The Ring Two   ザ・リング2  (2005年3月)

新しい町に越してきたレイチェル (ナオミ・ワッツ) とエイダン (デイヴィッド・ドーフマン) だったが、その二人の周りでまた新しい事件が起きる。若いカップルがヴィデオテープを見て、男性の方が苦悶に顔を歪ませたまま絶命していたというのだ。さらにエイダンの素行までもがおかしくなる。サマラの呪縛はまだ解けていなかったのか‥‥


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和製ホラーが注目されるきっかけとなった「ザ・リング」の成功により製作された第2弾、前作同様ナオミ・ワッツとデイヴィッド・ドーフマンという主人公二人の存在は変わらない。今回と前回との最も大きな違いは、監督にオリジナルの中田秀夫を持ってきたことだろう。「The Juon (The Grudge)」の清水崇といい、オリジナルを演出した日本人監督がそのままハリウッド・リメイクでもメガホンをとっている。


とはいえ、実は私は、今回中田が演出していることは知らずに見に行ったので、また前回同様、今回もゴア・ヴァービンスキが演出しているものだとばかり思っていた。さらに、「ザ・リング2」は邦画同様、作品が終わるまでクレジットが流れないので、実は見終わるまで、ヴァービンスキが監督しているのだとばかり思っていた。それにしてはなんというか、ハリウッド的な派手さがあまりなく、わざわざこういうベタっぽい演出を意識的にしているのか、それはそれで作品と合ってないわけではないが、ふーん、そうかと思いながら見ていた。


実際、特に導入部に見られるあまりにもご都合主義的な展開ははっきり言って噴飯物としか言いようがなく、なんでこんな脚本がリライト地獄で知られるハリウッドで通ってしまったのかまったく不思議でならなかった。同様のヴィデオテープ事件がここでも起こっていることを知ったレイチェルは被害者の家に赴くのだが、そこでなぜだか誰も見張りにも立っていない、被害者が運び込まれた救急車の中に難なく入っていってしまうし、警察署では、たまたまやはりそばに誰もいない被害者の一人を見つけて話す機会を得る。こんなバカな展開があるか。親がたぶん殺人事件に巻き込まれて怖がっている娘を廊下に一人ほっておくという状況の嘘臭さをまるでわかってない。一応は金をかけたハリウッド・リメイクだろ、これ。


これはどちらかと言うと脚本というよりは演出の問題で、たとえば被害者を乗せた救急車の回りに人が立っていないなんてのは、脚本に書かれていなくても、状況をイメージすれば、普通の演出家なら何人か人を立たせ、その目を盗んでレイチェルが車内に入るくらいの小技は利かせるはずだし、警察署のシーンでもそれは同様だ。いずれにしても、最初の方はレヴェルの低いリメイクという印象しか得ることができず、まだこんな感じで続くなら、出るぞ、帰るぞ、オレは、と心の中で脅しをかけながら見ていた。それが一応段々面白くなるのは、郊外のフリー・マーケットに出かけたレイチェルとエイダンの車が野生の鹿の集団に囲まれるあたりからで、中田って本当にホラー・プロパーの演出家なんだな。


実は私はオリジナルの「リング」はヴィデオで見ており、ほとんどまったく同じ焼き直しという評判だったハリウッド版「ザ・リング」は見ていない。その上、オリジナルからTV版から「0」から「2」からなにがなんだかよくわからない「リング」関連はその関係がほとんどわからず、いいちいち調べてみる気も起こらない。そのため、「ザ・リング2」が本当に「リング2」のリメイクで、しかも前作同様のきっちりとした焼き直しであるかどうかもわからない。


そのため、実はホラーというよりも、見た後では家族ドラマという印象の濃い「ザ・リング2」が、狙ってそうなったのか、オリジナルもそうだったのかはよく知らないが、結果として、一応それなりのまとまりを得たという印象を受ける。特にクライマックスで、レイチェルがエイダンを助けるためにサマラと対決する件りは、「リング」ではなく「ポルターガイスト」を彷彿とさせる母子愛を描くドラマになっている。


オリジナルとリメイクの「リング」があれだけ評判になったのも、ひとえにあのTVの貞子/サマラのシーンにあったのは明白で、あのシーンだけは私も最初見た時、ぞぞぞと背筋に震えが走った。それが今回、もちろん、観客のほとんどは既にそのシーンを見た後で免疫ができていたというのはあるだろうが、レイチェルがTVの中のサマラと対面するという山場でも恐怖感は微塵もなく (劇場の観客も騒ぎ立てず、全然普通に見ていた)、子を思う親の愛が前面に押し出されている。


そのため、その後の井戸の中のレイチェルのシーンでも、追ってくるサマラは確かに怖いは怖いのだが、そのシーンはホラーというよりも、「エイリアン2」でシガーニー・ウィーヴァーが見せたような、母親の愛はエイリアンよりもサマラよりも強いというアクションの見せ場になっている。それまでは貞子/サマラは手の届かない別の場所から自分たちに呪いをかけてくるからこそ怖かったわけで、そいつに触ることができるならば、殴り倒してやればいい。


もちろんそういう展開自体に不満があるわけではなく、最初からそういうのが作りたかったのなら別にそれはそれで全然構わないし、うまくオチをつけたとも言える。見ている時はB級だなあと思いながら見ていたわけだが、これが日本人監督によってアメリカでハリウッド俳優を使ったリメイクという観点で見るなら、また別の印象を受ける。「The Juon」の清水の場合は、ハリウッド俳優を起用したといえども、場所はやはり東京であり、全体としては、やはり和製ホラー特有の湿り気が印象を決定していた。ところが今回は、「ザ・リング」同様ハリウッド俳優によるアメリカを舞台としており、日本人監督が演出する意義は特になかったと言える。それなのに中田がハリウッドでどう演出したのかというところがポイントであり、ところどころ散見されるベタな演出さえ見逃せば、頑張ったと言えるのではないか。


ベタな演出といえば、実は作品にはなんとシシー・スペイセクが出ており、思わずこんな大物をよく引っ張ってきたなと思わせといて、ほとんど活かしきれていない。あれはもったいない。スペイセクを使いたいと思った気持ちはわからんではないが、スペイセクの技量はあの印象的な目を見せないと活かしようがないのに、始終髪を前に垂らして目を隠し、ではいつここぞという瞬間に目を見せてくれるんだと思っていたらそれはなく、しかも神経を病んで病棟の個室住まいを余儀なくされているスペイセクがハサミを使って始終紙を切っているという、ここでもどう考えてもあり得ない設定が出てくる。精神を病んだ病人にハサミを与える病院がいったいどこにあるというんだ。


スペイセクほどじゃないが、レイチェルの同僚のマックス役で出ているサイモン・ベイカーの使い方も恐れ入った。ベイカーはCBSで3シーズン続いた「ザ・ガーディアン (The Guardian)」で、主人公の弁護士を務めた結構な二枚目であり、アメリカではそれなりにファンもいる。それを知っていると、このキャスティングだと当然マックスはレイチェルをサポートする副主人公という印象があり、最後にはもしかしたらこの二人はくっつくのかも知れないと思うのだが、あの展開はベイカーの知名度なんかまるで無視されているなあ。ベイカーは主演のワッツ同様オーストラリア出身であり、その繋がりで起用されたのかもしれない。ところでオーストラリア出身の男優って、ベイカーに限らず、ラッセル・クロウでもヒース・レッジャーでも、スーツもびしっと着こなすわりには、それよりも土臭い役の方が実はもっとはまったりする。オーストラリアって実は結構田舎なのかなと思ってしまうのだった。


その他に気になったのがエンディングに使用されていた音楽で、ハンス・ジマーというそれなりの有名どころを使っているくせに、マイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」(つまり「エクソシスト」だ) をまんまパクっている。昔かなりオールドフィールドを聴き込んだ私としては、この音楽はかなり不満。「エクソシスト」でほんのちょっとだけ「チューブラー・ベルズ」が使われるシーンは、作品内で最も浮いているシーンのくせに、あるいはそのためか非常に印象に残るシーンになってしまい、おかげで「チューブラー・ベルズ」は本質とかけ離れたところでヒットしてしまった。オールドフィールド自身がああいう使われ方は本意じゃないと言っている使い方の真似をして、しかも結局はエンディングでしか使わない。このセンスはいただけなかった。


ところで注目されている和製ホラーであるが、こないだUSAトゥデイに目を通していたら、ブームは既に和製ホラーではなく、韓国製ホラーにシフトが移りつつあるのだそうだ。なんでも「箪笥 (A Tale of Two Sisters)」とか「ボイス (Phone)」とかは既にハリウッドがリメイク権を買っており、次のブームを虎視眈々と狙っているという。「ボイス」とかは、内容を見るとなんか「リング」と根底の設定は同じという印象を受けるが、どうなんだろう。いずれにしても、ホラーの世界もここへ来て急激に東西の垣根はなくなりつつある。 






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