Bright Star


ブライト・スター  (2009年10月)

19世紀ロンドン。ファッション・デザイナーを目指すファニー・ブローン (アビー・コーニッシュ) の隣人に、詩人ジョン・キーツ (ベン・ウィショウ) がいた。最初は特に気にもしていなかったが、キーツの友人チャールズ・ブラウン (ポール・シュナイダー) を通してキーツとも親しくなり、キーツに詩を習っていたりするうちに、いつしか二人の間には激しい恋が芽生える。しかし売れない詩人であるキーツには、たとえ結婚してもファニーを食わせていく余裕はまったくなく、当然の如く二人の間柄に周囲は反対する。しかしそのことは二人の情熱を燃え上がらせることにしかならなかった‥‥


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正直言うとキーツの詩はほとんど読んだことはない。私とはまるで畑違いのジャンルとしか言いようがないし、それでも昔は少しはロマンティックと言われる詩や小説を読んでみた時もあるが、だいたい、恋愛詩だとかロマンティックな小説を書く輩に限ってその実生活は散文的だったりするので、なんとなく裏切られたような気がする。全部が全部そういうわけではないが、そういうやつが書いた作品の方が印象に残ったりするので、なおさら癪に障る。


もちろん私はエドガー・アラン・ポーのことを言っている。ついでに言うとモーツァルトもそうだった。彼らは彼らが想像する作品がすべてだったので、だいたいにおいて金銭面に疎く、いつも貧窮して金策に喘いでいるか、あるいは金があればあるで、その金を浪費するのが関の山だった。


むろん、そういう風に世俗を超越していたからこそ歴史に残る作品を生み出すこともできた。とはいえ、周りで振り回される者たちは堪るまい。あるいは、往々にして窮乏生活を強いられる中で、それでもロマンティシズム溢れる作品を生み出したことを誉め称えるべきなのかもしれない。明日のパンが手に入るかもよくわからない生活の中で、ロマンティックな作品を生み出すことのできる頭の回路というのは、余人を超越している。


「ブライト・スター」で描かれるキーツも、ほとんどそういう類いの人間だった。金よりも詩作を優先するから、どうしてもそうなる。そしてそういう人間と恋愛関係に陥ったり結婚したりする相手が苦労するのもまた、定石通りだ。


キーツは、ほとんど読んだことがないから、今ではロマンティック詩人の代表として評価されているという映画のエンド・クレジットを信じるしかないのだが、少なくとも特に詩に詳しいわけではない私だって名前くらいは知っていたわけだから、よく知られている詩人というのは間違いないだろう。


結核のために旅先で夭折したロマンティック詩人。19世紀、あるいは20世紀前半まではそういう存在が許された。今では結核では人は死ねないし、よしんば万が一結核で死んだところで、身体が弱いというイメージよりも、よほど金がないという貧乏くささの印象の方が先に来るだけだろう。今結核で死んでも、ロマンティシズムのかけらもない死に損だ。


実はロマンティシズムとという言葉ですぐに思い出すのは、まだ年端も行かない少年とセックスして身ごもり、性犯罪者として7年半も刑務所入りしてスキャンダルを提供した小学校教諭のメアリ・ケイ・ルトーノーだったりする。どこがロマンティシズムかと言われそうだが、ほとんど社会通念や道徳というものを無視して相手のことを一途に思いつめた心情は、かなり夢見る少女という印象を受けた。目がキラキラして黒目の中に星があるのだ。これは少女マンガそのままではないか。


一方、ジェイン・カンピオン描くところの人物は一途に思いつめることが多く、ややもするとストーカー的印象を与えることも多い。「ピアノ・レッスン (The Piano)」のハーヴィ・カイテル、ホリー・ハンター然り、「ある貴婦人の肖像 (The Portrait of a Lady)」のニコール・キッドマン然り。結局ロマンティシズムは空想、想像力に多くを負っているため、地に足の着いた恋愛というよりも一人走りしやすい性質を持っていると言える。ロマンティストと身勝手な一人よがりは同じコインの裏表だ。どちらが前面に出てくるか、どう評価されるかはほとんど時の運だ。メアリ・ケイ・ルトーノーは、時が時なら世間の圧迫に負けず愛に殉じた聖女とみなされたかもしれない。


「ブライト・スター」では、どちらかというとキーツの方がやや突拍子もない行動に走る時があり、その恋人となるファニー・ブローンが’まだ良識人のように見えるが、それでも胸の中に熱いものを抱えているという点ではこれまでのカンピオン作品の登場人物と変わるところはない。これは私が男だからということもあろうが、断然キーツよりブローンの一挙手一投足の方が気にかかる。これだけ好かれてもらえれば男冥利に尽きるだろう。


ブローンはややぽっちゃり、とは言わないまでも、いかにもその時代を描いた作品に登場しそうな、スレンダーな体型で造型されてはいない。むしろ母性的なこの体型の方がその時代に多かったというのはありそうな気もしないではなく、実際にブローンはそういう体型だったという時代考証があったのかもしれない。こちらは完全に痩せぎす (結核持ちの病人だから当然だろうが) のキーツと視覚的に対照をなしていて印象に残る。この二人がもし結婚して後あとまで一緒に過ごしたなら、キーツはたぶん中年になったらもっと肥えたに違いないブローンの尻に敷かれたことは間違いないだろうなと、妄想をたくましくしてしまった。キーツを演じるのが「パフューム ある人殺しの物語 (Perfume: The Story of a Murderer)」のベン・ウィショウ、ブローンを演じるのがアビー・コーニッシュ。キーツの友人チャールズ・ブラウンを「パークス・アンド・レクリエーション (Parks and Recreation)」のポール・シュナイダーが演じている。


カンピオンは、恋が成就するとかしないとかいうより、人を思うということそのことだけに感応しているようだ。そのためそれが悲恋や実らない恋に終わったりしても、そのことが特に悲劇的印象を残さないし、逆に成就しても今度は特に仕合わせいっぱいという感じにもならない。特に明るい未来も真っ暗な未来も感じさせない。ただ、人を思うという感情の昂ぶりに圧倒されるだけだ。


こういう姿勢は、もう中年になってしまったおっさんにはちょっと眩しかったりするのだが、だからといってそういうロマンティシズム溢れる作品が嫌いかというと、実はそうでもない。いつだったかアンドルーシャ・ワディントンの「ザ・ハウス・オブ・サンド (The House of Sand)」を見た時も、それでショパンづいてしまい、その後しばらくショパンのノクターンばかり聴いていたことがある。どちらかというと私の場合、ロマンティシズムに浸るというよりも、そういうロマンティシズムを信じて疑わない作り手に引っ張られるという感じなのだが、それはそれで時にはそういうのも、なんかこそばいながらも楽しい体験だったりする。








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