The League of Extraordinary Gentlemen


リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い  (2003年7月)

「リーグ・オブ・レジェンド」は、今、欧米で市民権を得つつある、従来のぺらぺらのコミックではない、分厚いマンガ、アメリカ風に言うとグラフィック・ノヴェルを映像化したものだ。オリジナル・タイトルの「The League of Extraordinary Gentlemen」は、言うにも綴るにも長ったらしいので、ファンの間では「LXG」と呼ばれている。そういう別称が定着するということからもわかるように、かなり人気がある。


19世紀末、ロンドンとベルリンで破壊工作が相次ぎ、両国とも責任をなすりつけあった結果、今にも世界大戦が勃発しようとしていた。英国諜報部のM (リチャード・ロックスバーグ) は女王陛下の命を受け、今はアフリカに移住していたアラン・クオーターメイン (ショーン・コネリー) に、世界の秩序を回復することを依頼する。クオーターメインの指揮の下、透明人間のスキナー (トニー・カラン)、ヴァンパイアのミナ (ペータ・ウィルソン)、不死身のドリアン・グレイ (スチュワート・タウンゼント)、ネモ船長 (ナセールディン・シャー)、ジキル/ハイド (ジェイソン・フレミング)、それにトム・ソーヤー (シェーン・ウエスト) が加わり、「リーグ・オブ・エキストロードナリー・ジェントルメン」が誕生する‥‥


ヴィクトリア朝時代を舞台としたSFアクションという設定も去ることながら、「LXG」が最も人を食っているのは、その登場人物にある。マーヴェルやDCコミックスのようなスーパーマンやスパイダーマンといったスーパーヒーローではなく、小説の世界に登場し、世界中の人間を虜にしてきた、年季の入ったヒーロー/ヒロインが登場するのだ。ジュール・ヴェルヌのネモ船長、オスカー・ワイルドのドリアン・グレイ、H. G. ウエルズの透明人間、ブラム・ストーカーのドラキュラ (ヴァンパイア、あるいはレ・ファニュの「カーミラ」か)、スティーヴンソンのジキル/ハイド、さらにはマーク・トウェインのトム・ソーヤーまでが登場する。ちょっとやりすぎでないか。


特にトム・ソーヤーは、透明人間やジキル/ハイドといった人間離れした超人と較べると、どうしても普通の人間っぽく、多少なりとも違和感がある。リーダーのクオーターメインを別にすると、最も普通の人間くさい戦艦ノーチラス号を操るネモ船長と較べても、まだまだ普通色が抜けない。トム・ソーヤーはヒーローというよりも永遠の少年 (ここでは青年だが) なのであって、スーパーマンのようなSF的スーパーヒーローは産み出せても、歴史的重みを持ったヒーローは産み出すには至らなかった、アメリカの歴史の浅さが図らずも露呈してしまったという感じがする。どうしてもその時代のアメリカ産のヒーローを一人入れたかったら、エドガー・アラン・ポーのオーギュスト・デュパンあたりが順当という気がするが、そうするとなんでホームズやルパンが入らないんだ、なんて苦情が殺到しそうだ。


さればアメリカン・インディアンのジェロニモか、ワイアット・アープ等の西部劇から誰か引っ張ってくるのはどうかと思うが、これらは一応史実に登場する実在の人物だから、これもだめか。あ、もしかしてターザンなんてどうかとも思ったが、これも本で有名になったヒーローというよりも、映画で世界的に有名になったヒーローだし、しかも新しすぎるか。そうだ、ピーター・パンなんてどうだ、こちらは元々は戯曲のはずだし、時代的にも何も問題はあるまい、と思って調べたら、これは英国産だった。どうしてもディズニーの影響で、ピーター・パンというとアメリカのヒーローという気がしていた。フランケンシュタインも英国産だしなあ。やはりトム・ソーヤーしかないのかもしれない。


とはいえ、ヒーローというよりも、普通の人間トム・ソーヤーが登場することで、老いたクオーターメインとの間に親子的な情愛が生まれ、物語に幅を持たせる役には立っていることは事実である。それに、少年ではなく青年だとはいえ、トム・ソーヤーを演じるシェーン・ウエストなんて、いかにも熱血漢トム・ソーヤーみたいな感じがよく出ており、本当のことを言うと、トム・ソーヤーはやはりもう少し若いべきではないかという気はしないでもないが (私の記憶ではトム・ソーヤーはせいぜい10代半ば頃という印象があるのだが)、それでも、見ているうちにそういった点が気にならなくなってくるような人材をうまく見つけてきたところはさすがだ。


他に視覚的な点で違和感のあったのはネモ船長で、ネモ船長がインド人であったことに初めて気がついた。当然「海底二万マイル」はガキの頃に繰り返して何度も読んでいるのだが、ネモ船長が頭にターバンを巻いて、インド人の用兵を指図しているのを見て、そうだったかと初めて気がついたのであった。本当にガキの頃にどこを読んでいたんだろう。


主演のコネリーを除けば、出演者で見覚えのあるのは、TV版「ニキータ」に出ていたペータ・ウィルソンと、ヒーローの一人ではないが、Mを演じるリチャード・ロックスバーグだけである。ウィルソンは「ニキータ」の頃より色気が増したように見えるし、「ムーラン・ルージュ」での間抜けな貴族役がまぶたに焼き付いているロックスバーグは、シリアスに演技していても、どうしてもなんか今にどこかでポカするんじゃないかと気になってしょうがない。


透明人間のスキナーは、登場人物の中では唯一コミック・リリーフ的な性格づけを施されている。彼のキャラクターを見て、「X2」のナイトクロウラーを演じたアラン・カミングを連想したのは私だけではあるまい。テレポートして自在に好きなところに現れるナイトクロウラーと透明人間は、その能力も似ているところがあるし、コミカルな味付けもしやすい。アランとカランなんて、名前も似ている。カミングは元々英国人でもあるわけだし、最初にカミングの方にスキナー役のオファーが行ったのは間違いないような気がする。


SFX満載の「LXG」であるわけだが、最も感心したのは、ジキル/ハイドの変身シークエンスである。「ジキル&ハイド (Mary Reilly)」の、どちらかと言うとロウ・テクの変身シーンよりは派手で、「ハルク」よりは足が地に着いている。ハイドに変身した後はまったくハルクなのだが、CGのはずなのに、生身っぽい。ああ、「ハルク」もこんな感じで作れたら、あれほど批評家から貶されることもなかっただろうに。


一方、最も感心しなかったのが、ノーチラス号だ。大きな船というのは、どんなに速くても波しぶきとかが小さく見えるために、どうしても速く進んでいるという感じがしない。人間でもガタイの大きい男が動くと、実際は速く動いていても、どうしても大男総身に知恵が、みたいな印象を受けるのと同じだ。しかし、それでも、実は速いんだと経験から理解しているから、ゆっくり動いているように見える物体からでも、逆にスピード感を感じることができる。あるいは、そのスピード感のなさに、逆に運動感や質量感を感じることができる。それなのにノーチラス号は、信じがたいほど大きな船のはずなのに、やけに波しぶきが立ったりして、妙に嘘くさい。さらに、そんなに大きな船がヴェニスの運河に、途中までとはいえ入っていけるわけがないではないか。ヴェニスの運河の幅がいったいどれくらいだと思っているんだ。あれほどの大きさの船が入り込める深度があるとでも思っているのか。「ミニミニ大作戦」を見ていれば、あんなの不可能だということが一発でわかるぞ。


とまあ、文句を言いたくなる部分もあるのだが、SFアクションなんて多かれ少なかれどれも皆こんなもんだし、見てる間だけ面白ければ、実は私はまるで文句はない。コネリーってこういう役を楽しそうにやるし、他の皆々も見得切って演じているようで、どうせ設定からして尋常じゃないんだから、そういう派手さは歓迎だ。しかし、せっかくの大型作品だから、当然パート2製作を睨んで製作しているものだとばかり思っていたら、あの終わり方では、作品はそこで完結してしまったように見える。いや、あれだけの登場人物、まだ無尽蔵の使い方があるだろうに。最近の、とにかく続編を睨んで製作されるアクション大作ばかりの中で、ヘンに潔いなと思ったのであった。



追記:

原作のグラフィック・ノヴェルがどういうものか気になって、近所の大型書店バーンズ&ノーブルに行ってみた。グラフィック・ノヴェルというと、最近のやつは「フロム・ヘル」「ロード・トゥ・パーディション」等の白黒の分厚いやつというイメージがあったので、「LXG」もそういうものかとばかり思っていたら、オール・カラーの200ページにも満たない大判のやつだった。それでもマーヴェルやDCのコミックスと較べると、確かにコマが小さく、ストーリー重視に見えないこともないが、カラーになった途端、グラフィック・ノヴェルというよりはアメコミに見えてしまう。


それよりも意外だったのは、主要登場人物が原作と映画ではかなりの違いがあることで、「X2」のようにキャラクターわんさかというわけでもあるまいに、そこまで手をつけるかと思ってしまった。特にトム・ソーヤーは、原作では見当たらない。これは多分、映像化に関してハリウッド資本が入っているからだろう。なんだ、道理でトム・ソーヤーが浮いているように見えたわけだ。しかも原作は一冊で完結というわけではなく、続きがあるようで、予告のようなものを見ていたら、そこになんとオーギュスト・デュパンが登場すると告知されているではないか。やはり。当然あの時代のアメリカ産ヒーローなら彼でしょう。


もう一つの大きな相違点はノーチラス号で、原作ではイカの化け物みたいな、臓器みたいな、ぬめぬめした印象を与える船として描かれている。なんか、巨大な「エイリアン」みたいなのだ。それが映画では格好いい戦艦みたいな形に造型し直されているのだが、これはオリジナルの方が、いかにも禍々しい感じがしていいのにと思ってしまった。しかし、まあ、スマートさを強調した映画作品においては、これだけやたらと胡散臭くするのもまずいだろうという配慮が働いたことはわからないではないが。


それとびっくりしたのは、最近、マンガやグラフィック・ノヴェルがアメリカでも市民権を得てきたことは知っていたが、昨年、「ロード・トゥ・パーディション」の原作を見に来た時は棚に縦一列でしかなかったグラフィック・ノヴェルのコーナーが拡大して、今では3列の棚を占領、売り場面積が3倍になっていた。しかも目のつきやすいところに平積み、みたいな感じでも置かれており、すぐそばのSF/ファンタジー・コーナーには誰も人がいないのに、グラフィック・ノヴェル・コーナーは、ランチを終えた近所で働く若い者たちがちょっと立ち読みでも、みたいな感じで入れ替わり立ち替わり訪れ、ひどく盛況だった。その上そのグラフィック・ノヴェルの3分の1は日本のマンガの英訳で、さすがに最近はマンガにも疎くなってきた私が知らないタイトルもいっぱいあった。しかし、どうしても少女マンガにしか見えない本を、筋骨たくましいスパニッシュ系のにーちゃんが熱心に読んでいる様子を見るのは、やはり違和感あるなあ。







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