Touching the Void   運命を分けたザイル  (2004年2月)

1985年。世界に未登頂の山は限り少なくなっていた。英国の登山家ジョー・シンプソン (ブレンダン・マッキー) とサイモン・イェーツ (ニコラス・アーロン) は、その数少ない南米ペルーの難関、シウラ・グランデの西壁登攀を計画、実行に移す。二人は無事頂上を極めるが、しかし下りでジョーが膝を捻った上に崖から宙吊りとなり、持ち堪えられないと思ったサイモンはザイルを切断、一人で山を降りる。ジョーはクレバスの中に落ちたが、一命を取り止め、ほとんど身体も動かず、水も食料もない中を、命がけで脱出を試みる‥‥


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「運命を分けたザイル」は、映画の中で辛酸を舐め、死の直前から生還したジョー・シンプソンが記したノン・フィクション (邦題: 死のクレバス アンデス氷壁の遭難) のドキュドラマ化である。とはいえ正直に告白してしまうと、最初、私はこの作品、数年前にベスト・セラーになった、エヴェレストでの大量遭難事故を記録したジョン・クラカウアーの「Into Thin Air」の映像化だとばかり思っていた。既にABCでTV映画化もされているが、やはり迫力の違う劇場用映画として再映像化したものだと思い込んでいたのだ。ところが、作品が始まって登場人物がペルーの山に登ると言い出したので、そこで初めて自分のカン違いに気づいた。世界に山はエヴェレストだけじゃない。


原作はノン・フィクションであり、映画はそれをドキュドラマ化しているわけだが、正確にはドキュドラマとも言えない。要所要所で現在のジョーとサイモン本人がスクリーンに顔を出して、その時の状況や心理を説明するという、疑似ドキュメンタリー的な構成をとっているからだ。


私は最初、この構成にすこぶる戸惑ってしまった。だって、私はほとんどなんの前知識もなしにこの映画を見に行ったのだ。そしたら登攀を行うジョーとサイモンと、インタヴュウを受けるジョーとサイモンが、どう見ても別人にしか見えない。たぶんどちらかが本物でどちらかが俳優なんだろうが、さて、いったいどちらが本人か。私は最初、インタヴュウを受けているジョーとサイモンが俳優で、登攀を行っているのが本人だとばかり思っていた。登攀は彼らの天職のようなものであり、たとえ全盛期を過ぎていようとも、昔とった杵柄で、まだなんとかやれるだろうと思っていたからだ。一方、クロース・アップでスクリーンに現れるジョーとサイモンは、今度はいかにも役者が演技しているように感じてしまった。


そしたらまったく逆で、登攀している方が役者で、インタヴュウを受けている方が本人なのだそうだ。既にこの登攀から20年近く経った今、ジョーとサイモンはさすがにもう、再度限界に挑戦する登攀は無理だったのか、あるいは二人は、事件以来二度と一緒に山を登ったことがないそうなのだが、たとえ撮影のためとはいえ、また一緒に山を登ることに抵抗を覚えたのかはわからない。


あるいは、登攀もインタヴュウも、もしかしたら両方とも俳優が演じているのかもしれないとも思った。実を言うと、これが一番ある得ると思っていた。そしたらこれもまたはずれだった。しかし、インタヴュウを受けるジョーとサイモンはどう見てもやらせくさいと思ったんだが、それは要するに、俳優ではない本人だったからこそか。


考えればこの方便は納得できなくもないが、しかし、だからといって、基本的にドキュドラマの体裁をとっているのに途中で本人が出てきてあれこれ説明を加え始めたりするのは、私は興醒めと思う方である。せっかく話にのめり込んで見ているのに、よけいな説明なんか加えられると、集中していたものがそこで断ち切られてしまう。第一、スクリーンに本物のジョーとサイモンが出てくると、観客が現在見ている登攀が、それがたとえ本当に起こったことであろうとも、事実を再構成したフィクション、あるいはドキュドラマでしかないことを強調するだけにしかならない。結局、ドキュメンタリーでもドラマでもないという作品の構成は、私にとってはすこぶる居心地の悪い思いをすることにしかならなかった。ディスカバリー・チャンネルの見過ぎじゃないのか。


また、このような構成をとったことによる最大のマイナス効果は、クレバスに落ちたジョーが、結局、最終的には生還することを観客に事前に教えてしまっていることにある。もしかしたらこの事件は、山岳関係者にとっては有名な事件で、誰もが知っている話なのかもしれないが、一般人では知っている者はいまい。おかげで、ジョーはそれでどうなるんだ、やっぱり死んでしまうのだろうか、なんていうはらはらどきどきの、半分くらいの興奮は、最初から相殺されているのだ。この映画を見る醍醐味のほとんどはそこにあるのに。


要するに監督のマクドナルドは、どうしても映像だけでは説明しきれないその時の当事者が考えたこと、心理、絶望や希望が交錯する極限状況を微に入り細を穿って説明したかったのだろうが、端的にそのことが、既に自分が映画という媒体で言いたいことが撮れないと白状してしまっているようなものだ。やはりこの人、ドキュメンタリー作家なんだな。遭難したジョーが、死ぬほど咽喉が渇いた、水が飲みたい、雪をなめるだけじゃどうしてもダメで、脱水状態で朦朧となる、なんてシーンを、なんでわざわざ本人がヴォイス・オーヴァーで説明しなきゃならんのだ。そんなの、見ればわかるじゃないか。


もちろん、テクニカルな面や、一般人にはわかりづらい山の男のメンタリティなど、一見、理解しにくい面もあり、ある箇所では、確かにそういう説明を行うヴォイス・オーヴァーは、登場人物の行動を理解する一助とはなる。でも、そういう便法は、作品を物語として楽しみ、没入するという点では、それが事実であろうがなかろうが、妨げにしかならない。登場人物が極限状況に至った時の心理を行動で描くということこそ、映画が最も得意としているはずの媒体の強みだったはずなのに、それを発揮できなかったのではないか、そして結果としてそのことが、本来ならもっと強烈に感じさせてくれたはずの興奮を失ったことにならないかという、一抹の物足りなさを覚えてしまうのだ。


とはいえ、雪山の映像自体は、よくここまで撮れたなあと感心する。ほとんどがロケーション撮影で、遠景とキャンプはペルーで現地撮影、クライマックスとも言える登攀のクロース・アップは、アルプスをシウラ・グランデと見立てて撮影しているそうだ。いずれにしても、ハリウッドがやりそうなセットを組んでごまかす、というと語弊があるならば、よりよい撮影環境で満足することなく、あくまでも本物の迫力を求めようとした姿勢は、充分報われていると言える。


マクドナルドはドキュメンタリー畑出身で、99年の「ブラック・セプテンバー (One Day in September)」でオスカーのドキュメンタリー賞を受賞している。とはいえ私はこの作品は未見で、マクドナルド作品で見たことがあるのは、新アルバム製作中のミック・ジャガーを追った「ビーイング・ミック (Being Mick)」だけだ。こういう大物が題材だと、監督の力量よりも題材の魅力がすべてであったりするから、実はTVで放送されたこの番組の監督がマクドナルドだということは、今回調べてみるまで気がつきもしなかった。この作品ではジャガーの娘が、録音し終わったばかりのジャガーが使っていたマイクの匂いをかいで、くっせえーと顔を歪めていたのがとても印象に残っている。ミックも娘にかかればただのどこにでもいる父親の一人でしかない。






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