放送局: ショウタイム

プレミア放送日: 3/22/2007 (Thu) 22:30-23:00

製作: シカゴ・パブリック・レディオ/パブリック・レディオ・インターナショナル、EUEスクリーン・ジェムス・ステュディオス、キラー・フィルムズ、レフト・ライト、ショウタイム

製作総指揮: ジュリー・スナイダー、アレックス・ブラムバーグ、アイラ・グラス、バンクス・ターヴァー、ケン・ドラッカーマン、クリスティン・ヴァション

監督: クリストファー・ウィルチヤ

撮影: アダム・ベックマン

ホスト: アイラ・グラス


内容: 市井の人々をとらえるシカゴの人気公共ラジオ番組をTVシリーズ化。


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私はラジオはFMの音楽番組以外まず聴かない。流行りのポップス系、およびジャズ系、クラシック系の自分の趣味のチャンネルを数チャンネルずつ自宅のステレオにも車にもセットしてあるので、基本的にそれらのチャンネルを順繰りに聴く以外、まず他のチャンネルを聴くことはない。


そういう風にラジオは音楽のためだけに聴いているので、AMを聴くことはまずない。さらにカントリー系の音楽にはほとんど反射的に拒否反応を起こすので、たとえロバート・オルトマンがその番組を映像化して話題になった「A Prairie Home Companion (今宵、フィッツジェラルド劇場で)」であろうとも、映画としてはともかく、ラジオ番組として耳を傾けようという気にはほとんどならない。


そんなわけで、どんなに人気があろうとも、音楽ではなくしゃべり中心のハワード・スターン番組だとか、先頃黒人女子バスケットボール・チームを茶化して論議を巻き起こしたCBSレイディオのドン・アイムズの番組なんかは、耳にタコができるくらいニューズ・ネタとしては聞いているのだが、番組そのものを聴いたことは一度もない。結局スターンは衛星FMのシリウスに移っちゃったし、アイムズもCBSをクビになったので、両者とも今後も聴く機会はなかろうと思う。


だからNBCの「サタデイ・ナイト・ライヴ」で一時期、アナ・ギャステヤーとモリー・シャノン、および歴代ホスト最多記録を持つアレック・ボールドウィンの3人がほとんどレギュラー・ギャグみたいにやっていた公共ラジオのパロディなんかは、オリジナルを知っているともっと笑えるだろうにと見るたんびに思ってはいたが、結局、やはり一度も聴くことなくここまで来てしまった。つまり、私はシカゴの公共ラジオ局で人気があるという「ディス・アメリカン・ライフ」についても、話題を聞いたことも、ましてや番組そのものを聴いたことなぞ一度もなかった。


今回ショウタイムが放送する「ディス・アメリカン・ライフ」は、市井の人々の普通の生活、あるいはあまりにも普通すぎて限りなく普通とは言えなくなった人々の生活ぶりを余すところなくとらえてカルト的人気を持つ、そのラジオ番組を映像化したものだ。ラジオ版のパーソナリティであるアイラ・グラスがTV版でもホストを担当している。なんとなくFOXの「トーク・ショウ」のスパイク・フェアステンに似ているように感じるのは気のせいか。番組では毎回冒頭でアメリカのどこにでもありそうな街角、道沿いに机を出し、その後ろからグラスが今回の番組テーマを述べ、そのテーマに沿って毎回2、3のエピソードが挿入されるという体裁をとっている。


番組第1回のテーマは「リアリティ・チェック」で、まず、ある女性が現実の非情さを理解した時の回想をドキュドラマのように再構築する。その女性が現実の厳しさを体験したのは、小学校の低学年時代にスクール・バスに乗って下校中、渋滞に巻き込まれて動かなくなったバスの中でおしっこを我慢できなくなった時だった。幸か不幸か彼女は二人がけシートに一人で座っていた。どうしようもなくなった彼女はおしりを少し前の方にずらし、パンツを降ろしてその場でおしっこする。周りはうるさく誰も彼女に注意を向ける者はなく、すべてはうまくいくかと思われた。バスが動き出すまでは。バスが動き出すと、慣性の法則にしたがって彼女の足元のおしっこは後ろに流れ出し、じきに後ろの座席でパニックが起こり、それはバス中に伝染した。その中でただ一人じっと座って俯いていた女の子がその後どんな境遇にあったかを想像すると、ほとんど涙を禁じ得ない。


実際の話、子供の時のスカトロ・ネタは大人になっても忘れない。私が小学1年の時、授業中に先生にトイレと言えなくてうんこをもらしてしまった同級生がいた。後で教室が臭いと皆が騒ぎ出し、当然、その中でただ一人黙って座っていたその男の子は皆から囃されることになり、駆けつけた先生によって連れて行かれ、トイレの後ろで汚れたズボンとパンツを脱がされ、ちんちん丸出しでいたところを、周りを取り囲んだ我々によって笑いものになった。考えたらガキの情け容赦のなさは、今となっては怖ろしいくらいだ。彼が一生消えない心の傷を負ったのは間違いないところだろう。そしてこちらも忘れてはいないのだ。小学校の同級生の顔なんてもうほとんど覚えてないというのに。


これは私がバイトしていた時の話だが、当然のことだが女の子の話になって、あの子がいいこの子がいいと品定めしていた。で、そのうち一人が、実はこの子はとても可愛いんだけれども、オレ、小学校この子と同級で、彼女が学校でおしっこもらしたの知っているんだよね、と言った。要するに、だから好きになる対象にはならないということなのだが、小学校時代におしっこうんこをもらすという失敗は一生の汚点になる。それにしてもなんで子供時代のスカトロ・ネタはまず忘れないのだろうか。


さて、そういう前置きの小エピソードの後、番組はもうちょっと突っ込んだ本題の方に移る。最初にとり上げられるのは、牡牛を家畜としてではなく、長年ペットとして愛し育ててきた男だ。チャンスという名を持つその牡牛は、気性の荒い種にしては珍しく従順な牡牛だったが、当然寿命というものがある。しかし、どうしてもチャンスと別れたくなかったその牧場主は、ある提案に乗る。その提案とは、チャンスのクローンを作るというものであった。そしてテキサスA&M大学の協力もあって、無事クローン牛は誕生する。生まれた仔牛をセカンド・チャンスと名づけて溺愛する牧場主。家畜ではないペットの牛のために誕生パーティまで開く牧場主。しかしそのバーベキュー・パーティで人々が食っているものが何かを知ったら、セカンド・チャンスも何か一言言ったかもしれない。


セカンド・チャンスはクローン牛であり、見かけも性格もチャンスと変わらないおとなしい牛のはずだった。しかし成長するに連れて、セカンド・チャンスはチャンスではなく、獰猛な、他の一般的な牡牛と変わらない気性の荒さを示すようになる。牧場主は不用意にセカンド・チャンスに近づいて投げ飛ばされる。事故はそれだけで終わらず、二度目には命にかかわりかねない重傷を負って病院送りになる。しかしそれでも牧場主は諦めない。もしかしたらセカンド・チャンスに突き殺されることは彼にとってはほとんど宗教的体験であり、殉教を意味するのかもしれない。何度痛い目にあっても、人間の気持ちなぞわかるはずのない牛の肩を持つ牧場主。彼の惜しみない愛情が報われる日は来るのか。


次のエピソードは、どこにでもいる芽の出ない、至って平凡、もしかしたら平凡以下のロック・バンドがフィーチャーされる。それまでは大して客など入ったためしがないこのバンドのギグに、ある時会場満杯のファンがつめかける。実はこの客は全員、ある男の主催するパフォーマンス・グループの人間だった。ほとんど善意で人気のないバンドを応援するために召集されたのだ。しかし彼らは演奏中は全員熱狂しているように見えたのに、ギグが終わったとたん波が引くようにあっという間にいなくなってしまったため、バンドの人間はキツネにつままれたような気持ちになる。


後日これらの客が全員サクラであったことがネット上で暴露されるにいたる。バンド結成史上最高のギグだったと思っていたものがすべてやらせであり、その後で自分たちは物笑いの種になっていたと知ったバンドは、当然のことながら傷つく。後で笑われるくらいなら、最初から客なんかいない方がよかった。今では多少気持ちの整理もつき、一応あれで名前が売れたのは確かであり、一瞬のことであるが至福の体験をしたことも事実だと認める余裕も少しはできた。だから今では特にそのことを恨む気持ちはない。しかし、それでも思い出すと不思議な気持ちになる。あれはいったいなんだったのだろうか。


番組は2回目以降も、このようなごくごく稀な体験をしたごくごく一般的な市井の人々を俎上に上げて話を訊く。因みに第2回のテーマは「マイ・ウェイ」で、頑固に自分の道を貫く人々がテーマだ。それは14歳の少年の女の子や恋愛、自分の将来に対する御し方であったり、絶対に嘘は言わないという信念を貫く政治家であったり、妻の死後何年経ってもその墓を訪れ、4畳半くらいの広さがある墓の中にTVまで持ち込み、そこでしばしの時間を過ごして帰っていく男だったり、人の命が危ない時にそれを助けることなく、シャッターを押し続けたプロのカメラマンだったりする。もちろん番組はそういう彼らの姿勢、行動の是非を問うわけではない。ただその姿を写し撮るだけだ。


「ディス・アメリカン・ライフ」のオリジナル・ラジオ番組は1時間番組で、ラジオ番組だから当然当人や関係者に執拗に話を訊き、その人を浮き彫りにするというスタイルをとっている。ほとんどしゃべりの空白がないラジオで1時間を使えば、かなり掘り下げた番組ができるだろう。私の想像では、ラジオはたぶん見えないというそのことを逆に利用して、想像力に強く訴えかけるような作りになっているという気がする。一方、そのTVヴァージョンは30分枠であり、その間に数本の小さなエピソードが挿入されているだけでなく、映像媒体であることを意識したイメージだけのシーンもかなり多い。したがって、実際に両者を視聴した経験から言うわけではないが、その肌触りは同一ではないだろう。どっちもその媒体に特有のメリットもあればデメリットもある。


例えば、第1話でクローン牛を作った男の話なぞは、そのクローン牛を話として聞くだけと実際に目にするのとでは、やはり説得力が違ってくる。他のすべての話でも、その人物を実際に目にするのとしないのとでは大きく印象が違ってくる。そしてこの視覚媒体であることの効果を最大限に活かしたのが、第2話の最後で登場したカメラマンだろう。このカメラマンはハリケーンが上陸した日に海岸沿いで撮影をしていて、一人の中年女性を被写体に据える。次の瞬間、大波が彼女の足元の砂をすくい、彼女は波に呑み込まれる。カメラマン以外にも近くに人がいて助けに駆けつけようとしたため、このカメラマンは第三者に徹してシャッターを切り続ける。しかし助けに駆けつけた人がその女性を助け上げるよりも早く次の大波が襲い、無情にもその女性は大海のいずこかへとさらわれてしまう。


そしてこの話はいちいち関係者から微に入り細を穿った話を聞かずとも、カメラマンの撮った写真を見ればすべてが一瞬にしてわかる。海岸沿いに佇む女性、波にさらわれて仰向けになって助けを求めて手を差し伸べる女性、助けに駆けつけようとする男性のすぐ間近に迫った3mはあるかと思われる高波は、これを見たら、女性が助からないとわかってはいても後ろに引くしかないだろう。そして一目でその時の状況を完全に把握できるこれらの写真は、ラジオではどうあがいても提供できる術はない。そしてまた、番組はそのカメラマンの行動にも是非を差し挟むわけではない。プロフェッショナルの職業倫理と人間としての行動規範は時として相反するものであり、また、実際問題として、その時カメラマンが救助に駆けつけたとしても、その女性が助かったかどうかはわからない。やはり番組は淡々とその事実を述べるだけだ。


TV版では、こういう視覚媒体ならではのメリットを強調できるエピソードが意識して多く集められている。このカメラマンの話を筆頭に、その後のエピソードでは老境の粋にさしかかった女性が一念発起して脚本を書いて映画撮影に乗り出すというエピソードがあるのだが、彼女が書いた脚本が実際に演出されている模様は、これもラジオでは伝わらない細部が、映像では一目瞭然だ。つまり、どんなにがんばってはいても彼女の作品が映画として上出来の部類に入ることはまずないだろうということを、一発で視聴者にわからせることができる。これはきっとラジオだと、リスナーになんらかの夢や希望を抱かせるような話になってしまうだろう。いわばTV版は、ラジオより非情で残酷だ。ラジオでは見えないもの見せたくないものが、TVでは視聴者の現前に提出されてしまう。


私がこの番組を見て思い出したのは、アメリカではドキュメンタリー映像作家として既に大御所の部類に入るエロール・モリスが同様に市井のあんな人こんな人にインタヴュウしてまとめ上げたブラヴォーのドキュメンタリー・シリーズ、「ファースト・パーソン (First Person)」である。こちらの方は市井の人々の普通でない出来事というよりも、尋常じゃない人々の尋常じゃない出来事という印象の方が強かったが、たとえその人やしでかしたことが一見普通に見えようがそうじゃなかろうが、その明確なラインなんてどこにある? その人にとってはそうすることが自然であり、そうしたいから、あるいはそうせざるを得なくなったからそうなったまでのことなのだ。それを見てすげえやと感心したり笑い飛ばしたりくさしたりするのは見る人の自由だが、しかし一言言えることは、世の中には色んな人がいる。







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ディス・アメリカン・ライフ   ★★1/2

 
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