母、祖母と一緒に住む少年イヴァンとアンドレイの家へ、ある日ひょっこり、12年間も音信不通だった父が帰ってくる。これまでの不在の空白を埋めるかのように、父はイヴァンとアンドレイを連れて小旅行に乗り出すが、あれこれとうるさく口を出す父に、特にイヴァンは馴染めず、ことごとく反抗して対立する。3人は孤島でキャンプを張るが、そこでついにイヴァンは爆発する‥‥


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単にロシアと言っても広い。東の端に行くと日本をはじめアジアと接しているし、それから中央アジア、中近東、東ヨーロッパ、スカンジナビアと、東と西の端では、それこそ地球の正反対と言えるほど文化の違いがあるだろう。しかも、地名が特定されないこのロシア映画で、主人公親子以外に現れる登場人物は、極端に少ない。特に中盤、主人公親子がキャンプ地に行くためにボートを漕ぎだしてからは、完全に登場人物はこの3人に絞られる。


この無国籍性と静謐な画面のため、監督のアンドレイ・ズヴャギンツェフはアンドレイ・タルコフスキーとよく比較されていたりする。確かに少ない会話、一幅の絵のような静止したイメージ辺りに、その類似点は探れそうだ。しかし、ズヴャギンツェフとタルコフスキーの最大の類似点は、画面に現れる水の頻度の多さにある。本当にそういうところなのかどうかは知らないが、「リターン」ではよく雨が降る。その上、登場人物が勤しむレジャーは釣りであり、行く先はボートを操っての小島であるなど、画面に水が映る頻度は高い。「リターン」を見ながらタルコフスキーを思い出してしまうのは、何よりもまず、その、気温の低い北の湿原を思い起こさせる水のイメージにあると言えよう。


舞台となる海沿いの村や小島は、もしかしたら海ではなく、湖かもしれない。冒頭で子供たちが飛び降りる飛び込み台だって、見ようによっては湖のように見えないことはない。しかし、小島には灯台があるし、錆びた船はどう見ても塩水によるものだと思われるし、360°視界が水だってのは、湖の中に浮かぶ小島というよりは、海の沖合の小島と考えた方が収まりがいい。それでも、ロシアのことだ、もしかしたら黒海やカスピ海にそういう場所があってもおかしくない、などと考えてしまう。


物語は、そういう場所に母と祖母、兄弟二人が住む家に、12年も音沙汰のなかった父がいきなり帰ってくるという設定で始まる。12年前の写真から判断するに、その男が本物の父であることには間違いなさそうだ。しかし、なぜ12年も連絡のなかった男が、いきなり今になって帰ってきたのか、父はいったいどこにいたのか、それが説明されることは最後までない。


たぶん、想像するに、父は何かをしでかして刑務所にでも入っていたのだろうと推察される。だから子供たちには何の説明もなかったのであり、たとえ父が帰ってきたとしても、祖母と母を含め関係はぎくしゃくとしており、とても家族の団欒といった雰囲気ではない。それなのに父は、いきなりほとんど乗り気でないアンドレイとイヴァンを連れて、キャンプへと繰り出すのだ。


結局この小旅行は、父がこれまで不在だった埋め合わせをするためではなく、実は、父が昔、小島の朽ち果てた家の残骸に埋めた、ある小箱を回収するためであったことが知れる。私が、父が刑務所にいたのではないかと想像したのは、その昔、何か悪いことをして、その戦利品だけは口を閉ざして誰にも語らなかったのだろうと思えるためだ。どちらかというと兄弟は、その、父のあまり大っぴらにはできない行動の隠れ蓑として利用されたに過ぎないように見える。


とはいえ、父が子供たちに対して何の情愛も見せず、自分の知識を教えることもせず、ほったらかしにするだけかというと、そうでもない。わりと彼なりの教育を実践しているように見えなくもない。ただそれが、一方的な押しつけに見えるのだ。考えると、ああいう感じの父親像というのは、私が子供の頃くらいまではかなりいた。私のおじの一人は、2、3歳の自分の息子に、車の助手席に座ることを許さず、必ず立たせていた。どういう理由だったかは知らないが、彼にとってはそれは重要な教育の一部だったのだ。今、アメリカでシート・ベルトも締めさせずに子供にそんなことさせたら、それだけで親は刑務所行きである。


いずれにしても、それでも映画の中での父が二番手に重要なキャラクターとしての地位に留まっているのは、父が結局、最後まで名前がないままで終わることでもわかる。実は母もそうで、結局母は、子供たちからママと呼ばれるだけで、その母も、父親のことを、子供たちに向かって、あなたたちの父が帰ってきたと言うだけで、父に向かって名を呼んだりはしない。映画の中で名前があるのは、アンドレイとイヴァンの、二人の兄弟だけなのだ。要するに、父は、結局、子供たちの視点から見た父として存在しているに過ぎない。


そういう、ハリウッド映画にはあまり見られない演出、それも省略が多いのがこの映画の特色で、それが端的に現れたのが、父が回収する小箱である。実はこの小箱、中身に対して何の説明もなく、結局、観客は、最後までその中身を知らずに作品は終わってしまうのだ。


この辺の観客に対する不親切さが、既にハリウッド映画にどっぷりと漬かってしまった身には、非常に新鮮に映る。ここにポイントはなく、刺し身のツマというか、レッド・へリングに過ぎず、それを見せようが見せまいが構わない、あるいは、見せる必要なぞまったくないと信じて疑わない作り手の意識が横溢している。ハリウッドでこの脚本を見て企画にGoサインを出すプロデューサーは一人もいないと断言できる。実際、私と女房は、この映画を見て帰る車の中で、結局あの箱の中身は何だったんだと、ひとしきり話し合ったんだが、結局、それこそ何でもよかったんだろう。単純に金の延べ棒だとか、金貨だとか、ごくありきたりの財宝なんか見せられるより、何も知らないままのあの終わり方でよかったのかもしれない。


ところでロシア映画ということで、オリジナル・タイトルは当然ロシア語であり、アルファベットには含まれない文字も多々ある。で、まあ、一応原題も入れとこうかなと思ってIMDBで調べてコピーして貼り付けてみたはよかったんだが、ポスターと較べてみると、いったい、これのどこがオリジナル・タイトルなんだ、というスペリングになっている。アルファベットでは賄えない文字があるから当然だろう。というか、ロシア語を習ったこともないので、英語ではなぜこういう綴りになるかよくわからない。たぶん、オリジナルの発音をできるだけ忠実に英語で綴るとこういうふうになるんだろうが、それでもほとんど発声に苦しむ。カタカナで書くと‥‥ヴォズラッシュシェニエって感じか?


なんとなく日本人の立場から見るとロシアという国は西洋に近い印象があるが、実はそうではなく、アメリカ人のほとんどは、ロシア人というものは何を考えているのかよくわからない国と思っていることを、私は渡米して初めて知った。考えれば、だからこそ冷戦なんてものがあったのだ。昨春、ケーブルのヒストリー・チャンネルで、「ロシア: ランド・オブ・ザ・ツアース (Russia: Land of the Tsars)」というドキュメンタリー・ミニシリーズが放送された時、チャンネルの視聴率記録を達成していたりする。要するに、アメリカ人にとってロシアはまだ見知らぬ国であり、この国の本当の姿を知りたいと思っているのだ。そして現れた「リターン」、どうもアメリカ人がロシア人を理解する一助となったかは疑問だ。私だって、やはり、タルコフスキーを産んだ国なんだなあと思ってしまったもんね。






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The Return (Vozvrashcheniye)   ザ・リターン  (2004年3月)

 
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