放送局: IFC

プレミア放送日: 5/9/2005 (Mon) 21:00-23:00

製作: マヤ・フィルムス、フレッシュ・プロデュース・フィルムス

製作総指揮: アリソン・パーマー・ブロウク、エド・キャロル

製作: リック・ロス、マーシャル・パーシンガー

監督: ジャン・カサヴェテス

撮影: ジョン・ピロッチ

音楽: スティーヴン・ハフスタッター

編集: アイアイン・ケネディ


内容: 80年代の映画専門のペイTVチャンネル、Zチャンネルの伝説的プログラマー、ジェリー・ハーヴィを回顧する。


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現在、アメリカにおいて誰もが真っ先に思い浮かべる映画専門のペイTVチャンネルと言えば、まず9割方HBOだろう。ショウタイムとかスターズ! とかを考える人もいないことはないだろうが、少数派であることは間違いない。


私が渡米した91年当時、既にHBOはペイTV界の雄として業界に君臨していた。それまでは誰もが無料だと考えていたTVを見るという行為に対し、金を払うことに人々の抵抗感をなくさせたという点において、実はHBOは、それまでの価値観をひっくり返すほどの地盤変動をTV界に引き起こしたと言える。


しかし、そのHBOとほぼ時を同じくして、Zチャンネルという、HBO同様、ペイTVの嚆矢となったペイTVチャンネルがあったことは、私はこれまで知らなかった。「Zチャンネル: ア・マグニフィセント・オブセッション」は、その、今はなきZチャンネルのプログラマーとして名を馳せ、そして志半ばにして挫折して自殺した業界の先駆者、ジェリー・ハーヴィの行動と業績を辿る。


Zチャンネルは1974年、LAの映画専門チャンネルとしてスタートした。HBOが放送を開始したのが1972年、ショウタイムが1976年だから、ほぼ同時期に生まれた、ペイTV第一世代の一つと言うことができる。少なくともLA地域においては、サーヴィス開始が最も早かったZチャンネルは、80年代前半までは、HBO、ショウタイムを抑える、地域最大のペイTVサーヴィスだった。


もっとも、タイム・ワーナーが後ろについているHBO、ヴィアコム傘下のショウタイムが全米を対象にサーヴィスを展開しているのに較べ、それほど強力なバックボーンを持たず、常に身売りの危機にさらされて頻繁に経営母体を変えていたZチャンネルは、ローカルのペイTV以上のものではなかった。


一方、その頃ハーヴィは、ビヴァリー・キャノンというLAの芝居/映画兼業の劇場 (現在は既にとり壊されている) で、上映映画を決めるプログラマーとして働いていた。映画について膨大な知識と愛情を有するハーヴィは、その頃から既にこの業界では知る人ぞ知る存在だったようで、ビヴァリー・キャノンがサム・ペキンパーの「ワイルド・バンチ」のアンカット・ヴァージョンを上映すると決めた時、御大ペキンパー自らがそのフィルムを持ってハーヴィに手渡すために現れたという逸話が残っている。


ハーヴィはZチャンネルの熱心な視聴者だったが、経営基盤が弱く、プログラミングに一貫した方針のないZチャンネルが、80年にまた新しく身売りしてセレクトTV傘下に収まったのを機に、Zチャンネルのプログラミングに対する苦情の手紙を書く。ハーヴィは、自分ならどうするという企画をぶち上げ、その結果、ハーヴィはZチャンネルの編成担当として採用される。Zチャンネルの伝説はその時から始まった。


ハーヴィは徹底した作家主義でZチャンネルのプログラミングを組み、それはマニアックな映画好きから圧倒的な賛同をもって迎えられた。ハリウッド大作でもヌーヴェル・ヴァーグでもアジア映画でも、作家主義という視点から縦横無尽にプログラミングし、深夜にはソフト・コア・ポルノも編成した。そしてZチャンネルの評判が決定的になったのは、当時、史上最大の失敗作としてありとあらゆるところから酷評されたマイケル・チミノの「天国の門」の、それでも長すぎると言われた2時間半の公開ヴァージョンよりさらに長い、4時間のオリジナル・ヴァージョンを編成した時である。史上最低の映画をさらに2倍にした「天国の門」は、もちろん、コアの映画ファンからは熱狂的な支持と共に迎えられ、経営者は、失敗作が商売になることを知った。その後、いわゆる「ディレクターズ・カット」は一般名詞として世に定着する。


実際、Zチャンネル全盛時のプログラミング・ラインナップを見ると、商業主義を完全に無視した個人の思い入れや嗜好が横溢していることに圧倒される。ハーヴィが独断と偏見で選んだそれらの作品の一部を挙げてみると:


・ ドイツ時代のウォルフガング・ペーターゼンが撮った、オリジナルの6時間ヴァージョンの「Uボート (Das Boot)」

・ ライナー・ウェルナー・ファスビンダーの14時間ドラマ「ベルリン・アレクサンダー広場 (Berlin Alexanderplatz)」

・ ベルナルド・ベルトリッチの5時間半の「1900」

・ セルジオ・レオーネの4時間アンカット・ヴァージョンの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」


等、ネットワークのみならず、基本的に放送する作品の何の規制もないペイTVですら思わず放送をためらってしまいそうな長大な作品が並ぶ。基本的にTV (ネットワーク) で放送される映画はすべて2時間枠だった当時では、特にそうだったろう。それ以外にも:


・ 「イメージズ (Images)」ロバート・アルトマン

・ 「ロサンゼルス それぞれの愛 (Welcome to L.A.)」アラン・ルドルフ

・ 「兵士トーマス (Overload)」スチュアート・クーパー

・ 「マッド・フィンガーズ (Fingers)」ジェイムズ・トバック

・ 「ザ・デクライン (The Decline of Western Civilization)」ペネロペ・スフィーリス

・ 「インポータント・シング・イズ・トゥ・ラヴ (Important Thing Is to Love)」アンジェイ・ズラウスキー


等々の隠れた名作、失敗作、問題作等、そういう作品が存在していたのすら知らなかった、過去の歴史の中に埋没して忘れ去られていた作品や、たぶん当時は誰もが話題にしていただろうが、どこも放送できなかった問題作が並ぶ。たぶんこのうちのいくつかは、今後も決して映画の歴史を紐解いた教科書には載ることもない、ある意味では駄作、よく言って失敗作なのだろうが、しかし、そのプリントを、いったいどこに残っていたのを探し出してきたことやら、その情熱には頭が下がる。


番組内ではそれらの作品のクリップも紹介しているのだが、ハーヴィが腕によりをかけて選び抜いたそれらの作品の、さらに白眉のシーンを選りすぐったクリップ集は、単純に、これはすげえと思わざるを得ない。特に、これまで聞いたこともなかった作品から印象的なクリップが登場すると、こういう作品があったのかと、ただただ驚いてしまう。本当に、よくこういう埋もれていた作品を探し出して放送したものだ。映画に対する無償の愛がないと、こんな手間暇かかる遠大な仕事なぞ到底できまい。これらの作品がすべてノー・カット/コマーシャル・フリーで提供されたのだ。これは映画好きにはたまらないだろう。


「ザ・デクライン」のようなパンクの伝説的映画をイヴェント番組としてまず町の映画感を借り切って上映した時には、西海岸中のパンク・ファッションに身を包んだファンが挙って詰めかけたため、町は不穏な空気に包まれ、取り囲んだ警官隊と一瞬触発の状態になり、警察から二度とこの映画は上映しないでくれと頼まれたという。その日まで、一般の人は誰もそういう映画が存在することすら知らなかったのだ。


番組の中で何人ものインタヴュウイーが、Zチャンネルは毎日映画祭を開催しているようなものだったと述懐していたが、さもありなんである。クエンティン・タランティーノは、某著名レンタル・ヴィデオ店に行って、マニアしか知らないようなレアものを借りて見た時、冒頭にZチャンネルのロゴが入っており、ほとんどがZチャンネルの放送を録画したものだったという逸話を喋っていたが、要するに、当時のZチャンネルとはそういう存在だった。


ただし、これまたジム・ジャームッシュが述べているように、Zチャンネルは、その当時の西海岸にあったからこそ、一時我が世の春を謳歌することができたと言える。東の映画の都ニューヨークでは、昔からフィルム・フォーラムやフィルム・アーカイヴズ、MOMA、映像博物館等の、映画の歴史を勉強する上では欠かすことのできない商業非商業の上映施設が多くあり、その気になりさえすれば、Zチャンネルが放送しているような作品の多くを、それこそスクリーン上で見ることができた。さらに、当時のLAはHBOとショウタイムがまだ足場を築いていない時期であり、だからこそZチャンネルは、ほとんど競争を度外視してハーヴィ個人の嗜好を優先したプログラミングを組むことができたのだ。


ところで番組はそういうエキセントリックなハーヴィの横顔も紹介しているのだが、インタヴュウを受けた、元Zチャンネル従業員のある女性によると、彼女は、ある日ハーヴィに呼び出され、オレはあんたが吐いた空気が気に入らないし、あんたが歩く地面も気に入らないと言われてクビを宣告されたそうだ。もちろんこれが現代なら訴えられて100%負けるのは確実である。


一方、天職を手にしたと思えたハーヴィの幸運も、長くは続かなかった。なんとなれば、80年代も中盤になると、全国区のHBOやショウタイムが、その圧倒的経済地盤にものを言わせ、どんどんZチャンネルの加入者に侵食してきたからだ。いくらZチャンネルの編成が独特で映画ファンにアピールするものだとしても、それだけでは不特定多数の大衆をつかむことはできない。はっきり言って、通常の視聴者のほとんどにとっては、アルトマンの「イメージズ」やルドルフの「ロサンゼルス それぞれの愛」なんて聞いたこともない作品なんかよりは、昨年封切りされて大ヒットしたハリウッド大作を放送するHBOやショウタイムの方が断然魅力的だったのだ。


その結果、Zチャンネルはどんどん視聴者を失い始める。Zチャンネルはまたしても別会社に売られ、そして1987年10月19日の株式暴落によって親会社が消滅してしまう。ハーヴィはZチャンネルをケーブル会社のアメリカン・スペクテイターに身売りし、そこでZチャンネルは映画のみならず、ベイスボール等のスポーツ中継も放送することを了承させられる。もちろん、このことは従来のZチャンネル・ファンにとっても、スポーツ・ファンにとっても満足のいくものではなかった。


ハーヴィはZチャンネルを救うために粉骨砕身したが、結局、時代のあだ花とも言えたZチャンネルの時代は、既に終わっていた。絶望したハーヴィは、ペキンパーから贈られた銃でまず妻を撃ち、それからしばらくして自分の頭を撃ち抜いて死んだ。1988年、ハーヴィはまだ39歳だった。主のいなくなったZチャンネルは、その1年後にひっそりとサーヴィスに終止符を打った。


「Zチャンネル」監督のジャン・カサヴェテスは、名前を聞くとすぐピンと来るかもしれないが、ジョン・カサヴェテスとジーナ・ロウランズの娘であり、ニック・カサヴェテスの妹でもある。65年生まれでLAで育ったジャンは、それこそ多感な時代にZチャンネルを浴びるように見て育ったんだろう。ましてやあのジョン・カサヴェテスの娘である。Zチャンネルから多大な影響を受けたのは想像に難くない。「Zチャンネル」は、ハーヴィが自殺した時の心理状況については多くを語らない。なぜならば、この番組はジャンのZチャンネルに対する鎮魂歌であるからであり、Zチャンネルが同世代の人間に与えた影響を回顧し、今ではほとんど覚えている者のいないZチャンネルを今再び歴史の枠組みの中にとらえ直す試みであるからだ。そしてその試みは充分成功していると言える。






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Z Channel: A Magnificent Obsession

Zチャンネル: ア・マグニフィセント・オブセッション   ★★★1/2

 
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