Win Win


ウィン・ウィン  (2011年5月)

マイク (ポール・ジアマッティ) はニュー・ジャージーで小さな法律事務所を営んでいるが、この時節、ビジネスは思わしくなく、顧客はほとんどいない。なんとかしないと本当に食いっぱぐれる可能性が出てきた。思いあまったマイクは、痴呆の気があるレオ (バート・ヤング) の世話を見ることで、州から出るいくばくかの手当てを当てにする。ある時、マイクはレオの家の前に座り込んでいる少年カイル (アレックス・シェイファー) と出会う。彼はレオの孫で、ほとんどアル中の母シンディ (メラニー・リンスキー) と折り合いが悪く、レオを頼って家を出てきたのだ。見捨てても置けず、マイクはカイルを家に連れて帰る。マイクはヴォランティアで学校のレスリング部の指導をしていたが、実はカイルはオハイオでは一、二を争うレスラーであることを知る。カイルを得たレスリング部は、瞬く間に頭角を現し始めるが‥‥


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「ウィン・ウィン」演出のトマス・マッカーシーは元々は中堅どころの俳優だが、「ザ・ステーション・エージェント (The Station Agent)」、「扉をたたく人 (The Visitor)」、そしてこの「ウィン・ウィン」によって、もはやアメリカの良心を代表するインディ映画作家としての地位を確立した感がある。


一時「アメリカの良心」とか「インディ」とかいうと、ほとんど反射的にニック・カサヴェテスとかトッド・フィールド、あるいはアレクサンダー・ペイン辺りを思い浮かべたものだが、カサヴェテスがどちらかというとハリウッド寄りになり、フィールドやペインは新作を発表せず、マイケル・クエスタの新作が公開されない現在、マッカーシーに寄せられる期待は小さくないものがある。


ニュー・ジャージー出身のマッカーシーは、いかにもインディ映画作家らしく、これまでの作品では地元ニュー・ジャージー、もしくはお隣りのニュー・ヨークを舞台として作品を撮っている。「ウィン・ウィン」も当然その例に漏れず、ニュー・ジャージーが舞台だ。


実は私も数年前からそのニュー・ジャージー州民なのだが、しかもなんか、上映が始まると、背景がなにやらものすごく見覚えがあるというか、親近感の湧く街並みばかりだ。実際に撮影された場所を特定できるわけではないが、私の住むジャージー・シティから遠くないバーゲン・カウンティか、パセイク・カウンティのどこかであることは間違いないと思う。もうそれだけで、ご当地映画としてかなり親近感を覚える。


さらに、主人公マイクを演じるポール・ジアマッティが乗っているクルマが、私のと同じスバルのステーション・ワゴンなのだ。マイクが乗っているモデルの方が私のより数年新しいのだが、こういうインディ映画で同じクルマに乗って同じ町を走っているというのは、ハリウッド映画に映るマンハッタンの街を走る感覚とは、その親密さの度合いにおいて決定的に違う。上映が始まって3分で、この映画は擁護すると心に決めるのだった。


マイクは弁護士だが、正直言ってここんとこ商売はあがったりだ。しかも最近の景気から言って、近いうちに事態が好転する見込みはまったくと言っていいほどない。たまに来る依頼人も、こんなの自分で解決するかほっときゃいいだろというのばかりで、金にはならない。しかしマイクは、妻のジャッキー (エイミー・ライアン) やまだ幼い娘たちには事態がどれだけ切迫しているかを言い出せない。


進退窮まったマイクは、痴呆の気があるレオの面倒を見ることで、州から支給される手当てをポケットに入れるという掟破りの行動に出る。とはいえ現実に24時間レオを監視するわけにもいかないため、レオを老人ホームに入れ、たまに寄ってチェックを入れるだけでお茶を濁していた。ある時レオの自宅に荷物を取りに来たマイクは、玄関前にうずくまっている一人の少年と出会う。その少年カイルは母とそりが合わず、祖父のレオを頼って家出してきたのだ。ほうってもおけず、マイクはカイルを自分の家に連れて帰る。


マイクはヴォランティアで高校のレスリング部のコーチをしていたが、カイルが実は地元では一、二を争うレスリング選手だったことを知る。カイルという切り札を得たレスリング部は瞬く間に力をつけ、連戦連敗の窮地を脱し、ライヴァル校に一泡吹かせるまでになる。ほとんどマイクの家族同然の存在になるカイルだったが、そこへカイルの母シンディが現れる。カイルを引き取りに来た、というよりも、自分もレオに関係する恩恵を受けにきたというのが正直なところだった。シンディは間に弁護士を立て、カイルの親権やレオの財産の相続権を主張する‥‥


マッカーシー作品の特長は、登場する人物がすべて等身大で、身近に感じられるところにある。どこにでもあるような題材、どこにでもいるような人物、誰もが経験しているような事実を掬いとってきて再構成して見せる。私の場合は、「ステーション・エージェント」における小人のピーター・ディンクレイジではまだそこまで等身大という気もしなかったが、「扉をたたく人」はアメリカ永住権獲得を巡る私も経験済みの話で、「ウィン・ウィン」では住んでるところまで身近になって、ほとんど他人事とは思えない。


演じているやつらが皆、また自然体というか、特に華があるわけではないがうまいというタイプの役者ばかりだ。マイクを演じるポール・ジアマッティの、適度にダメ男のいかにもさ、妻のジャッキーに扮するエイミー・ライアン、義弟のテリーに扮するボビー・カナヴァル、半ボケのレオのバート・ヤング、他にもジェフリー・タンバー、メラニー・リンスキー、マーゴ・マーティンデイル等、全員、現実に隣りに住んでいてもおかしくない。


さらに一方の主人公とでも言うべきカイルを演じるアレックス・シェイファーが、賭けてもいいが、演じるのではなく、自然に反応し、振る舞うように言われたに違いない感じですっぽりと周囲に溶け込んでいる。リアルなのではなく、ナチュラルなのだ。


個人的には、「インフォーマント (The Informant)」「マイレージ・マイライフ (Up in the Air)」と、一昨年、昨年と私的年間ベストの作品にさりげなく出ていたメラニー・リンスキーがここにも出ていることに感心し、今年これまでのTVドラマではAMCの「ザ・キリング (The Killing)」とタメを張る面白さを提供したFXの「ジャスティファイド (Justified)」で、女家長的役柄を演じて視聴者を楽しませたマーゴ・マーティンデイルに、おおと思わせられた。マーティンデイルが今年のエミー賞に「ジャスティファイド」でノミネートされるのは、まず確実だ。


市井の人々の普通の生活の一部を切り取ってくるマッカーシー作品において、話は必ずしもハッピー・エンドになるとは限らない。それが現実だからだ。一方で、それがアンハッピー・エンドで終わるわけでもない。今後も現実の世界では話は続き、まだ終わっていないからだ。「扉をたたく人」でも、自国に強制送還される人がおり、それをどうしようもできない無力な自分がいるからといって、必ずしもアンハッピー・エンドという印象を与えなかったのは、主人公の怒りややるせなさが、むしろ顔を上げ、前を向いて歩こう、不条理には黙って与するのではなく、これからは立ち向かうという意志を感じさせたからだ。


結局最後には自分のした行動のツケを支払わされることになる「ウィン・ウィン」の主人公マイクも、だからといってそれを負けだと思っているかというと、そうではないことは、ほとんど晴れ晴れとしている彼の表情を見れば明らかだろう。禍福はあざなえる縄の如し。人生いたるところ青山。塞翁が馬。マッカーシー作品は改めてそういうことを感じさせてくれる、今、最もインディ的なインディ作品と言える。









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