1952年、理想に燃える医学生エルネスト (ガエル・ガルシア・ベルナル) は、親友のアルベルト (ロドリゴ・デ・ラ・セルナ) と共に、オートバイを駆って南米大陸を走破する旅に出る。ほとんど無一文の二人は、機転を図らせて食事や一夜の宿にありついたり、危機を逃れたりしながら旅を続けていく。そしてその先々で出会う人々や事件は、若いエルネストに社会の不条理や、力ない者に対しての故ない弾圧に目を向けさせていくのだった‥‥


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またもやガエル・ガルシア・ベルナル主演の南米映画である。「天国の口、終りの楽園。」で共演したディエゴ・ルナが、「オープン・レンジ」、「ターミナル」、「クリミナル」とアメリカ映画に活躍の場をシフトしているのに対し、ベルナルは今でもスペイン語の映画にばかり出ているという印象がある。いつだったかTVを見ていたら、何かのアウォーズ・セレモニー (アカデミー賞だったっけ?) にベルナルが出ていて、かなり流暢に英語を喋っていたから、特に英語が苦手なようにも見えないが、しかし、まあ、おかげで今ではスペイン語圏の代表的な男優というと、アントニオ・バンデラスでもハヴィエル・バルデムでもなく、ベルナルを思い浮かべる映画ファンは多くなったのではないか。


「モーターサイクル・ダイアリーズ」は、チェ・ゲバラが若い頃、モーターサイクルに乗って南米大陸を無銭旅行して回った経緯を描く、いわばドキュドラマである。とはいえ、予告編だけを見ていてもそれがゲバラだと必ずしも気づくわけではない。実際、そういう風にマーケティングもしているのだろう、作品は必ずしもゲバラという名前とセットにはなっておらず、当時の社会情勢とか政治的なテーマを抜きにして、別に主人公がゲバラであろうとなかろうと楽しめるロード・ムーヴィのような感じで推されている。


今週、何を見ようかと女房と話していて、「モーターサイクル・ダイアリーズ」を候補の筆頭に挙げるので、ふと気になって、女房に、ね、ゲバラって誰だか知ってる? と訊くと、案の定、誰、それ、という返事が返ってきた。やっぱりこの映画、ゲバラという固有名詞をわざと前面から隠すことでポリティカルな含みを薄ませ、青春映画的な印象を濃くして女性ファンの動員を狙っているようだ。女房はもろにその術中に陥っている。実際ベルナルがバイクに乗って走っていくシーンだけを見ると、あまり政治とかゲバラとかいう名前は想起しにくいし、私だってもう何十年も前に入試の時に世界史をとって現代まで一通りさらったから一応ゲバラが誰かくらいは知っているが、さもなければ女房と五十歩百歩といったところだ。


しかもそのゲバラを演じるのがベルナルとなると、もう、はっきり言って製作の段階からロード・ムーヴィの乗りを狙っていたのは明らかだろう。いつも目が濡れていて、どっちかっつうと優男的な印象が強いベルナルが、若い頃から眼光鋭い強面のゲバラを、さも本人のように演じられるとは到底思えない。


そしてそのことが、「モーターサイクル・ダイアリーズ」の強みにも弱みにもなっている。強みとは、もちろんよくできた青春ロード・ムーヴィとして楽しめる作品に仕上がっていることだが、もし、製作者が本気でこの作品に政治的な含みを持たせようと考えたのだとしたら、今度はそれは成功しているとは言い難い。作品の中盤以降、ベルナル=ゲバラが社会的意識に目覚めつつある件りの描写は急ぎ過ぎの感を拭えず、どうしても、もうちょっとこの辺りを時間をかけて描き込めたらと思わざるを得ない。


そしてこの作品の評価がかなり分かれている理由も、もちろんそこにある。本当にゲバラが何をしたか、ゲバラがどういう指導者だったかを知っている者にとっては、「モーターサイクル・ダイアリーズ」は、焦点のぼけた甘すぎる感傷映画と映るようで、そういう批評家たちのこの映画に対する評価はかなり低く、そこまで悪いかなと思ったりする。一方、よくできた青春映画と見る者たちの甘すぎる採点にも、ちょっと首を傾げたくなる。


私の意見はその中間というところだ。確かに甘いとは思うが、それが魅力であることも確かだ。この甘さは積極的に評価してもいいんではないか。しかしまたゲバラのことを知らない人間に、ゲバラの本当の姿を伝えているとも思えない。とはいえそのリスクは、ベルナルをゲバラとして起用した瞬間から当然わかっていたはずのリスクであり、製作者がもし政治的な意図を持っていたとしたら、この映画を見てもし思うところがあったら、その時は本当のゲバラの生涯を自分で調べてみて欲しい、くらいのものでしかなかったのではないか。


私が最もあれ、と思ったのは、モーターサイクル・ダイアリーズのはずなのに、道程の半分も行かないうちにそのモーターサイクルが壊れてしまい、映画の後半はウォーキング・ダイアリーズになってしまったことである。そのため、それまでの速く動く移動体から世界を見ていた視点が、後半は徒歩のスピードの視点になる。そのため今度は虐げられている人々の姿がよく見えてきて、政治的な含みが大きくなるわけだ。そしてたぶん、実際にゲバラの旅というのもそういうものだったのではないか。それにしても、見てたらまったく自由に色んな国を行き来していたようだが、50年代の南米って、国から国に移動するのにパスポートって要らなかったのだろうか。そもそも我々のイメージである、ライフルを構えた国境のガードっていうのはいたのだろうか。そういう国境のシーンの一つや二つは入れてもよかったのに。






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モーターサイクル・ダイアリーズ  (2004年10月)

 
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