1870年代、パリ。オペラ座の次の舞台の主役カルロッタ (ミニー・ドライヴァー) は我が儘のし放題で舞台を降りると言い出す。クリスティーヌ (エミー・ロサム) はその代役を務めることができる実力があることを証明し、謎の存在である、人前には姿を見せないオペラ座の怪人 (ジェラルド・バトラー) もクリスティーヌを後押しする書簡を関係者に送付する。クリスティーヌは大役を射止め、幼なじみのラウル (パトリック・ウィルソン) と再会し、二人の間には愛が芽生える。しかし、オペラ座の怪人もまたクリスティーヌのことを愛していたのだった‥‥


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2005年最初の大吹雪がニューヨークを襲った土曜日、私はクリント・イーストウッドの「ミリオン・ダラー・ベイビー」を見に行くつもりだった。朝起きた時はまだ降っていなかったが、午後から猛烈に吹雪くと天気予報は言っており、警報も出ており危険だから、絶対に外に出る必要のある者以外は家にいるようにと繰り返しTVの臨時ニュースが伝えている。どうしよう、午後遅くから降り始めるなら、設備のいい郊外のマルチプレックスまでなんとか車で行って帰ってこれるかもしれない。


第一、車を使えないとなると、チョイスは歩いて行ける近場の映画館しかなくなってしまい、それだと見るつもりでいた映画の選択肢はもう「オペラ座の怪人」しか残っていない。もちろん「オペラ座の怪人」だって見るつもりではいたが、先週やはりミュージカルの「ビヨンド the シー」を見たばかりでもあり、1年に数本見る機会があればいいミュージカルを、なにも2週連続で見る気にもあまりなれない。


と考えているうちに、ちらほらと雪が降り始めた。もろ天気予報通りである。灰色の空を見ると、確かにこの雪は積もりこそすれすぐには止むことはなさそうだ。女房は、やっぱり危険だからイーストウッドは諦めたら? と既に気持ちは「オペラ座の怪人」に向いている。残念だが選択肢はそれしかなさそうだ。ま、どうせそのうちに見るつもりではいたので、それならそれでいいか。


「オペラ座の怪人」は、言わずと知れたブロードウェイの舞台の映像化である。あるいはガストン・ルルー作のクラシックの、既に何度目かわからない映像化と言うべきか。ミュージカルという点だけをとってみても、ブロードウェイ以前にブライアン・デ・パルマのミュージカル映画なんてのもあった。荘厳で迷路めいた古めかしいオペラ座の舞台裏に住む謎めいた怪人という設定は、いつの時代にもいたく人々の想像力を刺激してきたし、当然舞台が舞台だけにミュージカルという媒体とも結びつきやすい。


そして少なくとも現在「オペラ座の怪人」というと人々がすぐさま頭に思い浮かべるのは、アンドリュウ・ロイド・ウェーバー作曲のブロードウェイ・ミュージカルだろう。特に舞台を守備範囲としているわけではない私でも見ている、歌、踊り、絢爛豪華な舞台立ての三拍子揃った、ブロードウェイを代表するミュージカルだ。「キャッツ」なき今、一人でブロードウェイの公演記録を更新中である。その「キャッツ」と「オペラ座の怪人」で曲を提供しているアンドリュウ・ロイド・ウェーバーが製作費の一部として私費を投じてプロデューサーとして映像化したのが、この「オペラ座の怪人」だ。


映画は最初、モノクロで1900年代の今では荒廃したオペラ座の姿を描き、それから過去に遡るという構成になっている。そのオペラ座で過去の小物のオークションが行われ、オペラ座の怪人が所有していた猿のオルゴールのイメージから舞台は過去に飛ぶのだが、その時こけ脅しの大音量でよく知られたミュージカルのテーマが流れる。思わずちょっとあまりにも芸のない演出にこちらの方が恥ずかしくなってしまい、ずっとこんな感じで進むとやだなあなんて思っていたのだが、そんなのは杞憂で、いつの間にやら気がついてみると完全に物語にはまり込んでいた。「オペラ座の怪人」は、ホラーと恋愛を音楽をこれでもかというばかりに大風呂敷を広げて提出する大ゴシック・ロマンなのだが、これだけ大上段からはったりを利かせて堂々と撮られると、素直にその世界に巻き込まれてしまう。後はただ、別世界のお伽噺に身を委ねて見ていたのだった。


ブロードウェイで「オペラ座の怪人」を見た者ならわかるだろうが、舞台で最も印象的なのは、あのシャンデリアのシーンと幕切れにあると言える。もう今ではあまりにも有名になってしまって、初めて見る者の衝撃が以前に較べて薄れてしまったが、なんの前知識もなく舞台のシャンデリアのシーンを見れた者は幸せである。これがブロードウェイの醍醐味だと太鼓判を捺せる印象的なシーンだ。実際に怪人が煙と消える幕切れも見事で、こういうのは、生身の人間が演じる舞台であるからこそ効果が倍増する。同じことを編集でいかようにもできる映画でやっても芸がないだけだ。


それでも、作品の印象を決定しているとも言えるシャンデリアのシーンは、映像化では外すことができず、ちゃんと撮影されている。とはいえ実際にシャンデリアが客席まで出張ってくるわけではない映画では、その効果のほどは、どのように撮ろうと舞台ほどでないのは明らかだ。舞台には舞台の、映画には映画の演出の勘所というものがあり、それは両者では微妙に違うというのがよくわかる。ふとニコラス・ハイトナーやバズ・ラーマン等の、映画も舞台も手がける演出家が「オペラ座の怪人」を演出したらどういうふうになったか見たかった、などとも思ってしまう。


非常に楽しんだ「オペラ座の怪人」であるが、実はこの作品、批評家受けはそれほどよくない。むしろ、どちらかと言うと貶されている部類に入る。あまりにも意外だったので、ちょっと今回はわりと熱心に評に目を通してみたりもしたのが、端的に言うと、いかにヴィジュアルに凝り、豪華なセットを造ろうとも、それに入れる中身がない、というのが大方の意見のようだ。演技、演出ともなってないというのである。そうかあ。私はロサムの無垢さも、報われない愛に苦しむ怪人のバトラーも、若々しいウィルソンもみんな悪くないと思った。脇のミニー・ドライヴァーや、シアラン・ハインズなんてのも気が利いていた。


演出という点で言えば、例えば、コミック・リリーフの役を受け持たされているドライヴァーは、オペラ座の主役なんだから一応は歌はうまいはずで、実際にうまかったりするが、ややもすると劇場の従業員が耳を塞ぎたくなるという独りよがりな押しつけがましさも持ちあわせていなければならない。言うは簡単だが、ではどうするかというこういう微妙なバランスがちゃんととれているところなんかは、さすがシューマッカーと思ったりもしたんだが。


また、歌という点でも、幼い頃からメトロポリタン・オペラに出演していたロサムを筆頭に、これまたいいと私は思ったのだが、例えばエンタテインメント・ウィークリーによると、バトラーは「ニンニクをとり過ぎのミート・ローフが歌っているよう」なのだそうだ。そんな比喩でいったい何をイメージすればいいというんだ。要するにあんたがバトラーとミート・ローフが嫌いなだけなんだろと邪推してしまうが、多かれ少なかれこんな感じでほとんど誉められていない。


要するに、「オペラ座の怪人」の大仰さ、思わせぶりな大時代ぶりをどうとらえるかというのが、作品を貶すか誉めるかの大きな分岐点になっているようだ。私も冒頭、思わずその大時代な演出に一瞬身構えてしまったが、そこを乗り越えるとあとは堪能した。たぶん、そこで躓いたまま、ずっと最後まで違和感を引きずったままの者も多かったんだろう。そこで壁にぶち当たることなく、ちゃんと作品内に入っていけた私は、こいつは得したなと思ったのであった。こういうのは楽しむのが勝ちだ。


映画を見て劇場の外に出ると、そこは既に降りしきる雪で埋まっており、横なぐりの雪に歩くことすらままならない。これがまた、「オペラ座の怪人」を見たばかりの気持ちに異様にシンクロして、切なく、豪奢なムード満点であった。私たちは実に考えうるかぎり最高のタイミングで「オペラ座の怪人」を見たようで、これでは作品を甘く採点したくもなるというものだ。いずれにしてもおかげでその日は一日中、頭の中でタララララー、タララララーと、「オペラ座の怪人」のテーマがエンドレスに鳴り響いており、それは晩飯の準備にネギを切り刻んでいる間も止むことがなかった。






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The Phantom of the Opera   オペラ座の怪人  (2005年1月)

 
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