19世紀ペンシルヴァニア州。一見すべての人々が幸せそうに暮らしているとある村は、しかし、化け物が住む森と接しており、結界を張って始終見張りを立てている必要があった。したがって村はまったく孤立しており、外界との交流はなく、そこに住む人々は一生を村の中で送らなければならなかった。しかし、村の中でも進んだ考え方を持つルーシャス (ホアキン・フェニックス) は、時として村の掟に反するような行動で、村長のエドワード・ウォーカー (ウィリアム・ハート) をはじめ、村の者に動揺を与える。ルーシャスは、エドワードの娘で目の不自由なアイヴィ (ブライス・ダラス・ハワード) と恋仲になるが、それを気に入らない、ちょっと頭の足りないノア (エイドリアン・ブロディ) に刺され、危篤に陥ってしまう。ルーシャスを助けるためには、誰かが森を通って外界に出て薬を手に入れる必要があり、アイヴィは自らそれに志願する‥‥


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映画界におけるモダン・ホラーの語り部、M. ナイト・シャマランの監督第4作は、前世紀のとある人里離れた孤立した村の異様な世界を描く。流行りのCGにはほとんど頼らず、語り口だけによって全然別の世界を提示して見せるシャマランの演出は、今回も健在だ。しかし、現在の映画界にシャマランの存在は貴重だなあ。


シャマランはいつも通りの悠揚迫らぬ演出で、最後まで飽きさせない。物語の語り部としてのシャマランの巧さは、全世界を見渡してもほとんど並ぶ者がないと言える。シャマラン・ホラーは、その不気味さ、異常さ、不可思議さが注目されやすいため、あまり取り沙汰されることはないが、それらの物語を嘘くさくなく提出することのできるシャマランの演出力は、当代随一だ。彼はその気になれば文芸ロマン大作やいわゆる芸術作品だって演出できるだろう。実際、「ヴィレッジ」の後半で、村の者と議論するウィリアム・ハートなんて、まるでドストエフスキー作品にでも出ているように見える。


一方で、じっくりと周辺から描き込んで行くシャマランのスタイルは、話がまだ展開しない最初の方では、時として退屈という印象を観客に与えやすいようだ。私はそうはまったく思わないのだが、実は、「ヴィレッジ」を一緒に見に行った女房は、私が途中でふと振り返った時、頭を傾げて寝ていた。信じられん。シャマラン作品で寝てしまうとは。もったいない。別に昨晩それほど寝てないわけでもないというのに。ということで、私が寝ている彼女の瞼を強引に引き上げて目を覚まさせてあげたのは言うまでもない。


時代設定はともかく、「ヴィレッジ」の構成は、シャマランのデビュー作の「シックス・センス」および「アンブレイカブル」とよく似ている。つまり、「ヴィレッジ」ではそのラストで、これまでの伏線がすべて納得され、村の人々がこうした閉鎖的な生き方をしている理由が明らかになる。最後にそれまで自分が見てきたことが180度覆り、あっと言わせるこのラストの驚愕と納得、騙される快感は、いわゆる本格もののミステリ、それもよくできたミステリを読んだ時の読後感に非常に近いものがある。


とはいえもちろんこの作品は小説ではないから、本格ものらしくフェアに書かれているとか、伏線はちゃんと張ってあるとかいうのとはちょっと違う。シャマランが目指していることは、いかに最も効果的に物語を語るかというその一点に絞られているからで、そのためには持っているすべての持ち駒を観客の前に晒すことはしない。しかし、それでも嘘は言っていない。たぶん、観客のほとんどは、冒頭の葬儀のシーンで、既に最初で最大の目眩しをかまされることになるのだが、自分が騙されたことさえ、最後になるまでは気づかない。


そういう構成になっているから、この作品、見る前に最後のオチを知ってしまうと、興醒めになること甚だしい。とはいえこのインターネット時代、知りたくもないのにひょんなことからこのオチを聞かされてしまう不幸な者も続出することになるだろうと思われる。自分がそんな立場じゃなくてよかった。


シャマラン作品では、皆いかにも自然に最上のパフォーマンスを見せてくれるのだが、今回もそれは変わらない。ハートは、最近の出演作を見ると、「第一の嘘」でも「A.I.」でも「デューン」でもただ苦悩するばかりで、何をそんなに悩んでばかりいるのか、ちょっと質してみたいくらいいつも悩んだ顔つきをしている。それはここでもそうなのだが、その悩んだ顔つきにこれだけ説得力を持たせられるのは、シャマランだからこそだ。オスカー俳優エイドリアン・ブロディの使い方も巧い。ホアキン・フェニックスは途中で怪我をして、それからは本当の主人公であるブライス・ダラス・ハワード演じるアイヴィの独壇場となるのだが、彼女は文句なしに素晴らしい。次作はラース・フォン・トリアーのアメリカ3部作の第2弾「マンダレイ」だそうだが、そちらの方も楽しみだ。


「ヴィレッジ」はよく考えられた作品だとは思うが、エンディングをどう受けとるかは、見る者によるようだ。私は別にそうは思わなかったのだが、私の女房は、あの終わり方は、結局未来がなくて好きではないと言っていた。なるほど、もしかすると一部の人には救いのない印象をもたらすかもしれない。しかし、たぶんシャマランは、未来がどうなるとかまるで考えていなかったと思う。あの物語はあれで終わりなのであって、登場人物のその後なんて、シャマランの頭の中には最初からなかったのだ。


その点では、「ヴィレッジ」は、見た後の印象という点だけに限ると、ハッピー・エンドではなく、観客を突き放して終わり、そしてそのせいで評判もよくなかった「アンブレイカブル」と最も似ている。「アンブレイカブル」は、作品自体は前置きで、本当の物語は映画が終わった時点から始まる、みたいな印象があった。結局シャマランは、いつもどのように物語を提出するかというそのことのみに注力し、観客に対して見終わった後の責任まではさらさら感じてないからこういうことが起こる。既にディズニーの看板監督となってしまったシャマランに対しては、スタジオ幹部も、もっとハッピー・エンドみたくならないものかなんて注文はつけにくいに違いない。


シャマランがスタジオ作品にもかかわらず、こういった自立性を維持できるのはすごいことだ。これが他の監督なら、絶対脚本段階から手を入れられるに決まっている。少なくとも「シックス・センス」と「サイン」という、他の者を黙らせるだけの大ヒット作品をものにしているからこそ、スタジオも黙ってシャマランに好きなように撮らせるのだ。現在、これだけ自分の好きなように作品を撮れるのは、ハリウッド広しといえどもシャマランとスティーヴン・スピルバーグぐらいしかいないのではないかと思われる。シャマランには、今後も好きなように好きなものを撮ってもらいたい。






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The Village   ヴィレッジ  (2004年7月)

 
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