Warm Bodies


ウォーム・ボディーズ  (2013年2月)

現在、アメリカTV界で最も話題になっているドラマといえば、地上波のネットワークではなく、ケーブルのAMCのゾンビ・ドラマ、「ザ・ウォーキング・デッド (The Walking Dead)」だろう。既に若い視聴者層においては、ネットワークが編成するどのドラマよりも成績がいい。 

 

映画界においても、「バイオハザード (Resident Evil)」シリーズはいまだに作られ続けているし、「ゾンビランド (Zombieland)」なんてのもあった。ゾンビものはホラーの一ジャンルとして確立している。「アイ・アム・レジェンド (I Am Legend)」のその後はどうなったのか。「28」シリーズの最新作「28か月後 (28 Months Later)」は作られないのか。そして今回の「ウォーム・ボディーズ」だ。 

 

特にホラーというジャンルに顕著なことと思えるが、人は怖がらされることに対し慣れるために、作り手は常に新しい怖がらせ方を考えなければならない。常に進化し続けるのが、ホラーなのだ。そしてそのことを端的に知らしめてくれるのが、ゾンビものだろう。最初、ジョージ・A・ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド (Night of the Living Dead)」によってゆるゆるとこの世に生き返ったゾンビたちは、だんだんと動きのスピードを増し、走るようになった。 

 

そして「ウォーム・ボディーズ」に至っては、ゾンビはついに思考能力、すなわちキャラクターを手に入れる。ゾンビがものを考え、音楽を聴き、異性にときめき、ボケ・ギャグをかます。いまだに多少動きが遅く、見かけに生気がないことを除けば、普通に生きている人間とやることはほとんど変わらない。これはゾンビにとって進化なのか退化なのか。 

 

だいたいゾンビは性格や感情がなく、それらがマスとして機能することで、歯止めの効かない怖さをもたらす。殺しても殺しても後から後から際限なく現れてこっちに向かってやってくる。コミュニケーションがとれないから、ゾンビがいたらこちらは逃げるかやっつけるかの二者択一しかない。延々とエンドレスの不毛の戦いを強いられる。そのことに対する無力感、疲弊感、絶望こそが、ゾンビ映画の怖さの本質だ。未来を感じられなければ、人は生きる意欲を失う。 

 

そうすると、ゾンビとコミュニケーションをとってしまう、なによりもそのゾンビ自身が主人公の「ウォーム・ボディーズ」は、ホラー映画ではないことが知れる。ホラー映画の意匠をまとった新種の青春映画が、「ウォーム・ボディーズ」なのであった。 

 

だいたい、ゾンビは「ゾンビランド」においてすら、既に怖い存在ではなくなっていた。タイトルが示すように、既に遊園地のアトラクションにおける射撃ゲームの標的のような存在がゾンビであり、いかにして画一的なゾンビの行動の裏をかくかで生き延びるという、ほとんどゲームの対象でしかなくなっていた。 

 

それが今回は、ゾンビがものを考え、うーうーと呻きそして喋りはじめ、どうやら人間の女の子に対して仄かな恋愛感情を持ってしまったらしい。これは私の意見ではゾンビとしては明らかに退化であり、これでは人を怖がらせることなんかできない。 

 

一方、ゾンビが人間化することで、再び人間ドラマを復活させることは可能だ。今回試みられているのがまさにそれだ。ああ、ゾンビはゾンビのままでいた方が仕合わせでいられただろうに。なまじ一度は捨てた感情をとり戻したがために、再び生きる苦労まで手に入れたことになる。しかし、そうすると、彼らは再び歳をとりはじめ、そして最終的にはやはり彼らも老衰して死ぬことになるのだろうか。 

 

「ウォーム・ボディーズ」は、ドラマというよりはコメディだ。主人公ゾンビRは、最初、感情を持ちつつあるとはいえまだゾンビで、人間を見ると噛みついて食い殺す。しかしジュリーを見たことで彼 の中で何かが弾けてしまい、彼女を助けなければと思う。その一瞬前に彼が食い殺したのが、誰あろうジュリーの恋人だった。意中の人の恋人を、知らなかったとはいえ食い殺し、彼女を助け出した後は、何食わぬ顔してあんたの恋人を食ったことなんか知らぬ存ぜぬという顔をする。コメディではあるがかなりブラックだ。果たしてこの恋の末路は。ゾンビの恋は報われるのか。 

 

Rに扮するのがニコラス・ホルト。微妙にバランスの崩れたハンサム顔で、いかにもゾンビ的。「X-メン: ファースト・ジェネレーション (X-Men First Class)」で演じていたのは獣に変身するビーストで、人間じゃない役が続く。現在、次の主演作「ジャックと天空の巨人 (Jack The Giant Slayer)」がこれでもかというくらい宣伝されている。これもある意味人間とは言い難い役だ。 

 

ジュリーに扮するのは、「アイ・アム・ナンバー4 (I Am Number Four)」で、主人公ナンバー4の敵か味方かわからない女の子ナンバー6を演じていたテリーサ・パーマー。彼女こそここでは人間じゃなかった。そのジュリーの父、人間軍の司令官的な存在を演じているのが、ジョン・マルコヴィッチ。出てきた途端、これはギャグなんだなと納得させる胡散くささは健在。演出は「フィフティ・フィフティ (50/50)」のジョナサン・レヴィン。 

 

「ゾンビランド」、「ウォーム・ボディーズ」と進んできた映画界のゾンビを眺めると、「ウォーキング・デッド」に代表されるTV界のゾンビとは、住む世界、進む方向が違ってきたように感じられる。映画界のゾンビは、それが進化ではなく退化と感じられようと、とにかく変化が求められる。観客は新しいものを見たがっているのだ。 

 

一方TVのゾンビは、走ることはあっても、やはりゾンビはゾンビとして機能している。死んだ人間、屍肉を食らうものとしての、一般的に考えられるゾンビの本質の部分は不変だ。つまり、TVにおいては今のところ、「ウォーム・ボディーズ」のようにゾンビが主人公となることはない。果たしてこの住み分けは確立されるのだろうか。映画界におけるゾンビはこれからどのように変貌し続けるのか。それともこれで打ち止めか。今後ゾンビに変化が起きるとしたら何が考えられるか。いったん人間化したゾンビがまたまたゾンビ化するとか。さすがにそれだと細胞が持たないような気がする。 











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近未来、ゾンビが蔓延した社会。ある若いゾンビの男R (ニコラス・ホルト) は、他の屍肉を食らうだけのゾンビたちと異なり、内省的な感情を持ち、一人打ち捨てられた航空機の中で、レコードを聴く毎日を送っていた。ある時、生き延びた人間社会からゾンビの住む外界を仲間らと共に偵察に来たジュリー (テリーサ・パーマー) は、そこでゾンビに取り囲まれる絶体絶命のピンチに陥るが、窮地をRに救われる。どうやらゾンビとコミュニケーションがとれるらしいと気づいたジュリーは、Rに自分を人間社会に帰して欲しいとお願いし、Rも了承する。しかし言うは易く行うは難しで、ゾンビ社会においてはジュリーは見つかったら最後、襲われて食べられてしまう運命にあった。Rとジュリーは脱出の機会を窺うが‥‥


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