Total Recall


トータル・リコール  (2012年8月)

荒廃した近未来。唯一汚染を免れた英国には生き延びた一部の富裕階級の人々が住んでおり、地球の反対側のコロニーとなったオーストラリアでは、最低の環境下で底辺に住む者たちが蠢いていた。コロニーからは労働者が「フォール」と呼ばれる重力を利用したエレヴェイタに乗って毎日英国に出稼ぎに来ており、クエイド (コリン・ファレル) もその一人だった。労働者たちの間では、一時の憂さ晴らしのために人工的に記憶を脳に埋め込んでまったく別の人間としての記憶を楽しむというアンダーグラウンドの娯楽が流行しており、クエイドも同僚の紹介で試してみようという気になる。しかしクエイドが人工記憶を試そうとした瞬間、既にクエイドの記憶になんらかの操作が加えられているのが発覚、しかも間髪を入れずにそこに政府のエージェントたちが雪崩れ込んでくる。一介の作業員に過ぎなかったはずのクエイドは、自分でも驚くべき身体能力を発揮して難を逃れるが、しかし、さらに帰って一息ついたアパートで、妻のロリ (ケイト・ベッキンセイル) が攻撃を仕掛けてくる。それもなんとかしのいだクエイドだったが、しかし今では自分自身で自分が誰だかわからなくなっていた‥‥


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実は最初から見るつもりでいたので、事前にはマスコミ評になんの注意も払っておらず、作品を見てから初めて映画評とかに目を通し始めたら、「トータル・リコール」はほとんどの媒体から貶されている。あまりにも押しなべて辛い評価ばかりもらっているので、いったい何がそんなに悪かったのかと驚くくらいだ。IMDBのユーザ・レイティングでも6.3と、一般評も決して高いとは言えない。ついでに言うと興行成績もそのことを裏づけている。


たぶん一般的にはフィリップ・K・ディック作品ということで、その未来感を忠実に画面に映し得たかという点がまず一つ、次に視覚的な印象の大きかったシュワルツネッガー/ヴァーホーヴェンの前作とどうしても比較してしまい、それを乗り越えたかどうかが判断の基準の一つになっていること、等がその理由として挙げられると思う。要するに既に「トータル・リコール」という一つの作品に対して人々の持つイメージができ上がっていたせいで、今回のリメイクはそのイメージやオリジナルに対するオマージュというよりも、それに対する冒涜として受け止められたのだと思う。


私の意見では実は今回の映像化の方が、シュワルツネッガー-ヴァーホーヴェンの「トータル・リコール」よりアクションとしてはできがいいと思う。とはいっても前作は、細部はもうほとんど覚えていないのだが、それでもあの人工的でキッチュで、ほとんど悪趣味と言えるイメージは忘れ難く、いまだに脳裏にこびりついている。シュワルツネッガーはいつも通りのシュワルツネッガーで、それがいつでも作り物くさいヴァーホーヴェン演出に合致して、独特の雰囲気醸成に一役買っていた。カルト化するのも頷ける。


一方、今回の映像化は、ディック作品の映像化としては、前回の「トータル・リコール」とタメを張る人気と知名度がある「ブレードランナー (Blade Runner)」が描いたところの、雑多なアジア趣味的な世界にかなり近い。そこまで陰々滅々としているわけではないが、今回の作り手が「ブレードランナー」の影響を大きく受けているのは間違いないだろう。


そんなこんなで今回の「トータル・リコール」、私的にはかなりいい線行っていると思うんだが、世間ではそうは思われていなかったようだ。ところで「トータル・リコール」の原題は「We can remember it for you wholesale」、「ブレードランナー」は「Do Androids Dream of Electric Sheep?」と、両作品ともオリジナル・タイトルがいかにもディック的な毒が利いていてなかなかいい。これを映画作品にも使うにはやはり長過ぎるという判断か。まあ、確かに「トータル・リコール」と「ブレードランナー」で定着して、それはそれで馴染みがあるとは言える。


「トータル・リコール」では前回は主人公は火星に行ったわけだが、既に現実に火星にオポチューニティが着陸している現在、勝手に火星基地や火星人を出すわけにもいかず、今回は地球の裏側が火星を代用することになった。表側の世界を代表するのが英国で、裏の世界がオーストラリアだ。映画は両国が現実に地球表面上で反対の位置にあることを利用して、「フォール」と呼ばれる重力利用の超高速輸送機関で行き来する。


今回、このフォールのみならず、輸送エレヴェイタや空中カー・レース等で、重力を使ったり一瞬消したりするアクションが頻出する。しかし、やはり最も印象的なのがフォールだ。重力や加速度というのはなかなか魅力的なSFの概念で、例えば、真下に向かってとことん穴を掘っていけば、当然英国からだといつかはオーストラリアのどこか、あるいはその辺の海底に到達する。その時、まっすぐな穴が地球の向こう側まで開いているとしたら、例えば穴の中に石を落としたとしたら、エンジンやらモーターの力を使わず、重力の加速度だけで進み、ちょうど地球の向こう側の地表近辺で今度は重力が逆にかかるため自然に止まるはずだ。むろん摩擦や空気抵抗があるだろうとはいえ、単純にこの発想は魅力的だ。フォールはこの発想による輸送機構で、見てると1時間くらいでは地球のこちら側からあちら側に到達しているように見える。


むろんフォールはあくまでも想像上の産物で、実際に地下深くに掘っていけば、地熱やらマグマやら超高密度の地層やらなんやらでそのうち文字通り壁にぶち当たって、それ以上先に進めなくなるだろうというのはわかる。しかしもしこれに乗ったらほとんどフリー・フォールであり、どんなジェットローラー・コースターも真っ青の体験ができそうだ。うーん、吐くかも。また、1時間で地球の裏側に着いちまったら、時差ボケはどう解消すればいいんだろうか。見てると労働者は毎日そことここを行き来しているようで、これはもしかしたら時差ボケになる暇すらないのかもしれん、と一人で想像を逞しくしてしまうのだった。しかし、これ、本当に毎日やってたら、どんなに若くても早死にするのだけは間違いなさそうだ。


先週「ボーン・レガシー (The Bourne Legacy)」を見た影響も当然あるだろうが、「トータル・リコール」は話の骨幹だけを見ると、ある種「ボーン・アイデンティティ (The Bourne Identity)」だ。記憶を喪失してしまったか別の記憶が埋め込まれているかの違いはあるが、自分が何者かを自覚するきっかけが、突発する事件、格闘に対して身体が勝手に反応して敵を蹴散らしてしまうことにあり、自分がいったい何者なのかかとビビることから物語が始まる。そういえば「ゴルゴ13」でも、一時的に記憶を喪失してしまったものの、身体が勝手に反応して後ろに立ったものを反射的に殴り倒す、みたいな描写があった記憶がある。


自分が何者か自覚していない時に身体が勝手に動いてばったばったと相手を薙ぎ直してしまったら、ほとんど良心の呵責なく相手を殺してしまったら、その時何も知らずに行動していたら、無事危急を脱した安堵感より、不安感の方が先に立つだろうと思う。たぶん自分のすることを自覚していない限り、人は自分を人殺しと思うのは嫌なんじゃないか。


そのためそういう立場に陥った者がとる最初の行動は、まず何よりも自分探しだ。それだけの危険を脱出することのできる運動能力があり、機転が利くのなら、生きて食っていくのにはなんの心配もないと思うが、人はまず自分がどこの誰であるというアイデンティティが先に来て、それを元に生活していく。ジェイソン・ボーンだろうとダグラス・クエイドだろうとゴルゴ13だろうとそれは変わらない。


これらの物語では、記憶を取り戻した主人公は、自らの使命と目的に立ち返っていくわけだが、実はそれは彼らにとって本当にいいことかという懸念は常につきまとう。往々にして、記憶を甦らせた主人公は、戦いの場に巻き込まれて行かざるを得ないからだ。その過程でまた多くの犠牲者が出る。あんたが記憶を甦らせさえしなければ、世界は平和のままだった可能性が大きいのに。たぶんかなりの確率で、主人公が記憶を取り戻さないでいた場合の方が、死者の数は少なくて済むだろう。ボーンもクエイドも、結局は人騒がせな奴らであることには変わりない。たとえ彼らが究極的には多くの人を救おうとも、関わり合いにはなりたくないかもと思ってしまうのだった。









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