Casino Royale   007 カジノ・ロワイヤル   (2006年11月)

殺しのライセンスを持つ00 (ダブル・オー) ステイタスを与えられたジェイムズ・ボンド (ダニエル・クレイグ) だったが、マダガスカルのミッションで丸腰のターゲットを撃ち殺した瞬間が監視カメラにとらえられ、世論の非難を浴びる。M (ジュディ・デンチ) の完全な信頼を得られないまま、ボンドはお目付役のヴェスパー・リンド (エヴァ・グリーン) と共に、テロリストの金庫番と呼ばれるル・シッフル (マッツ・ミッケルセン) が資金獲得を画策する、高額のポーカー・ゲームに参加する任務を与えられるが‥‥


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007シリーズ最新作は、過去一度映像化されている「カジノ・ロワイヤル」のリメイクである。とはいえ67年版「カジノ・ロワイヤル」は、デイヴィット・ニーヴンやピーター・セラーズ、オーソン・ウエルズにウッディ・アレンまで登場する常軌を逸したコメディであったから、やはり今回の映像化はリメイクというのではなく、まったく新しい「カジノ・ロワイヤル」と言ってしまっていいだろう。


新しい第6代007には、ピアース・ブロスナンに代わってダニエル・クレイグが抜擢された。「エリザベス」や「ロード・トゥ・パーディション」にも出ているそうだが、記憶にない。それよりも「トゥームレイダー」「ミュンヘン」、私にとってはなによりも自分の母と同じ歳頃の女性といい仲になる「ザ・マザー」で覚えている。


それにしても007シリーズというのは不思議なシリーズだ。金をかけたアクション・シークエンスがあるのはわかりきっているが、もちろんそれだけで皆が面白そうと思うわけではない。私の女房なんて、やっぱりアクション・シークエンスは面白いよと私がどんなに力説しようとも、窮地に陥った登場人物が常に余裕たっぷりのアクションなんて、まったく面白くないという。どんなに窮地に陥っても、余裕をかまして気の利いたセリフの一つや二つ言うところに面白さがあるはずの作品にそういう評価を下されたら、こちらとしては返す言葉がない。


007は今回のクレイグが第6代目であるわけだが、その誰がいいという意見は人それぞれが持っているだろう。しかし、だからといってそのことが特に興行成績に直結しているわけではない。主人公の首のすげ替えを観客が気にしない、あるいは主人公を違う役者が演じることが楽しみの一つになっているというのは、これはもう作品がレパートリー作品、つまり古典の域に達しているからに他ならない。007が毎回いつも新テクノロジーやガジェットを強調して時代の先端を行っていることを強調するのは、そうしないと本当に肌触りが古典になってしまうからだと思われる。


一方、今回の「カジノ・ロワイヤル」は、時代設定が読みにくい。携帯を何度も使い、その使い方がかなりストーリーに絡んでくるから現在だとわかるし、アストン・マーティンのニュー・モデルや列車のデザイン、MI6の本部やMの私邸のコンピュータがノート・ブック・タイプということからも今の時代だとはわかるのだが、それでも背景が発展途上国やカリブ湾沿い、古いヨーロッパと今イチ時代を読みにくいため、なんとなく昔のそもそもの007という物語の発端かと思いそうにもなる。


さらに今回、毎回007にガジェット武器を与えていたQという存在が登場しないことが、時代が読みにくい最大の理由の一つとして挙げられる。だいたい、今回のアストン・マーティンの秘密兵器は何かとそれが現れるのを今か今かと楽しみに待っていたのに、グローヴ・コンパートメントから現れた最新ガジェットは、よりにもよって心臓に電気ショックを与える医療機器だったというのは、なんか騙されたような気がする。結局アストン・マーティンは空も飛ばず海にも潜らず、あっけなく横転、大破してしまうのだ。


そしてそういう諸々の事情にもかかわらず、作品の設定自体は007が昇進してダブル・オー・ナンバーを手に入れる話というので、思わず初代「カジノ・ロワイヤル」と同じ時代かと思いそうになってしまうのだ。きっと00ナンバーはその番号を持っていたエージェントの引退に合わせて永久欠番になるわけではなく、今の007が引退したら次の007がその地位に収まるんだろうというのはわかるが、そうしたら名前までジェイムズ・ボンドに改名しないといけないのか? どうもシステムがよくわからない。


その、きっと誰も完全にそのシステムを理解していない、きっと製作者すらその辺の設定はなあなあで済ましているのではと思えるものを、観客はこれまた自分の好きなように解釈して楽しんでいるというのが007シリーズだ。その間口の広さによって観客がかなり好きなように個人的に楽しめるところが、007シリーズがこれだけ長期にわたって、主人公が代わっても特に大きな影響を受けることなく続いてこれた理由だろう。危機に際して余裕をかますというのも、そこにジョークや笑いを差し挟めるということであり、通常は観客を楽しませるという点ではプラスに作用する。もちろん、私の女房のように感じる人間も確かにおり、その場合は、しようがないというしかあるまい。すべての人間を等しく楽しませることのできる作品というのはこの世に存在しない。


「カジノ・ロワイヤル」はオープニングからエンディングまで、かなり生身のアクションが多い。オープニングのヤマカシ的アクションは、今回は生身のアクションが主体であることの宣言ととれるし、実際、そうなっている。一時舞台が深海や宇宙になってSF化し、どんどん007がスーパーマン化していった時代とは大きく異なっている。作品のクライマックスの一つは、アクションというよりは演技力、表情で魅せるポーカー・ゲームなのであり、拷問を受けた007は、当然強がってジョークの一つ二つは飛ばすのだが、それは余裕の賜物ではなく、意地の張り合いの結果だ。その脂汗は本物であり、007はその後、リハビリのために療養しなければならない。007は生身の人間だったのだ。


そういう、クレイグの007がこれまでの007と異なっているのは、たぶん最もシニカルでシリアスであるというところにあろう。さらに前述した、007のガジェットとお笑い担当であるQという存在がいないことも、今回の007がもっとシリアス・タッチになっていることに貢献している。その上、生身のアクションとポーカー・ゲームに代表される内面アクションの多用、そしてさらにはそのために諜報エージェントという職を辞めようとまでする本気の恋愛まで絡んでしまう。その結果、今回の007が最も想起させる、あるいは少なくとも印象として近いと思わせるのは、初代「カジノ・ロワイヤル」ではなく、ジョージ・レーゼンビーが一度限り007に扮した、「女王陛下の007」だ。


むろんクレイグはレーゼンビーほど内省的な雰囲気を持っているわけではなく、一見した印象としては、どちらかというと初代007のショーン・コネリーに最も近いと思わせる。コネリーをもっとシリアスにするとクレイグが持つ雰囲気に近くなるのではないか。いずれにしてもそのため、クレイグの007は近来のやや軽めのタッチを意識した007からはかなり方向転換しているが、そのことが「カジノ・ロワイヤル」とは噛み合ったという印象を受ける。新007俳優の起用は、かなり吉と出たようだ。そして忘れてはならないボンド・ガール (と言えるか?) のエヴァ・グリーン。世界を視野に入れ、子供も見る作品のため、今回はベルトルッチの「ドリーマーズ」のようにヌード姿をさらすわけではないが、その色香は隠しようがない。今回の007は、なかなか満足させてくれるのだ。  







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