The Lone Ranger


ローン・レンジャー  (2013年7月)

実は「ローン・レンジャー」は既に今年最大、主演のジョニー・デップのキャリアでも最大の失敗作であることは、ほぼ決まっているそうだ。確かに、予告編を見 ても特に面白そうにも見えず、あまり惹かれないので、パスしようかなと思っていた。既にデップの「パイレーツ・オブ・カリビアン (Pirates of Caribbean)」シリーズとは訣別して久しく、こういういかにもディズニー/ブラッカイマー的な大作コメディ・ドラマ路線とはもうほとんど体質的に合わない。 

  

しかもこういうコメディ的題材は、やはり2時間以内、できれば90分から100分程度でまとめてくれんかねと思う。2時間半という上映時間は、家族向け作品としては長過ぎる。予告編で脱線して壊れた汽車の一部が正面に向かって飛んできたシーンから察するに、どうせこれ、3Dヴァージョンもあるんだろう。2時間超の作品で目の疲れやすい3Dは、観客の視点から見るとあまり嬉しいものではない。 

  

とまあ、特に惹かれていたわけでもない「ローン・レンジャー」だが、今のところ今年最大の失敗作なんて言われているのを聞くと、今度は生来の天邪鬼魂がむらむらと頭をもたげ、西部劇というジャンルをなんとかヘルプしなければと、逆にディズニー擁護に回るのだった。 

  

西部劇というと、近年ではTVではAMCが「ヘル・オン・ホイールズ (Hell on Wheels)」を放送しており、映画では正月に、スパゲティとはいえ西部劇に違いないクエンティン・タランティーノの「ジャンゴ 繋がれざる者 (Django Unchained)」があった。日本の時代劇同様、多少は廃れる気配があっても、西部劇というジャンルがなくなるということはなさそうではある。西部劇は、アメリカのヒーローものの基本だ。 

  

上映が始まると、おもむろにスクリーンに映った舞台は19世紀の開拓時代ではなく、時代の変わった20世 紀、金門橋を建設中のサンフランシスコの、サーカスのサイド・ショウのような、あるいは自然史博物館の陳列ブースのような小屋だ。いずれにしても金門橋を 背景に、観覧車を舐め、風船を飛ばし、サーカス小屋に降りてくる冒頭のクレーン・ショットは、いかにも映画を勉強したセオリー通りという感じで、時にあま りにも常套的で退屈に感じる時すらあるディズニー作品であるが、こういう基本を押さえた撮り方をたまに見ると、安心するのもまた事実なのだった。 

  

いかにもなスーパーパワーを持つスーパーヒーローとは異なり、「ローン・レンジャー」は19世紀が舞台の生身のスーパーヒーローものだ。というか、スーパーパワーがあるわけではない、普通のヒーローものだ。それを現在流行のスーパーヒーローの原点回帰に則り、なぜ、どうやってローン・レンジャーが誕生したのかという、そもそもの発端を描く。 

  

近年、スーパーヒーローだけではなく、各種ヒーローのそもそもの誕生に遡って由来を紐解くというケースがここまで多いのは、ヒーローの存在が時代にそぐわなくなってきているという現実の裏返しだ。そのため、スーパーヒーローが現在でも存在する必要があるという理由を改めて明確にしておかないと、彼らには存在理由がなくなってしまう。そしてそれは現在の観客が現在の視点でヒーローを見る以上、過去を舞台にしているローン・レンジャーでも同じことなのだった。 

  

ローン・レンジャーにおいては、彼が活躍したわずか数十年後には、時代はもうローン・レンジャーとは相容れないものになっている。確かに、いまだにローン・レンジャーの真似をしてベルトにおもちゃの拳銃を差している少年はいるが、その相棒だったトントが押し込められているのは、過去の遺物を揃えた見世物小屋で しかない。そして我々は、さらにその80年後の視点からローン・レンジャーを眺めなければならない。 

 

それにしてもローン・レンジャーは、なぜヒーローなのか。彼には、ヒーローに必須の特殊能力がない。彼は一介の弁護士に過ぎないのだ。人より多少は頭が回るかもしれないが、それだってすぐそばで悪巧みを企んでいる悪党の魂胆を見抜くことすらできない。しかも見ていると、射撃の腕だって大したものではない。射撃能力では彼より数倍優れているはずの弟の保安官は、敵の罠に落ちて死んでしまう。 

 

ローン・レンジャーが持っている人より優れた能力は、ただ一つ、運のみだ。他の仲間たちがすべて殺されたのに、彼一人が死なずに生き延び、それでもその場にほっておかれたら死があるのみだった状況で、トントに発見され、九死に一生を得た。 

 

むろん運とは、ある程度は才能と同義だ。ある者が明らかに運が悪く、ある者は明らかに強運の持ち主であると第三者の視点から見て断言できる場合、他者の真似できないものを持ち、要所要所でその運を発揮することができるならば、それは才能だろう。実際の話、現実にどう見てもその運を持続させて生きている人間は いる。そして、確かにそれはヒーローに必須の条件だと思える。 

 

ところでオリジナルの「ローン・レンジャー」を見ている世代ではない私の場合、この由来譚は新鮮で面白い反面、これはやはりヘンという面もある。ローン・レンジャーがなぜローン・レンジャーになったかという由来はいい、しかし、あの、顔を隠すという意図ではほとんど機能していないマスクは、うーん、トントによると甦った死者がマスクをするという行為自体に意味があるようだから、突っ込んでもしょうのないことなのだろうが、しかし、それでもなあ、あのマスクは変装という点ではまるで役に立ってないぞと言いたくなる。 

 

しかし考えると、実はメガネをとったり着替えることはあっても顔が変わるわけではないスーパーマンは、あの衣装になった途端、誰もがクラーク・ケントとは認識しなくなる。顔を隠しているわけではないのだ。知人が見れば一発でわからない方がおかしい。 スパイダーマンに至っては、前シリーズのトビー・マグワイアはかなりの頻度でマスクをかなぐり捨て、素顔を公衆の面前に晒していた。


つまり、スーパーヒーローはその素性はバレバレだが、周りの者が知らないことにしておこうと口裏を合わせて黙っているという場合が結構ある。たぶん、ローン・レンジャーもその口なんだろう。ヒーロー側から見ても、ポイントは実際に見かけがどれだけ変わったかではなく、少なくとも現在はヒーローとしての立場で行動しているんだということを、周りの者にわからせることにあるようだ。これが日本のヒーローだとこうは行かない。タイガー・マスクの正体が明らかになった時、ウルトラ7が自分の正体を告白した時は、番組は最終回だった。

 

一方、「ローン・レンジャー」が近年のスーパーヒーローものと一線を画しているのは、その活躍が相棒だったトントの視点から語られ、そのトント自身、最後にはいずこへともなく去っていくという語られ方による。ヒーロー自身がたぶんもう既に存在せず、その語り手もいなくってしまっては、誰ももうその存在を知る由もない。これでは「ローン・レンジャー2」の製作は無理だろう。最初から興行的にも当てるつもりはなかったと宣言しているようなものだ。もしかしたら「ローン・レンジャー」は、現在流行りのスーパーヒーローものが、やがてはこのように忘れ去られてしまうものだという警鐘を鳴らすために作られたのかもしれない。 











< previous                                      HOME

19世紀、開拓時代の西部。お尋ね者のブッチ・キャヴェンディッシュ (ウィリアム・フィクトナー) はインディアンのトント (ジョニー・デップ) と共に裁判にかけられるべく、列車で護送されていた。しかしブッチの一味は列車を襲ってブッチを奪回する。保安官のダン・リード (ジェイムズ・バッジ・デイル) と、たまたま列車に乗り合わせていた弟の弁護士ジョン (アーミー・ハマー) は、ブッチらの後を追うが、罠にかかって皆殺しに合う。トントは彼らを埋葬しようとしてジョンがまだ息があることに気づき、インディアン流に復活した死者を迎え、今後マスクをしてローン・レンジャーとして行動するようにアドヴァイスする‥‥


___________________________________________________________

 
inserted by FC2 system