「ザ・ニック」は放送前からそこそこ評判になってはいた。クライヴ・オーウェン主演で20世紀初頭のニューヨークの病院を描く医療ドラマというのは、確かにそれだけでそそる題材ではある。が、本当に見たいと思ったのはそのせいではなく、一時休養宣言をしていたスティーヴン・ソダーバーグが演出しているからだ。
ソダーバーグは昨年、「サイド・エフェクト (Side Effects)」撮影の後、引退もしくは休養宣言を出していた。その舌の根も乾かぬうちにHBOで「恋するリベラーチェ (Behind the Candelabra)」が放送されたわけだが、これはまあ、TVであるし、実際の撮影は「サイド・エフェクト」より前だった可能性もあるから、これはまあ許す。
それが今回の「ニック」は、第1シーズンの全10エピソードをソダーバーグが演出しているそうで、なんだ、要するに休養宣言は映画のみで、TVもではなかったのか。普通は業界人は、TVを踏み台にして世界が舞台の映画へとステップ・アップしていくものだが、既に映画ではやりたいことはやったソダーバーグは、シリーズでドラマを構築していくTVの方こそやりたがったようだ。
実際、近年のソダーバーグの作品を見ると、この2、3年だけで、「コンテイジョン (Contagion)」、「エージェント・マロリー (Haywire)」、「マジック・マイク (Magic Mike)」、「サイド・エフェクト」、「恋するリベラーチェ」と、サスペンス・スリラーからアクション、ゲイ・コメまで幅広いジャンルをこなしている。さらにスポーツ映画やミュージカルまで撮るクリント・イーストウッドにはさすがに一歩譲るが、それに近い域までは達していると言える。二人の歳の差を考えると、ソダーバーグはまだまだ活躍の場を広げそうだ。実際そう思ってTVやってるんだろうし。
考えるに、わりと二人の演出スタイルは近い。ソダーバーグは画面によけいな夾雑物を持ち込まないミニマルでシンプルな絵作りを常に心がけていると言い、一方のイーストウッドは、絵作りをシンプルにするのではないが、たいていのショットに1テイクか2テイクでOKを出す、こちらはどちらかというと製作時の効率の高さで知られている。要するに、どちらもごちゃごちゃしたものからほど遠いものを是とする、映画作りの姿勢が似ている。時に50回もダメを出すデイヴィッド・フィンチャーの対極にいる二人なのだ。
そのソダーバーグがTVに興味を持つというのが面白い。TV映画ではなく、TVシリーズなのだ。最も求められるのは撮影の早さ、効率であり、それを実現するには、やはりシンプルでミニマルな絵作りをする者が適しているだろう。調べてみると、ソダーバーグは「ニック」第1シーズンだけではなく、既に製作が決まった第2シーズンの全10話も演出が決まっている。本当にTVがやりたかったようだ。
さて、「ニック」だが、これはもちろん子供向けケーブル・チャンネルのニコロデオン (Nickelodeon) の略称のニックのことではない。こちらのニックはKnick、ニッカーボッカー (Knickerbocker) の略称であり、元々はオランダ系の人の名、そしてその名をもらった病院名だ。ニックスという単語がニューヨーカーを意味する時代もあったらしい。NBAのニューヨーク・ニックスも、そこから来ている。1900年代半ばに貧民層が大量に流れ込んで来るまでは、ハーレムは高級住宅街であり、ニックはそこにあった。
ニックで外科医として名声を博していたサッカリーは、師事しているクリスチャンが度重なる手術の失敗に絶望して自殺した後、その後継者として前線の医者としては最高の地位に収まる。サッカリーは優秀な医者ではあったが、コカイン中毒の上に人種的偏見も持っていた。さらに病院の経営自体は実権はロバートソン家が握っており、その跡継ぎの娘であるコーネリアが推してくる黒人医者のエドワーズは、サッカリーにとっては邪魔でしかなかったものの、自分の仲間として迎え入れざるを得なかった。
ソダーバーグはこれまでに種々の作品を撮っているが、特に時代ものを得意としているわけではない。たぶん年代としては「カフカ (Kafka)」が最も古い時代を描いていると思うが、ほとんど現実とは無縁の悪夢のような世界だし、ちと違うような気もする。「カフカ」を別にすると、第二次大戦時が舞台の「さらば、ベルリン (The Good German)」が最も時代としては古い。それが今回は一気に100年前に遡るわけで、こういう時代ものを撮りたかったというのがまずあったんじゃないかと思う。
西欧においてもまだ医学が発達しているとは必ずしも言えなかった時代、麻酔の知識はあったようだが抗生物質はなく、簡単な手術が命取りになる可能性が常につきまとった時代、医者がタバコをのみ、コカインに中毒した時代。まだまだ人の身体の知られていない部分は多く、多くの手術が失敗し、多くの解剖が必要とされた時代。そういえば場所こそ違え皆川博子の「開かせていただき光栄です」も、そういう時代の進取の気性を持つ医者の卵たちを描いた話だった。確かに面白いエピソードがいっぱい作れそうだ。