Vincere


勝利を  (2010年5月)

1914年イタリー。信念に燃える社会主義者のムッソリーニ (フィリポ・ティミ) は、美容室を経営するイーダ (ジョヴァンナ・メッツォジョルノ) と出会い、二人は恋に落ちる。イーダは店を売ってムッソリーニの左翼系新聞の発行に力を貸す。ムッソリーニはだんだんと政界に知られるようになるが、一方、他に正妻と子供たちを設け、段々イーダと息子を遠ざけるようになる。捨てられると知ったイーダは逆に執拗にムッソリーニに付きまとうようになり、果ては息子をとり上げられて精神病院に収容される。それでもイーダはムッソリーニに自分と息子のことを認めさせることを諦めなかった‥‥


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別に特にこの映画のことを知っていたわけではない。第一、どうやら外国語映画でありそうな「Vincere」というタイトルの意味もまったく知らなかった。この映画のことを知ったのは,ロングラン上映が続いている今年のアカデミー賞の外国語映画賞を獲得した「瞳の奥の秘密 (The Secret in Their Eyes)」がどこか近くでやってないかと調べていて、たまたま見つけたに過ぎない。


本当に、まったく見たことも聞いたこともないタイトルの作品が劇場公開されているので、逆に気になった。それで調べてみたら、この作品、ムッソリーニの愛人のことを描いたイタリア語映画で、監督はマルコ・ベロッキオだ。ベロッキオ、あの、「肉体の悪魔 (Devil in the Flesh)」のベロッキオか。


実はベロッキオ作品はその「肉体の悪魔」以来見ていないのだが、しかし主演のマルーシュカ・デートメルスの印象は未だに強烈だ。私の場合、エロティシズムだけで記憶に残っている映画というのは特に多くはないが、「肉体の悪魔」は、その数少ない作品の一つだ。映画を見た当時、こういう女性がそばにいないことを本気で残念がったり安堵したりもしたことを思い出す。この手の女性との遭遇は、確実に人生を狂わせるだろう。


そのベロッキオがムッソリーニの愛人で、捨てられてそれでもつきまとうことをやめず、あまりのしつこさに精神病院に入れられ、死んでいった女性を題材に作品を撮った。こりゃあ「肉体の悪魔」に勝るとも劣らない作品になったことは必至だろう。ということで俄然興味が湧いてきた。


世界がきな臭かった1914年。金はないが理想と野心に燃えるベニート・ムッソリーニは、美容サロンを経営するイーダと出会う。二人は情熱的に愛を交わし、イーダは自分の店を担保にしてムッソリーニを支える。しかしムッソリーニが政治家として頭角を現してくると、だんだん情熱的なイーダを邪魔に感じるようになってくる。政治家としてのムッソリーニは、妻としては後ろで目立たず支えてくれるような者を欲していたのだ。


ムッソリーニはイーダを遠ざけ、邪険に扱うようになる。しかしイーダには二人の間に息子ができていた。せめて息子だけでも認めてもらおうと願ったイーダは、嫌がられているのを知りながらも機会を見てはムッソリーニの周りに出没し、認知を求める。むろんそれはいっそうムッソリーニを苛立たせ、イーダをより避けようとすることにしかならなかった。イーダに手を焼いたムッソリーニは画策して彼女を精神病院に入れ、簡単には外に出れないようにする。しかしそれでもイーダは自分の思いを隠したり曲げようとは考えなかった‥‥


こう書いただけでまさに「肉体の悪魔」を彷彿とさせる。どっちも思いつめてストーキングに走るのは女性の方なのは、その方が悲劇性が際立ってドラマになりやすいからという気がする。しかし「肉体の悪魔」を見た1980年代中盤は、まだストーキングという言葉は定着していなかったと思う。それがいつの間にか普通名詞となってしまった。


ストーキングという言葉は負のニュアンスがあるが、一途に思いつめる心の現れであり、その気持ちが実れば純愛だし、相手に嫌がられると、それはストーキングと呼ばれる。同根の心の動きから表出した言動の受け止められ方がこうも両極端になるのは、対象となる相手がいるからだ。たとえ自分がどんなに相手のことを愛していても、それが受け止められなければ感情は空回りするだけだ。


まさにイーダの場合がそうなのだが、むろん彼女はそれをわかることはないし、あるいはある程度はわかってはいても、自分の行動を止められない。既に自制が利かなくなるほど思い込んでいるからだ。だからイーダは行動する。むろんそれは周囲の目から見ると迷惑な行為以外の何ものでもない。


一方、イーダの近親者や村の者たちは、イーダが昔献身的にムッソリーニの世話をしていたことを知っているので、時の権力者となったムッソリーニに対して表立って反意を見せることはないけれども、イーダの要求が正当なものであると思っている。しかし今ムッソリーニに抗弁すると、どんなとばっちりが飛んでくるかわからないから黙っているだけだ。つまりイーダの行為には正当な理由づけがあり、本人もだからこそせめて認知だけはと執拗に迫る。しかし、もちろんいったん離れてしまったムッソリーニの心は戻ってはこない。


どうしてもベロッキオはこういう負のパワーを全開する女性に惹かれるものがあるようだ。実際の話、「肉体の悪魔」のデートルメス同様、ここでのメッツォジョルノも破滅的な女性を鬼気迫る気迫で演じており、ぞくぞくさせられる。もし、本当にこういうタイプの女性と関係になったら、自分の場合逃げるのは間違いないと思うが、それでもここでのメッツォジョルノの魅力は疑いようもない。たぶんムッソリーニも、イーダとずっと一緒にいたら身を持ち崩す、破滅するというのが本能的にわかっていたんだろう。だから捨てた。


なぜ人は思い込むのか。なぜ邪険にされるとわかっていながら相手につきまとうのか。思いは伝わらないと知っていても自分の行動を止められないのか。そんなの、自分でやめられるようならとっくにやめているだろう。自分ではどうにもならない力によって自滅への道を進む。そこに待っているものは悲劇しかないが、しかし一途な、崇高とさえ言えるものもまた同居している。ベロッキオが惹かれてやまないものもまたそこにある。










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