして、それなりに話題になった。映画以外でアメリカで字幕のシリーズ番組が放送されることはめったにないことを知っている者にとっては、これは一つの事件である。もっとも、HBOといえどもさすがに基幹チャンネルで放送するのはあまりに冒険過ぎると考えたと見えて、放送自体はHBOの姉妹チャンネルであるHBOシグナチュアで放送されている (現在ではさらにマイナー姉妹チャンネルのHBOラティノが再放送中だ)。アルゼンチン製のクライム・ドラマといえば、真っ先に思い出すのはなにをおいても2002年アメリカ公開の「ナイン・クイーンズ」だ。どうもアルゼンチンでは刑事/犯罪ドラマの質が高いらしい。どうやらむこうは結構治安がよくないらしいからこの手のドラマが発達したと考えるのは穿ちすぎか。


そして現在、また新たな南米産ドラマ、それもブラジル産のドラマがアメリカに初お目見えした。ポルトガル語のドラマ・シリーズが、たとえサンダンスというやはり映画専門チャンネルといえども、スペイン語スピーカーにではなく、ネイティヴのアメリカ人に向けて放送されるというのは史上初めてのことではないか。むろん吹き替えではなく、英語の字幕つきだ。


その番組、「シティ・オブ・メン」がそれなりに注目を浴び、アメリカで放送されることになった経緯が、製作者の一人が、「シティ・オブ・ゴッド (City of God)」を撮ったフェルナンド・メイレレスであるという事実によることはほぼ間違いあるまい。そのタイトルの類似からも予測できるように、「シティ・オブ・メン」は、「シティ・オブ・ゴッド」と交錯する、同じ役者が登場する、似たようなテーマを扱った、いわば「シティ・オブ・ゴッド」の姉妹編であると言っても差し支えない番組なのだ。映画好きなら、「シティ・オブ・ゴッド」、そして昨年の「ナイロビの蜂」を撮ったメイレレスという名前を聞くだけで、ほとんど反射的に身体が反応するはずだ。これは気になる。


「シティ・オブ・メン」は、「シティ・オブ・ゴッド」同様2002年製作の番組だ。「シティ・オブ・ゴッド」アメリカ公開は2003年であり、「シティ・オブ・メン」も2002年製作とはいえ、地元でも放送は2003年であるらしい。私は最初、「ゴッド」が世界中から好評をもって迎えられたことが、「メン」が製作された理由だと思っていたのだが、もしかして最初から映画とTVの両ヴァージョンを製作する意図があったのかもしれない。いずれにしても、映画の世界的成功がTV版製作に当たっても追い風となったに違いない。


とはいえ実は、こういう製作裏話の情報を仕入れようとサンダンス・チャンネルのHPにアクセスしても、サンダンスはただアメリカでの放送権を獲得しているだけで、同チャンネルのオリジナル番組というわけでもないため、大した情報がない。それでIMDB経由でオリジナルの番組サイトにアクセスしてみたら、ポルトガル語のみのHPで英語情報がないため、今度は何が書かれているやらさっぱりわけがわからなかった。むしろ情報の信頼性はともかく、IMDBの個人評を読んでいる方がそれなりに情報を得られたりする。英国では既に放送済みであるようだ。


「シティ・オブ・ゴッド」と「シティ・オブ・メン」で最も異なるのは、まず、共に群像劇とはいっても、「メン」の方にはアセロラとラランジンハという明らかな主人公がいる点にある。アセロラを演じているのがダグラス・シルヴァ、ラランジンハを演じているのがダーラン・クンハで、二人とも「シティ・オブ・ゴッド」にも出ているが、そこでのキャラクターとここでのキャラクターはまったく別人だ。リオのスラム、ファヴェラ地区に住むロウ・ティーンの少年という点では一緒なのだが、「ゴッド」ではどちらかというとギャング団との関係から抜けられず、むしろギャングに憧れていた少年といった役柄が、「メン」では、ギャングの仕切る社会で、これまでに培った自分の知恵と勇気を駆使して強くたくましく生きる少年、みたいな性格づけになっている。


番組の冒頭ではいきなり学校の歴史の授業でナポレオンについて学ぶアセロラとラランジンハが登場するため、私は既にそこで、おおっ、こいつらって学校に行ってたのかとびっくりしてしまった。考えたら「ゴッド」にだって専門学校みたいなところに行っている登場人物もいたわけだが、それは一応ハイ・ティーンになってからの話で、ガキどもが義務教育の学校に通っていたなんてシーンは見た記憶がない。それとも私が忘れているだけか。そしたら「メン」ではどうやらアセロラもラランジンハも真面目に学校に通っているようだし、番組第1回の内容は、彼らがそもそもその学校が主催する郊外学習に参加するのが待ち遠しくてしょうがないという話だ。なんだ、ファヴェラに住んでいても結局は世界共通のガキじゃないか。しかし、こいつらってなんで授業中こんなにうるさいんだ。


しかし仮にもリオのスラムの話である。学校で郊外学習にかかる費用が6.5レアルくらいかかるといわれて、アセロラの家もラランジンハの家も、でははいそうですかとすぐにその6レアルが調達できるわけではない。1レアルがだいたい50円として300円から350円くらいであるわけだが、ブラジルの平均月収がいくらくらいかは知らないが、収入の道のない子供、さらにファヴェラに住む子供たちにとっては、すぐに用意立てできる金額ではない。そこで二人とも大人にうまくとりいって小金をせびるわけだ。


面白いことに、アセロラの家もラランジンハの家も、ほとんど大人がいない。アセロラの家では、一応母らしき人物がいることはいるが、どうもその母は誰かのおめかけさんか、あるいはシングル・マザー、もしかしたら身体を売って生計を立てている節が見てとれ、結局アセロラはそこへ現れた、よく関係のわからない大人の男から金をもらうのだ。しかもちゃっかりと本当の金額より大目の額を請求して、あまった差額を母に逆にお小遣いとして渡してあげたりしている。しかもその間中、カメラはアセロラを映しはしてもほとんど母は映さないため、後でこの母がどんな顔だったか思い出そうとしてもまったく不可能だ。


一方のラランジンハの家では、登場する大人は祖母一人のみである。両親は生きているのか死んでしまったのかすらもわからない。ラランジンハはその祖母のタコス作りのようなものを手伝って市場に売りに行き、ついでに祖母が必要とする薬を買いに行って、その釣りをお駄賃としてもらう。いずれにしても、ここでも大人らしい大人はいない。祖母は薬がなければ私は死んでしまうからねといってラランジンハが金をくすねていかないよう脅すのだが、それは脅しになっていないような気もする。要するに、どちらの家でも大人の印象、影響は小さく、アセロラもラランジンハも、自分たちの生活は自分たちの力で乗り切っていかなければならない。


アセロラがせっかくそうやって得た金も、先生に渡す前に下っ端ギャングに掠めとられてしまう。金だけでなく、殴られ蹴られ、絵が好きなアセロラが絵を描くのに必要な定規まで折られてしまう。泣きながら鉛筆を拾い集めるアセロラ。そこでラランジンハは単独、ギャングの上の者に話をつけに行く。ほとんどまだガキにしか見えないギャングであるが、それでもそれぞれが火器を持ち、いつ裏切りが起きるかわからないため、誰もボスの居所を知っている者はいない。上の者ですらウォーキー・トーキーでボスと連絡をとるのだ。そこでラランジンハの機転と度胸によって、アセロラは無事金を取り戻す。


二人はラランジンハの祖母の薬を買いに山のふもとの薬屋まで降りていくのだが、そこでギャング団の抗争が勃発する。銃を撃つ音が聞こえると、いきなり薬屋の主人は走っていって店のシャッターを下ろすのだ。もちろん薬屋だけでなく、他の全部の店もそうだ。そうやってひっそりと店の中で嵐が通り過ぎるのを待って、ギャング団がいなくなったと思ったらまた店を開ける。それまでは買い物客は同様に店の中で息を殺して待っていなければならない。


困ったことにラランジンハの家は山の上にあって、いったん抗争が始まるとすべての道がギャングによって封鎖されてしまうために、家に帰れない。もしかしたら本当に祖母は薬がないために死んでしまうかもしれない。どうしよう。知恵を絞って山の上にたどり着く方法を考える二人。無事祖母に薬を手渡すことができるのだろうか。


いやあ、こういう設定って、世界中探してもリオのスラムが舞台じゃないとまるで説得力がないと思えるが、ファヴェラを舞台にしただけでいきなり話に真実味が出てくる。そういう町なのだ、実際。あばら家と迷路で構成され、しかも高低差があるファヴェラというスラムは、ある意味、実に絵になる。ここでは何が出てきてもまったく驚かない。町が本当の主人公と言ってもいいくらいだ。


一方、表向きの主人公アセロラとラランジンハは、こういう世界で生活しているため、他人より早く大人にならないと生きていけない。人より早く成長できるかどうかは、ファヴェラでは生き死ににかかわるのだ。つまり、アセロラとラランジンハという主人公を持ったことによる、「メン」と「ゴッド」の最大の相違はここにある。実際、タイトルが示していることが、そのことに他ならない。頭上から地表にうごめく蛆虫のような人間どもを俯瞰した印象のある「ゴッド」に対し、「メン」では視点が地表にいる二人の少年にフィックスされていることにより、彼らが成長する様を映し出すことになる。つまり、彼らは経験から学習するのだ。


このことが結果として「ゴッド」と「メン」でかなり異なる肌触りを与えている。先のない世界に生きる者の暗い情念や諦念、あるいはケ・セラ・セラの爽快感、だからこその盛大な生の一瞬の燃焼が見る者を圧倒した「ゴッド」に対し、学習して先に進み、よりよい生活、成長した大人に一歩一歩近づいていく「メン」は、主人公が時にかなり悲惨な状況を経験するとはいえ、そこから受ける印象は前向きの民主主義的なドラマである。番組第2回では、ちょっとラランジンハと喧嘩したアセロラが最後ではそのことで学習し、相手を許し許されることを覚え、また一つ大人になる。これは「ゴッド」にはなかったものだ。


要するに、こういった肌触りをどう受け取るかが、人が番組をどう評価するかの基準となるだろう。「ゴッド」の負のパワーに圧倒された者は、実はスラムを舞台にしてはいても、その本質は前向きなアセロラとラランジンハの成長物語である「メン」に対し、ある種期待はずれだと思うかもしれない。実は、私が多少そうだった。むろん番組が面白くないわけではないのだが、成長なぞしなくてもよいから、燃え尽きる一瞬の生の燃焼を見せてくれと思っていたわけだ。しかし考えたら、ファヴェラを舞台にそういう番組にしたらあっという間に主人公が死んでしまい、シリーズ化などできなくなってしまう。というわけで、こういう設定にするしかなかったのだろう。それでも、このくらい来てる番組はアメリカではめったにお目にかかれないのは事実だ。こういう場所に生まれなくてよかったと思う反面、こういう場所で生きることに憧れる者も結構いるんだろうなと思う。  





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City of Men (Cidade dos Homens)


シティ・オブ・メン   ★★★

 
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