放送局: FX

プレミア放送日: 3/8/2006 (Wed) 22:00-23:00

製作: アクチュアル・リアリティ・ピクチュアズ

製作総指揮: R. J. カトラー、アイス・キューブ

出演: ブルーノ・ワーグル、カーメン・ワーグル、ローズ・ワーグル、ブライアン・スパークス、ルネイ・スパークス、ニック・スパークス


内容: 白人一家のワーグル家と黒人一家のスパークス家が最新メイキャップによって白人と黒人の位置を入れ換えて生活し、周りの反応を確かめてみる。


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別に今さら言うまでもなく、アメリカにも当然の如く人種差別は存在している。私個人の意見を言うと、差別はまず区別することから起きる以上、特に見かけの上では完全に異なる白人と黒人間で、近い将来に差別が完全になくなることはないだろうと思う。まったく外見は異なるのに、そこに個人的な好き嫌いや性癖が関係してこないことの方こそおかしいと思う。


とはいえ、それが陰湿な差別やいじめのようなことになると、やはり問題だ。ニューヨークのような都会に住んでいると、知人の人種をいちいち区別差別するのがバカらしく思えてきたりするくらいヴァラエティに富んでいるし、都会では忙しい日々の生活をつつがなく送っていくことの方に精一杯で、少なくとも表向きは人種差別を特に意識することはあまりない。とはいえ、ちょっとした区別や差別がまったくないわけではないことは誰しも経験しているだろう。


今年アカデミー賞の作品賞を獲得した「クラッシュ」は、LAのような都会でも、やはり人種差別は根強く存在するということを、白人黒人間だけでなく、アラブ系を含めて描いた作品だった。表向き人種差別を感じにくい都会で、差別する側の白人から見ても時に人種差別を感じることがあるほど、差別は存在しているわけだ。


しかし、いったい、どのように? 差別というのは、いったい、いつ、どこで、どのようにして発生し、感得するものなのか。また、差別する方とされる方との間で、意識の違いはないか。もしかしたら一方から見て差別と思われることが、もう一方から見るとまるでなんでもないことかもしれない。果たして、客観的に差別の中味を具体化して把握することができるのだろうか。


そういう疑問に答えるべく製作されたのが、この「ブラック.ホワイト.」だ。現代ハリウッドの最先端のメイキャップ技術を用いると、白人を黒人に、黒人を白人に見せかけることができる。100%完璧とは言えないが、一見しただけではだれも見分けがつかないくらいのメイクならお茶の子さいさいだ。このメイク技術を用い、白人一家を黒人に、黒人一家を黒人に仕立て上げて社会生活を送らせることで、彼らがいったい自分の本当の人種でいた時とは別種の周りの人々の反応‥‥すなわち差別を受けることがあるのかを検証させる。



その二組の家族として選ばれたのが、白人家族のワーグル家と、黒人一家のスパークス家だ。ワーグル家は家長のブルーノ、妻のカーメン、ティーンエイジャーの娘ローズという家族構成で、一方のスパークス家は、ブライアン、妻のルネイ、ティーンエイジャーの息子ニックという、どちらも夫、妻、その子という3人家族だ。ブルーノは白人といっても剃髪で彫りが深いため、黒人メイクがしやすかっただろうというのも、彼とその家族が選ばれた理由の一つだろう。


一方、ブライアンの方は、黒人といっても真っ黒ではなく、かなり色は薄い方だ。そのため彼も白人メイクはやりやすいだろうと思われる。その他、カーメンとローズは、完全な白人であるのにもかかわらず、いかにも黒人っぽく変身できている。それに較べるとメイク後のルネイとニックは、完全な白人というよりも、どちらかというと白人に近いラテン系、つまり南米の白人的な印象を受ける。やはり色は濃くするよりも薄める方が難しいようだ。


番組ではその変身したワーグル家とスパークス家を、6週間同じ屋根の下で住まわせ、各自が体験したことを話させるという体裁をとっている。ブルーノは中古車売り場で車を物色し、店員がどういう反応をとるかを隠しカメラがとらえる。ブライアンは、ほとんどの客が白人で占められているスポーツ・バーにバーテンダーとして求職し、働き始めて客の反応を窺う。カーメンやルネイはショッピングをしたりしながら周囲の反応を試し、ローズは黒人中心の詩の朗読グループに入ってみるという具合だ。


一般的に言って、差別というのはする側よりもされる側の方が敏感だ。それはワーグル家とスパークス家も例外ではない。そしてどうも、彼らが見かけ上の人種を交替しても、どうやらいったん身についてしまったそういう印象は簡単には翻らないようだ。例えばブルーノは、白人として中古車売り場に立っても黒人として中古車売り場に立っても、店員の対応は同じだったと言えば、一方のブライアンは、黒人として行った靴売り場と白人としていった靴売り場の店員の対応はあからさまに違うと言う。ま、それはどちらかというと、黒人と白人という違いよりも、この時ブライアンが買おうとしたシューズがゴルフ・シューズだったため、黒人白人ということよりも、一応ゴルフをたしなめるようなステイタスのある人間ということに対して店員が反応した結果かもしれない。


黒人化したブルーノと変装していないブライアンが二人で一緒に町を歩いてみても、ブライアンはすれ違う白人の視線や反応は、黒人に対するそれと白人に対するそれとは違うと主張するのに対し、ブルーノは何が違うのかさっぱりわからないといった具合で、うーん、ブライアンをはじめとする黒人が幼い時から刷り込まれてきた被害者意識のようなものも、少しくらいは関係しているかもしれないなとは思う。少なくとも自分自身を例にとると、町を歩いていて向こうから歩いてくる人間が黒人か白人かでこっちが何かしら異なる反応をとるということはまるでない。あんたの意識下で自分でも知らないうちに異なった反応をとっていると言われればそれまでだが、しかし、そこまで言う方が気にしすぎなんじゃないかというのが大方の普通の反応だろう。


しかしこの手の話、しかもなにやら都市伝説めいた話として、白人やアジア系は本能的に黒人に恐怖感を持っている、というのがある。なんでこんな話が流布してしまうのかわけがわからないが、実際にそういう話がある。TVを見ていても、ドラマの中で登場人物がそういう話をしていたりするのだ。そのドラマの中で、二人組の黒人が通りを歩いている白人とすれ違う時に、いきなり大声を出して驚かすというシーンがあった。そうするとドラマだから、白人は大いにびびって逃げ出す、みたいな演出になっていたのだが、そのドラマを見た翌日、まったく同じことを道を歩いている時にやられたことがある。


その、やはり二人組の黒人は、私がびっくり仰天するのを期待していたんだろうが、いきなりそばで大声を出されると、そりゃびっくりするが、だからといって我先考えずに逃げ出す、なんて普通の大の大人がするわけがない。私が何、こいつら、という感じでじっと見つめていると、あれ、こんなはずでは、という感じのその二人組は、笑いながらそっちの方が逃げ去っていったのだが、要するに彼らも、自分たちは怖れられているのかということを実地に検証したかったんだろう。


実はこういうと本当に差別的と言われてしまうかもしれないが、夜、街灯の光があまり届かない暗闇で、暗い色の服を着た特に色の黒い黒人に黙って佇まれていたりして、しかも最初そのことに気づかず、はっとそばを見ると目の白い部分と白い歯だけが暗闇にぼっと浮かんでいたりすると、これは本当にびびって飛び上がったりする。これは本当にかなり怖いのだ。黒人だからというよりも、暗いところを怖れる人間の本能の反応みたいなものだが、要するに、黒人が怖れられている、みたいな都市伝説は、こういう部分を刺激するから生まれてくるのだろう。


番組の話に戻るが、私自身は特に黒人が排斥されているとも感じないのだが、とはいえ、確かにバーでブライアン相手に白人至上主義的な意見を堂々と述べる輩もおり、そういう奴が身近にいたらやってらんないと思うだろうなとは確かに思う。別に差別は感じないと堂々と口にするブルーノやカーメンも、今度はちょっと傲慢系な印象を受けるのも事実だ。あんたらはもしかしたらあまりにも鈍感なのかもしれない。当然、根本の意見が違うブルーノ/カーメンとブライアン/ルネイのカップルは、意見が対立し、時には議論というよりも感情的な言い合いになったりする。そういう時に白人のカーメンの方が簡単に激昂して泣いてしまい、黒人のルネイがこれだからアマちゃんの白人は、的な冷徹な視線を向けるのが、またいかにも白人と黒人って感じなのだが。


実際、ラップなんかを見てもわかる通り、黒人に議論、というか罵り言葉を吐かせると、かなり太刀打ちできない。ローズは黒人として詩の朗読グループに参加するのだが、一応予習みたいのはしているとはいえ、何も見ずにほとんどアドリブで韻を踏みながら次々と言葉を紡ぎ出す黒人ティーンエイジャーを見ていると、黒人がラップというジャンルを生み出したことを素直に納得できる。あんなの真似できないよ。当然ローズも呆気にとられるのだが、しかし、実のところローズとニックは、最初こそ戸惑うが、すぐに慣れ、お互いにかなりうまく人種の異なる世界に順応しているという感触を受ける。


ローズは大変大変といいながら、結構そつなく黒人としての生活をこなしているように見えるし、実は最も口数が少なく、番組で最もカメラに収まる時間の少ないスパークス家のニックこそが、最もこの人種交換実験に順応しているように見える。彼は単純に白人になった自分を楽しんでいるようだ。別にそれでいいんじゃないかと思う。彼らだけを見ていると、案ずるより生むが易し、みたいな印象を受ける。もちろん歳をとると、人間というのはそうも言ってられなくなるんだろうが。


とまあ、それなりに面白くないわけではない「ブラック.ホワイト.」であるが、しかし、出演者をわざわざ別の人種に変身させる以上、本当は町中で彼らをとらえる時は、すべて隠しカメラでなければならないのは当然だ。そばにカメラを抱えた人間がいる場合に、人が本心を見せるわけがないのはあまりにも明らかだからだ。そのため、確かにいくつかのシーンでは隠しカメラでブルーノやブライアンを追っているのだが、そうでない場合も多い。そういう時に、カメラを意識している人間の言動のどれくらいが真実かなんて、見る方にはまったくわからない。そのため、実は屋外でブルーノやブライアンをカメラが追うシーンのいくつかには、見ていてあまり信憑性はないなと感じるのも多い。つまり、ブルーノやブライアンやカーメンやルネイが違う人種に変身しているからといって、そのことに意味があるかというと、それは疑問というシーンも数多くある。


一方、夜、メイクを落として同じ屋根の下で食事し、寝泊りするワーグル家とスパークス家との議論や罵り合いも、どちらも言っていることはわかったりもするが、結局、で、それでその後、なんらかの事態の進展はあるかというと、はなはだ心もとない。最終的にはどちらも感情的になって、本筋が見えなくなってしまうからだ。二組の家族間の関係は、平行線、という感じがぴたりと来る。よくも悪くもそれが今のアメリカの実情なんだろう。


ただ面白かったのは、このことは「ザ・ブーンドックス」の項でも書いたのだが、現在、黒人同士の間では、お互いに親愛の情も含めて「ニガー」と言い合ったりするが、白人が黒人に対して「ニガー」と呼ぶことはない。一応、全社会的な観点から見ると、この言葉は死語だ。そこで、自分は黒人になったつもりのブルーノが「ニガー」と言ってみたりするのだが、その瞬間、場所が凍りつく。しかもそのことにブルーノは気がつかない。いや、ちょっと面白かった。やはり白人と黒人では文化の差、あるいは差別する側とされる側との差はあるのだな、しかもやはり差別する側の方が傲慢という図式は当たっているようだ。しかしルネイも、自分は自由に育てられたと言いながら被害者意識を逆手にとって白人を攻撃する節が見え隠れし、どうもこの女好きになれない。ま、それはカーメンだって似たようなもんだが。


製作総指揮のR. J. カトラーは、アメリカではわりと知られているドキュメンタリー・フィルムメイカーで、93年の「クリントンを大統領にした男 (The War Room)」が代表作だが、昨年のモーガン・スパーロックと一緒に製作した「30デイズ」という番組もある。とはいえ近年はどちらかというと失敗に終わった番組の方が多く、アメリカ大統領を選出するという触れ込みのショウタイムのリアリティ・ショウ「アメリカン・キャンディディト (American Candidate)」は完全にぽしゃったし、女優のローザンヌを追った「ザ・リアル・ローザンヌ・ショウ (The Real Roseanne Show)」はすぐにキャンセルされ、アメリカのごく一般的なティーンエイジャーとその一家を自分たち自身にとらえさせるという試みの「アメリカン・ハイ (American High)」は、視聴者がつかなくてFOXがキャンセルした番組を途中から公共放送のPBSが放送していた。つまり、よく知られてはいるプロデューサーとはいっても、あまり成功率は高くない。今回も、狙いは悪くなかったんだが、その実践で予定通りの効果を上げることには失敗しているという印象を受けた。  






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Black.White.


ブラック.ホワイト.   ★★1/2

 
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