Winged Migration (Le Peuple Migrateur)


WATARIDORI  (2003年5月)

「WATARIDORI」(センスいいのか悪いのかよくわからないタイトルのつけ方だが) は、読んで字のごとく渡り鳥に密着してただその姿だけを追ったドキュメンタリーである。実はこの種の題材はナショナル・ジオグラフィック・チャンネルやディスカヴァリー、あるいはPBSの「ネイチャー」などでよくやっており、正直言ってなにもわざわざ劇場まで見に行かなくてもと思わないこともなかったのだが、予告編でスクリーンの上で見た鳥の姿がやはりTVよりも迫力があり、空を飛ぶのって気持ちよさそうだと思わせてくれたため、ついつい劇場に足を運んだ。


渡りを行う鳥は本能の赴くまま、あるいは餌がなくなってしまうという生死にかかわる要請によって壮大な遠征を行うのだが、しかし、私が最も気にかかるのは、彼らが南を目指して飛ぼうとする瞬間が、いったい何をきっかけとしているかにある。何をするにもその契機というものはあるのであって、特にこれから何週間も、ある時は飲まず食わずで何日間も空を飛んでいくというのは、簡単に隣りに遊びに行こうという感覚は異なる、自分自身の生というよりも、その種の存続を賭けた大いなる行動のはずだ。


それがある日ある時、隣りでさっきまでつまらなさそうに羽をばたつかせていた一羽が、ふと思い立ったように南だ! とばかりに飛び立ち、釣られてその回りにいた何羽かが編隊を組むのだろうか。何気ない一瞬の動きが、その後何日間と続く壮大な旅に連なるというのは、それはそれでロマンを感じないこともなく、人間にもある日ふと思い立って帰る期日なんか決めないで風来坊的な旅にでる者もないこともないが、しかし、やはり気持ちの準備ってものはなくてもいいの、と訊きたくなる。それとも徐々に、その日に向けて人知れず気持ちを盛り上げていたのだろうか。あるいはそのくらい屁のカッパだとか?


映画を見る限り、10羽くらいで編隊を組んで旅立つ鳥が最も多いようだ。(何千、何万羽も一斉に飛び立つ鳥もいたが、それらはまさかその数のまま海を渡るのではあるまい?)、長年にわたる試行錯誤の末に、それくらいが最も効率的ということになったのだろう。彼らはツール・ド・フランスのチームと同じように、いわゆる雁行の形をとり、交替で先頭を務めたり、しんがりになったりする。私は初めて自転車ロード競技を見た時、ああやって何度も何度も先頭に立って走る選手が交替することに意味があるのかなと思ったのだが、先頭に立つと、ただ風よけの役に立つだけでなく、その他のチームにも目配せして、速すぎず遅すぎず、ペース配分を考えながら先頭を走るのは、特に精神的に疲れるのだそうだ。


たとえ他に競争するチームがいるわけではなくても、やはり先頭に立った場合の責任というものは大きいのだろう。万が一間違ったルートをとって編隊ごと道をそれていった場合、海の上では全員道連れで死ぬしかなくなってしまう。その責任を考えれば、ただ後ろからついていくだけの方が圧倒的に楽だろうというのは、想像に難くない。ただし、もし道を誤った場合、後ろからついていったものが文句を言ってもすべては後の祭りである。自分から先頭に立って死ぬか、人任せで死ぬか、どちらにしても一蓮托生だ。私ならどちらをとるか。どちらも嫌だなあ。いや、別に死ぬことを前提に彼らが飛ぶわけではなく、多分ほとんどの鳥は無事渡りを終えるのだとは思うが。


それに彼らは、いったいどういう基準で一緒に飛ぶ仲間を選ぶのだろうか。彼らは家族なのだろうか。しかし、それがいつも渡りに都合のよい個体数になるとは限るまい。それとも本能にお告げによって飛び立った瞬間に、近くにいた者同士が編隊を組むのだろうか。「WATARIDORI」は、見ていて頭をもたげてくるそういう様々な疑問に答えてくれるわけではない。これはPBSの教育番組ではないのだ。観客は、ただ南を目指して力の限り空を飛ぶ様々な鳥に目を奪われていればいい。実際、エッフェル塔をバックに、あるいは世界貿易センタービルや自由の女神をバックに (ということはこの撮影は2001年9月以前であるわけだ)、編隊を成してセーヌの上を低空飛行で、あるいはイースト・リヴァー上を空高く飛んでいく鳥の群れは、かなり絵になる。


この作品の撮影は3年がかりだったそうで、さもありなんと思われる。ところどころ気になったのは、冒頭に出てきた少年と足に網の切れ端が引っ掛かった鳥、東ヨーロッパの工場地帯で重油にまみれた泥地から足が抜けなくなった一羽、等のドラマになった部分で、こういう撮り方はちょっとPBSくさい。ヤラセだろうが事実だろうが、こういう、ヘンにこじつけくさいドラマは、もしその鳥が最後どうなったかまでを見せることができないならば、むしろ邪魔に感じる。たった数か所しか入らないくせに大したこと言っているわけでもないナレーションも不要だ。よけいなセリフを入れないことによる詩情を狙ったのはわかるが、だったらそれを徹底してもらいたかった。


ついでに言うと、ニック・ケイヴを主体とする音楽も、私には押しつけがましく感じた。私が欲しかったのは、音楽によるドラマ性の付加ではなくて、多分時速100kmくらいで空を飛ぶ鳥たちの耳に聞こえるはずの風切り音の方だった。その方がもっと臨場感を感じたとは思うが、とはいえ、これは見る人、作る人の好みだろうから、一概にどちらがいいと言えるものではないが。


ところでこの作品では、ペンギンもその対象として撮影している。空を飛ぶわけではなくても、泳いだり (それでも彼らは鳥なのか?) えっちらおっちらと歩いたりして陸の上を移動していく。作品の原題であるMigration (Migrateur) という単語は、本来「移動」という意味なのだからそれはそれで構わないが、邦題の「WATARIDORI」となると、これはもう反射的に空を飛ぶことをイメージしてしまう。そのため、日本でタイトルに釣られてこの映画を見た場合、違和感を感じる気がするのだが。いずれにしても、陸の上を何十kmか移動するくらいで、それで環境は大きく変わってくるものなのだろうか (まさかあのよちよち歩きで何百km単位では移動できまい)。それともあれだけ多数で同じ場所に棲息すると、食べるものがすぐなくなってしまうため、やはり移動する必要性が出てくるのだろうか。それにしても目の前で何日も何日も夫婦で交替で立ったまま暖めて、やっと孵化した自分たちの子供が目の前で肉食の鳥に食べられるのを見ているしかないペンギンって、やっぱり哀しい。







< previous                                      HOME

 
inserted by FC2 system