The Vow from Hiroshima


ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに  (2022年9月)

まだ映画館通いを完全に再開しているわけではないが、この作品は少なくとも2年半振りに公共の場所で他の観客と一緒に見た作品となった。 

 

反核を訴えるドキュメンタリーであり、内容も時宜に合ってタイムリーなのだが、それよりもこの作品をわざわざ専用施設で見た理由は、製作者が私の仕事のボスだったことにある。 

 

そのため、実際の撮影に立ち会ったことはないが、編集段階においてかなり関係する機会があった。特に日本語の字幕製作段階においてその確認を頼まれたこともあり、コンピュータ上で何度も見ている。 

 

とはいえ、それは一本の作品としてではなく部分部分の継ぎ接ぎであり、最初から最後まで通しで見たことはなかった。そのため、通しで全部見たのはこれが初めてだ。そうすると、同じものを見ているはずなのに、コンピュータを一人で見ているのと専門施設でスクリーンを大勢と一緒に見ているのとでは、印象が違ってくる。 

 

視聴環境が異なると作品に対する印象も異なってくるのはある種当然であり、 正直私も当然そのことは理解していたつもりだったが、しかし今回はそのことを本当に強く意識させられた。 

 

例えば、ノーベル賞の授賞式に臨むサーロー節子が、ベッドの上に幾つもドレスを広げて何を着て行こうか迷うシーンがある。このシーンを Mac上で見た私が何を思ったか。特に何も思わなかった。微かに彼女もやっぱり女性なんだなくらいのことはうっすらと思ったかもしれないが、特段なんらかの強い印象を受けることもなかった。あるいは、むしろこのシーンはこれからノーベル賞というクライマックスへの流れを邪魔しているとすら思ったかもしれない。 

 

ところが、この同じシーンを施設で他の観客と一緒に見ると、サーロー節子という人柄が偲ばれて、彼女の気持ちをよく顕すと共に、場内に笑いが洩れる。私も思わず笑ってしまった。一人でMacで見ていた時とは印象がまったく違う。これは私がMacで見ていたのとは別ものだ。 

 

作品はヴィデオで撮ったものであり、フィルムではないが、今ではその肌触りはフィルムとほとんど変わらないところまで来ており、特に画質は気にならない。要するに、大勢の人間と一緒に作品を見ているかどうかが、作品の印象を変える。ちょっとした感情の昂ぶりを倍加させる。 

 

その他にもあちらこちらで、私がMacで見た時とは印象が異なるシーンがあった。たぶん大勢で一緒に見ることで気持ちがシンクロし、作品の持つメッセージ性も高まるのだろう。コロナ波は収束しそうになるとまたぞろぶり返したりするので、たぶん今年いっぱいは様子見と考えているのだが、そろそろ本気で映画館復帰を考えてもいい時期に来たようだ。 


 









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反核を訴える活動家、サーロー節子をとらえるドキュメンタリー。 


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