The Truth about Charlie

シャレード (ザ・トゥルース・アバウト・チャーリー)  (2002年10月)

この映画の予告編を見て、いかにもヨーロッパ的な色合いのサスペンス映画っぽいなあと思っていたら、なんと「トゥルース・アバウト・チャーリー」は、あのオードリー・ヘップバーン/ケーリー・グラント主演の「シャレード」のリメイクなんだそうである。しかし予告編で見る「チャーリー」はどう見てもサスペンス映画で、「シャレード」に充満していた、あのお洒落なロマンスっぽい印象を受けない。さて、監督のジョナサン・デミはいったいどう料理したのか。


ヴァケイションからパリの広いフラットに戻ってきたレジーナ (サンディ・ニュートン) は、部屋が荒らされ、ほとんどの調度品がなくなっているばかりか、居合わせた警察のドミニク (クリスティン・ボワソン) から、まだ新婚の夫チャーリーが殺されたことを知らされる。しかも美術品のディーラーとばかり思っていた夫は法の目をくぐる仕事をしていたらしく、偽名で何種類ものパスポートを所持していた。その上かなりの金を仲間から隠し持っており、それを目当てに有象無象の者たちがレジーナの近辺を徘徊するようになる。最初は助けてくれると思っていたジョシュア (マーク・ウォールバーグ) も、CIAだと名乗るバーソロミュー (ティム・ロビンス) も、結局は誰が味方で誰が敵かはっきりとはわからないまま、レジーナは深まるばかりの謎に翻弄されていく‥‥


オリジナルの「シャレード」とは異なり、やはり「チャーリー」はロマンスというよりは、謎解きが主体のサスペンス映画である。ヘップバーンの位置に収まるニュートンはともかく、ウォールバーグがグラントの洒脱さを肩代わりするのはちと難しかろう。ニュートンだってやはり本人の魅力はともかく、ヘップバーンのあの無垢な茶目っ気は誰にも真似できまい。というわけで、「チャーリー」は「シャレード」のリメイクとはいえお洒落なサスペンス/ロマンスというよりも、最初からサスペンスの方に比重をかけるつもりでいたようだ。


「チャーリー」がサスペンス映画になっているというのは、バックに使われる選曲にも拠る。私は「シャレード」というと、反射的に頭にヘンリー・マンシーニ作曲の、あの有名な旋律が響き出すのだが、「チャーリー」で使われるのは、現在の音楽シーン、それもヨーロッパの音楽シーンを反映する曲ばかりで、つまり、中東っぽいリズムの曲が多い。そのため、どうしてもロマンスという感じになりにくい。でも逆に、それがサスペンスや異国情緒の雰囲気を高める効果を上げており、それを狙ったのなら、別に文句はない。というか、こういう選曲ができるデミは、やはり非常にセンスがいい。


実際、デミが撮った「ストップ・メイキング・センス」は、私にとって史上No. 1の音楽映画で、私に言わせれば、あれほど格好いい音楽映画は他にない。今回もデミのセンスのよさがうかがえ、私は思わず映画を見た後でサウンド・トラックのCDを買いに走った。因みに今回、マンシーニのあの旋律は、セーヌ川のほとりのシーンでかすかに聞こえるBGMとして一度だけ使用されている。その他にもシャルル・アズナヴールを登場させて実際に歌わせる、本編とはまるで繋がりのないシーンの演出など、効果のほどはともかく、音楽には一家言あるデミらしい演出を見せる。でも、やはりあれはお洒落というのとは違うと思うなあ。


それでも、全編パリでロケした撮影は異国趣味たっぷりで、雰囲気に溢れている。一応これもパリで撮ったシーンの多い「ボーン・アイデンティティ」が、確かに背景はパリだが、それでもあれはどう見てもハリウッド映画にしか見えないのとは大違いだ。撮影はデミ (とM. ナイト・シャマラン) 作品常連のタク・フジモトだが、「チャーリー」に関しては、ほとんどシネマ・ヴェリテかヌーヴェル・ヴァーグのような即興で撮ったシーンが随所にちりばめられているそうだ。トリュフォーの「ピアニストを撃て」に対する言及といい、要するに「チャーリー」は、デミ版のヌーヴェル・ヴァーグ (あるいはトリュフォー) に対するオマージュなんだな。実際、デミは60年代にトリュフォーが来米して「黒衣の花嫁」をプロモートした時に、トリュフォーのご相判を務めたことがあるそうで、トリュフォーを敬愛していたらしい。「チャーリー」には一瞬だがトリュフォーの墓も映っているそうだ (それがどのシーンだったかは残念ながら私は覚えてない)。


さらには「チャーリー」にはデミの個人的な知り合いや血縁、尊敬する映画作家が多くカメオ出演しており、例えば死んだスタンプ・ショップのオーナーには実際にはデミのプロデューサーのケネス・アット (故人) の写真が用いられており、その未亡人に扮しているのはアニエス・ヴァルダ、最後の方の橋の上のシーンで遺灰を撒いている黒衣の夫人はトルコの伝説的女優であるところのマガリ・ノエルで、一緒にいる女の子はデミの娘ラモナだそうだ。ついでに言うと、その灰は60年代にブリーカー・ストリート・シネマという名画座を経営してニューヨークの映画シーンのキュレイター的役割を果たした、マーシャル・ルイスの本当の遺灰なんだそうである。はっきり言ってこの辺になると私にはまったくどこの誰だかわからない人物でしかないが、要するに、「チャーリー」はそのような、デミの個人的な記憶が詰まったごく私的な作品なんだろう。


結局「チャーリー」は、「シャレード」を知らなくても楽しめる、まったくオリジナルの作品と言ってもかまわないと思う。両作品から受ける印象はかなり異なるし、もし「シャレード」のリメイクということを知らないで見たら、最後まで「シャレード」のリメイクということは気づかないかもしれない (ということはさすがにないか)。いずれにしてもニュートンがヘップバーンとは違う魅力を発散させていることには疑問の余地はない。私はどうしてもウォールバーグはグラントに較べれば少し弱いと思うし (当初デミはこの役にウィル・スミスを考えていたらしいが、スミスは「アリ」撮影で空いてなかったそうだ)、脇もジェイムス・コバーンやウォルター・マッソーという癖のある俳優が持ち味を発揮した「シャレード」の方が印象に残る。その上「チャーリー」は作品内の遊びや実験、デミの個人的な記憶の発露が見る人を選ぶかもしれない。しかしそれでも先週見たフランソワ・オゾンの「8人の女たち」に較べればまだとっつきやすく、楽しめる。これまでとは一味違うパリを体験したい人にお薦めだ。







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