Twelfth Night   十二夜

(2003年1月11日)    
ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック (BAM) ハーヴィ・シアター

ウィリアム・シェイクスピアの「十二夜」は、「真夏の夜の夢」と共に、喜劇として考えられる様々な設定をとりいれた名作として、絶えず上演されている古典の中の古典である。ニューヨーク近辺で上演された「十二夜」としては、98年、ニコラス・ハイトナー演出の舞台が大きな評判となったのも記憶に新しい。私はTV中継でしか見てなく、それほど舞台に詳しくはないのにもかかわらず、非常に完成度の高い優れた舞台であることはよくわかった。

「十二夜」のプロットの最大のポイントは、主人公のヴァイオラが女性であるのにもかかわらず諸所の都合から男装しているという、ジェンダーの変換からくる勘違いや取り違えにある。ハイトナー版「十二夜」では、ヴァイオラを演じたのが、その時「ツイスター」や「恋愛小説家」等で売れに売れていたヘレン・ハントで、元々男顔のハントの男装が役柄にぴたりとはまっていた。

そして今回この「十二夜」を演出するのが、「アメリカン・ビューティ」「ロード・トゥ・パーディション」の映画監督としても知られるサム・メンデスである。元々メンデスはハイトナー同様舞台出身の演出家で、英国の舞台演出家は、何はなくてもとにかく誰でもシェイクスピアを演出するという感じだ。実際そうなんだろう。シェイクスピアは基本であり、ゴールなのだ。そして主人公のヴァイオラに扮するのは、なんとエミリー・ワトソンだ。私はミュージカルはともかく、セリフが主体のお芝居を見になんて滅多に行かないのだが、今回に限り、たとえチケットがいくらでもこの舞台は見ると心に決めていた。

メンデスは昨年末まで、英国でドンマー・ウェアハウスという劇団の芸術監督を務めていた。今回の公演はメンデスのさよなら公演ということになろうか。ついでに言うと、ドンマーとワトソンは今回、この「十二夜」とチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を交互に上演している。メンデスに言わせると、片や古典的喜劇、片や古典的悲劇ということで、それを交互に演じることによる人間の感情の大きな振幅を感じさせるということにポイントがあるらしい。

いやあ、しかし、まあ、当然と言えば当然なんだが、この舞台、シェイクスピアであるからにして、セリフが擬古文なんだよ。これは結構参った。バズ・ラーマンの「ロミオ+ジュリエット」では、セリフなんかほとんど何言っているかわからなくても、映画ではのべつ幕無しに登場人物が喋りっぱなしということはないし、ラーマンの演出を楽しんでいればよかった。ハイトナーの舞台ですら、別にセリフの聞き取り能力が舞台鑑賞に影響したなんて記憶もないのだが、生の舞台で、時折演者の顔が見えなくて表情が読み取れず、セリフで情勢を理解しなければならないなんて時には、こんなにセリフが聞き取れないということがネックになるとは思ってもいなかった。

「十二夜」なんだよ、映画でも舞台でも何度も見てるし、基本的に内容は既に頭に入っているはずだった。ところがどっこい、やはりいくら古典とはいえ、舞台がすべてシェイクスピアが書いたものそのままではないし、メンデスの解釈によって演出も変わる。しまったなあ、こんなことなら昨晩内容を予習しておくべきだった、と思った時は既に時遅しだった。大まかな内容だけはわかっていてもなあ。舞台上と観客との間での交感に参加できなければ、生の舞台を見ている意味がない。まあ、それでも充分楽しみはしたわけだが、今回は九仞の功を一簣に欠いたという印象は免れなかった。ああ残念。

それでも気づいた点を挙げると、やはりハイトナー版を意識したのと思える舞台装置がまず一つ。ハイトナー版では、舞台上で水をふんだんに使うというのが視覚的にも聴覚的にも大きな効果を上げていたが、メンデスは今回、それと対比させるつもりか、舞台上方から後方にかけて、これでもかというばかりの蝋燭を灯して、舞台上を火で覆ってみせた。水に対する火、これはもうハイトナーに挑戦状を叩きつけたようなものだ。

そのことはおいといて、それよりも私が気にかかったのが舞台中央後方の枠だけの大きなドアで、演者は時にそのドアを通り抜けたり通り抜けなかったりして舞台に登場したり出ていったりするのだが、時にその瞬間に舞台上にいる必要のない人間がそのドアの向こうで後ろ向きにじっと立っていたりする。その人間の気配が舞台の大勢を覆っているという意味の演出か、しかし、気になるわりには効果があるとは言えないような気がしたが。

ワトソンは、やはり彼女も結構男顔なので、うまく役柄にはまっていた。彼女も結構舞台映えするなあ。うん、生ワトソンはよかった。最初に登場する時は、まだ男装しておらず、質素なドレスを着ているのだが、わりと身体に密着しているので、実は彼女が首から足にかけ、結構がっしりした、骨太で肉付きのよい体形をしていることがわかってちょっとびっくりした。最近のワトソンは「レッド・ドラゴン」でも「パンチ-ドランク・ラヴ」でも、結構華奢というイメージがあったのだが、着るものでごまかしていたか。

ワトソン以外でも、全員ぴたりと役柄にはまっているように見えたのはさすがである。ハイトナーの「十二夜」を見た時も、皆イメージどんぴしゃりと思ったものだが、演者がうまいのか、あるいは古典的な戯曲だから書かれている役が人間の本質をとらえているので、どんな俳優にもはまってしまうのか、いずれにしてもまったく感心する。ハントとワトソンのヴァイオラをはじめとして、皆甲乙つけがたい。

ところで思ったのが、今回オーシーノを演じるマーク・ストロングは、ハゲである。こないだ見たばかりのペドロ・アルモドヴァルの「トーク・トゥ・ハー」の主人公を演じるダリオ・グランディネッティも似たような年代のハゲ男であった。ハゲって、気にしだすときりないのだが、居直るとそれはそれでちゃんといい男に見えるというか、逆にセックス・アピールを濃厚に発散させているような気もする。もしかすると、ハゲは女性より男性に受けるのかもしれない。

こんなことを考えたのも、劇場で我々の前に座っていたのがゲイのカップルであったからで、なぜゲイのカップルって、いつでもどこでもああいちゃつくんだろう。というよりも「十二夜」ってゲイにアピールするような題目かあと思っていたら、ちゃんと劇内で男に扮したヴァイオラがオーシーノとキスするという、一応建て前上は男同士のキス・シーンがあった。私は思わず納得してしまったのだが、ゲイの嗅覚ってすごい。




 
 
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