The Missing


ザ・ミッシング  (2003年11月)

19世紀末、ニュー・メキシコ。医者のマギー (ケイト・ブランシェット) は長女のリリィ (エヴァン・レイチェル・ウッド) と次女のドット (ジェナ・ボイド) と暮らしていた。ある日、マギーの恋人のブレイク (アーロン・エックハート) がリリィとドットを連れて町に行く途中、年頃の女性を誘拐して売り飛ばすことを生業にしているインディアンに襲われ、ブレイクは殺され、リリィは連れ去られる。帰らぬ娘たちを探しに来たマギーは、一人残されたドットを発見する。折しも昔、家族を捨てて出ていったマギーの父サム (トミー・リー・ジョーンズ) がよりを戻そうと戻ってきていた。マギー、ドット、サムの3人は、手遅れになる前にリリィを連れ戻すため、馬に乗って跡を追う‥‥


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トマス・イードスンの原作をロン・ハワードがケイト・ブランシェットとトミー・リー・ジョーンズ主演で映像化。なにやら不穏な気配の中で娘がさらわれたことだけが知れる予告編はだいぶ前から劇場にかかっており、思わせぶりなタイトルといい、私は「ギフト」みたいな超常現象ものだとばかり思っていたら、19世紀西部を舞台とする西部劇だった。


若い女性をメキシコ人相手に人身売買しているインディアンに娘をさらわれた母親が、かつて袂を分かった父と、まだ幼いもう一人の娘と共にその跡を追うという筋書きで、要するにこれはジョン・フォードの「捜索者」の変奏だ。「捜索者」ではジョン・ウェイン一人だけだった追いかける側が、今回は父、娘、その娘の3人になり、父は事実上インディアンの教えに回心していたり、何十年もウェインがさらわれた娘を追い求めた「捜索者」と異なり、今回はたった数日で決着はつくが、舞台が西部だと、誰だって「捜索者」を思い出さずにはいられまい。


今回はそれに、いったんは心が離れてしまった父と娘が、父にとっては孫娘が誘拐されたことで、一緒に探索行に同道することで、再び心を通い合わせるという二段構えの親と子の絆のありようが新たな伏線として付加されている。しかし今回、そういうテーマよりも気になるのが、極悪なインディアンが出てくることによる、ポリティカリー・インコレクトな展開である。もちろんインディアンにだって極悪人はいるだろうし、本当にありそうかという点だけを見るならば、「捜索者」よりも「ミッシング」の方がありそうな話に見える。ジョーンズ演じるサムは西洋的なスタイルよりインディアンの生活スタイルの方に近しいものを感じ、ほとんどインディアンに帰化していたり、ブランシェットたちに協力するインディアンもいたりして、インディアンが全部悪者として描かれているわけではないのだが、それでも今さらまたこういう画一的なインディアンかと、どうしても思ってしまう。


なにも映画に限らず、表現媒体がポリティカリー・コレクトである必要なぞまったくないと私は思っているのだが、主人公側の描かれ方に対して、一方のインディアンが悪者にせよそうでないにせよ、いずれもいかにも一元的で画一的なキャラクターだと、どうしても釈然としないものを感ぜずにはいられない。フォードやホークスの時代とは違うんだと思ってしまう。フォードだって晩年には「シャイアン」を撮っているというのに。


先週見た「マスター・アンド・コマンダー」が、作品としての力はともかく、今一つこの作品を誉める者の歯切れが悪いのも、絶対善の英国海軍と、それ以外はすべて敵=悪とする描き方にあった。こういう話は、小説なら読者が納得いくまで細部を描き込めるし、また、定式として受け入れられたりもするのだが、日々演出スタイルというものが進化し、眼前に見えるものだけがすべての映画という媒体では、フランス軍やインディアンが、ただフランス軍だったりインディアンであったりするだけで悪者扱いされたりすると、違和感を覚えてしまう。それが現代に生きる人々のセンシティヴィティというものだろう。せっかく強い女性を登場させて現代風な展開を見せても、悪役が一元的ではなあと思ってしまうのだ。


とはいえ、やはり主演ばりばりで馬に乗って疾走するブランシェットを見るのは、この映画の醍醐味の一つである。ついこないだも「ヴェロニカ・ゲリン」でブランシェットを見たばかりなのだが、彼女って本当に見飽きない。最近は彼女が出ると、今回はどんなふうに虐められるのか、どんなふうに脅えてくれるのかと、それが楽しみなのだが、今回はインディアンの呪いにやられて顔に天然痘のようなあばたをこしらえての熱演で、この女優根性は、いつ見ても感心する。


インディアンの呪いと言えば、後半、いきなりキリスト教とインディアンの宗教対決のような構図になったりして、ふうむ、こんな手を用いてきたか、やはり超自然現象を絡ませてきたかと、思わず納得したりもした。また、前半、町に送り出した娘たちが帰ってこないのを心配して、家の外で毛布を羽織って椅子に座りながら帰りを待っているブランシェットをとらえる辺りは、何が起こるかわからない超自然的雰囲気を濃厚に漂わせ、どきどきさせてくれる。私の好みとしては、この感じで最後まで通してくれて欲しかった。ま、もちろん作品の意図はそんなところにはなかったわけだが。


リリィに扮するウッドは、ABCの「ワンス・アンド・アゲイン」で、揺れるティーンエイジャーを演じて一躍注目された。今年は「サーティーン」でも、やはり世間に迎合しないティーン役で話題をさらっている。今回もやはり、母の庇護のもとから飛び立ちたい、反抗期を迎えた娘役で、これだけこういう役がうまいと、あと2、3年はこういう役ばかりかなあと思わせる。一方、まだ幼いドットに扮するボイドは、「フルハウス」時代のオルセン姉妹を彷彿とさせ、ただただ可愛い。


使われ方としては最も意外だったのが、早々に殺されてしまうエックハートで、私はわりと彼のことを買っているのだが、この殺され方は可哀想。「ハンニバル」のレイ・リオッタほどではないにしても、同様に無惨な死に様を見せる。また、ほとんど使えない騎兵隊の隊長役でヴァル・キルマーが出ているのだが、この人、顔の真ん中に造作が寄っているだけに、ちょっと顔に贅肉がつくと、途端にしまらない顔になってしまう。最近出演作があまりないのも頷ける。


実はブランシェットの父役のジョーンズが、今回は今一つと感じた。私の意見では、単純にジョーンズはインディアン風のあの髪型が似合わない。演出のロン・ハワードは昨年念願のオスカーも獲得し、ハリウッドの監督の中でも最もヒット作を手がける確率の高い監督であるわけだが、今回はちょっと興行的に成功するのは難しい気がする。批評家もあまり誉めてないし、私みたいにブランシェットが出ているならなんでもいいから見ると思っている者でもなければ、一般客を劇場まで呼ぶのは難しいに違いない。ハワード作品ということで内容を気にしないで見に行く者もいるとは思うが。しかし、それでもハワード作品ではなく、ブランシェット作品だったと見た後に思わせるところが、やっぱりブランシェットの底力だな。







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