Tinker Tailor Soldier Spy


裏切りのサーカス  (2012年1月)

長らくサーカスを仕切っていたコントロール (ジョン・ハート) は、サーカスの内部にモール -- 裏切り者がいるという情報をつかむ。プリドー (マーク・ストロング) はコントロールの命によって亡命を希望するチェコ高官に極秘に会いに行くが、失敗に終わり、射たれて捕えられる。コントロールは責任を問われて職を追われ、失意の死を遂げる。一方、ソヴィエト高官の妻とのアヴァンチュールから、タール (トム・ハーディ) はサーカス内部にモールがいることを知り、サーカスのギリアム (ベネディクト・カンバーバッチ) に知らせる。今では引退していたスマイリー (ゲイリー・オールドマン) が再び呼び戻され、サーカスにも極秘裏に調査が開始される。果たしてモールはサーカスに本当にいるのか、いるとしたら、それは誰か‥‥


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「裏切りのサーカス」、つまりジョン・ル・カレの「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」だ。日本でも海外ミステリ・ファンには「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」で定着しているタイトルを、なぜ「裏切りのサーカス」なんて邦題に改定しないといけないのか、ちょっとわからない。


「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」というタイトルは、初耳の人間にとっては何が何だかわからないかもしれないが、「裏切りのサーカス」だと、よけい混乱する。サーカスと聞いて、これが英国諜報部MI6の符丁とすぐに気づく者よりも、空中ブランコの方のサーカスを連想する者の方が圧倒的に多いに違いない。誰かが細工したためにブランコから転落死した事件の犯人を突き止める話と思う者の方が、断然多いに決まっている。


もしかして私の知らないところで既に映像化されており、その時に「裏切りのサーカス」という題で放送もしくは公開されてたりしたとか、と思って調べてみたが、そんなことはないようだ。ただし、1979年に英国でミニシリーズ化されていたということは、今回調べてみて初めて知った。その時に主人公スマイリーを演じたのはアレック・ギネスで、45分 x 7話で構成されている。ただし、この番組は日本には入っておらず、当然邦題もない。


あるいは、早川から新訳改訂版が出て、それに準拠したかとも思ったが、その線もないようだ。菊池光訳は正直言って特に読みやすかったという印象はなく、否、どっちかっつうともうちょっとこなれた訳になってもよさそうとすら思ったので、映画に合わせてこれの改訂版が出るのは、あり得そうな話に思えた。とはいっても、菊池訳はディック・フランシスの競馬シリーズやロバート・B・パーカーのスペンサー・シリーズを含め大変お世話になっているので、あまり文句を申し上げる気にはならない。


やはり言えるのは、なんで「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」じゃダメなんだということだ。これは英国の古い言い回しから来ており、由来を知っていて作品を見るとさらに理解が深まるが、知らないからといって観賞の妨げになるわけでもない。むしろこのタイトルの意味が作品内で判明する時に、ああこのことだったのかと腑に落ちる楽しみを最初から強制的に捨てさせられている。いずれにしてもこちらの方が「裏切りのサーカス」よりよほどましなタイトルということは、多少の言葉のセンスがあれば一目瞭然だろうに。不便があるとすれば、いちいち「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」とタイトルを表記する時に、それを書いたりタイプしたり発音するのが面倒くさいということくらいか。それだって、「ティンカー・テイラー‥‥」で済ませばいいことだ。


さてこの作品、私は結構思い入れがある。この種のスパイ・ノヴェルやミステリは、大学に入って田舎から上京してきた時に洗礼を受けた。それまではフォーサイスもフリーマントルもル・カレも知らなかったのが、バイト先で年上の先輩から勧められた「ジャッカルの日」を読み始めたら徹夜になって、「別れを告げに来た男」に驚愕し、「寒い国から帰ってきたスパイ」に寝食を忘れた。こんなに面白い小説のジャンルがあるのか、知らなかった。


その後、広く早川の文庫を中心に読み漁ったが、その中でも重厚長大という点では、ル・カレに勝るものはなかった。単に面白いという点だけをとるなら、他にも甲乙つけ難い作品は山のようにあるのだが、スパイが007やイーサン・ハントのようにではなく、人間として描かれる重厚な人間ドラマという点で、ル・カレは唯一無二の存在だった。それなのに面白いのだ。これで訳が読みやすかったら! あるいは、菊池訳がル・カレ以外ではあそこまで読みにくいという印象はないので、オリジナルがああいうとっつきにくい文体であるのはまず確かだろう。同じ人が訳しても、スペンサーものなんか思い切りすらすら読める。


さて、今回の映像化だが、実はあれだけ前面に出ているゲイリー・オールドマンがスマイリーだということに、私はつい最近までまったく気づかなかった。私の中では、スマイリーはもっと太っていて禿げているというイメージがなぜだかでき上がっており、あまりにもオールドマンとイメージがかけ離れているために、彼がスマイリーだとは思わなかったのだ。なぜ私が勝手にスマイリーを禿げでデブだと思い込んでいたかは、私自身まったくその理由に思い至らない。もしかしたら本文中にさりげなく髪が薄くなってきたとか体重が増えたとかいうような記述があって、それを拡大解釈して覚えてしまったのではないかという気がするが、今となってはまるで忘却の彼方だ。


一方、それだけ内容を思い違いしていたりするなど、正直言ってストーリーの細部なんかまるで忘れてしまっている。逆に言うと、今回は初めて原作を読むように話を楽しめる‥‥はずだと見る前は思っていた。それが映画が始まって、案の定ほとんど覚えてなく、誰がモールだったっけ、なんて考えながら見ていて、この中の誰かが裏切り者のはずというサーカスの面々が出てきて、名前が出た途端、こいつが裏切り者だった! といきなり思い出した。細部なんかまるで覚えてないのに、やはり最も印象的な裏切り者の名前は、それが表面に出てきた途端、思い出してしまったのだ。どうせなら忘れていたままの方が映画を楽しめたのに。


むろんル・カレ作品の場合、誰がモールかわかっていても、ミステリの倒叙もののように楽しむこともできる‥‥ことはできるが、そんなもん、やっぱり、最後に誰がモールだったかがわかる劇的な面白さには負ける。やはり思い出したくなかった。せめてスマイリー以外は全員原作と名前を変えてくれてたら、誰が誰だかわからなくて最後まで推理ゲームを楽しめたのに、なんて泣き言を言いたくなるのだった。


オールドマン以外のサーカスの面々は特にイメージが固まっていたわけではなく、皆それぞれいかにもという感じで楽しませてくれる。こういうフーダニットものは、映像作品では誰をどの俳優が演じるかによって、その格付けで犯人を予想させてしまうことがよくあるが、これだけのヴェテランや実力派が演じていると、どれも皆そこそこ疑わしく、裏切り者に見えてなかなかよろしい。


演出はトマス・アルフレッドソンで、「モールス (Let Me In)」のオリジナルである北欧ヴァンパイア・ドラマ「ぼくのエリ 200歳の少女 (Let the Right One In)」の監督が、英国で冷戦スパイ・ドラマを撮るか。思うに、すると「ぼくのエリ」は、人間界の中に潜んで生きるヴァンパイア -- すなわちモールを描いたものだったのだなと合点がいった。アルフレッドソンにとっては、モールもヴァンパイアも、隠れ蓑をまとって生きる、真っ当には生きられない者たちという点で同じものであるのだろう。そういえば「ティンカー・テイラー」では、エレヴェイタに乗ったデイヴィッド・デンシック演じるエスターハスの背後でドアが開き、そこにギリアム (ベネディクト・カンバーパッチ) が立っていたという辺りの呼吸はほとんどホラー映画で、ちょっと鳥肌もんだった。なるほど、確かにあの不気味さはホラー作家のものだ。


ところで今後、スマイリー3部作のあと2編、「スクールボーイ閣下」や「スマイリーと仲間たち」も作られる予定はあるのだろうか。とはいっても、実は、では、「スクールボーイ閣下」ってどういう話だったっけ、と思い出そうとしてもほとんど思い出せない。それなのに、あらすじを聞いたり映像を見たりしたら、またいきなり思い出さなくていいものを思い出しそうだ。今度はもしこれらの作品が製作されたら、見る前に積極的に忘れる努力をしないといかんなと思うのだった。










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