The Italian Job


ミニミニ大作戦  (2003年6月)

「ミニミニ大作戦」は、1969年製作の同名映画のリメイクである。とはいえ、どうしても古くささを感じさせる当時の邦題までそのまままた使用しなくてもと思うのだが。私はオリジナルを見てないから知らないのだが、まさかほとんどオリジナルと同じ内容で、ノリまで一緒ということはあるまい。


チャーリー (マーク・ウォールバーグ) を筆頭とするギャング一味は、ヴェニスで金塊強奪に成功、快哉を叫ぶ間もなく、裏切り者のスティーヴによって長老格のジョン (ドナルド・サザーランド) が殺され、スティーヴは金塊と共にいずこへともなく消える。1年後、やっとスティーヴの居場所を探り当てたチャーリーは、ジョンの一人娘であり、プロの錠前屋であるステラを仲間に誘い、奪われた金塊の奪回に挑む‥‥


この手のバディ・ムーヴィは、無条件に楽しい。なぜだかこの種の作品では主人公は十中八九ギャング、あるいは法の目をかいくぐる側におり、決して正義の味方というわけではないのだが、そういう人物が敵やお上の裏をかいてぎゃふんと言わせるところが、やはり痛快なのだ。


主人公のチャーリーに扮するのはマーク・ウォールバーグで、演技力という面から言えば、彼よりも兄貴のドニーの方が上だと思うのだが、その演技力のせいでドニーが得難いバイ・プレイヤーとしての方でしか注目されないのに較べ、マークの方はハリウッド・スターとなってしまった。マークの持つ不良っぽい、しかしちょっと暖かみのある雰囲気が受けているのだろう。


裏切り者のスティーヴに扮するのがエドワード・ノートンで、最初にヴェニスで金塊強奪に参加した時点で、ああ、彼が裏切るんだなとすぐわかってしまうのが不思議である。そういう曲者的な印象が実に強い役者であるわけだが、正直言って彼のちょびヒゲはあまりにもちんぴらくさくて似合ってないと思った。声がもうちょっと低ければ、将来貫録のある悪役ができると思うんだが。


紅一点のステラに扮するのがシャーリーズ・セロン。もうこの種の役をやるには歳をとりすぎてきたアシュリー・ジャッドに代わって、男相手に売った張ったのアクションもこなす元気のいい女優としては、現在、彼女とキャメロン・ディアスが双璧という感じがする。ちょっとコケティッシュな雰囲気が欲しい場合ならディアス、シリアスで行きたいならセロンという感じか。「トラップト (Trapped)」もそういう感じがうまくはまっていた。


冒頭に出てきてすぐに殺されてしまうドナルド・サザーランドは、ウォールバーグの親代わり的な悪党を楽しそうに演じている。もちろん異議はないのだが、しかし、ここはやはりオリジナルに出演しており、ほとんど年齢的にはサザーランドと変わりないマイケル・ケインを起用するのが筋というものではないだろうか。多分、いまだに忙しいケインはオファーがあっても出られなかったのではないかと邪推するのだが (ケインはオファーさえあればどんな役でもするタイプの俳優なので、日程が合いさえすれば絶対にオファーは断らないと思う)、でも、だったらケインのために3か月待つくらいの洒落っ気は示しても別にバチは当たるまいにと思ってしまった。


他に重要なポイントを占めるチャーリーの仲間たちは、「トランスポーター」のジェイソン・ステイサム、「バフィー 恋する十字架」のセス・グリーン、HBOの「デフ・ポエトリー・ジャム (Def Poetry Jam)」のホストで最近富みに注目を集めているモス・デフで、がちがちのシリアス・アクション・スターのステイサムに、グリーンとデフがコミカルな味付けを与えることでバランスをとっている。


監督は「交渉人」のF. ゲイリー・グレイで、最近擡頭してきた黒人監督の一人であるわけだが、最近の黒人監督は、スパイク・リーみたいに変に黒人意識を持ってないところがいい。まだまだ人種問題は根強いものが残っているとはいえ、そういうのばかりではわざわざ自分を狭い檻の中に閉じ込めてしまうようなものだ。最近のリーが撮る作品がまったくつまらないのを見てもそれがわかる。「ミニミニ大作戦」は、見ただけでは黒人監督の作品だとはまったく気づかない。白人の主人公で、黒人はお決まりの脇としてしか扱われていないからだが、そんなことに関係なくしっかりとツボを押さえて演出していることに、むしろ演出家としてのプロフェッショナリズムと地力を感じる。


この種のバディ・ムーヴィでは、その道のプロフェッショナルが、ある目的のために一致団結して何事かを成し遂げるという経過が楽しい。そして最も心わくわくするのが、いつもは離れ離れだが、しかし心は一つ、的な仲間が、さあ、また何かやろうぜとばかりに再度集まってくる時である。それは元々仲間であるという必要はなく、志を同じくする者が集合する、ということがポイントだ。黒澤の「七人の侍」でも、本当に最も面白い部分は後半の合戦ではなく、前半終りの部分の、農民を守るための侍集めにあったのとまったく同じである。ついでに言うと、スティーヴン・ソダーバーグの「オーシャンズ・イレヴン」が傑作になりそこねたのも、最も面白いはずの、その人集めの部分を端折ってしまったことにあった。


今回は、既に仲間だった者を再集合させるわけであり、人集めというのとはちょっと違うが、それでも、チャーリーとステラが待つ集合場所に続々と昔の仲間が集まってくるシーンが、最もわくわくする。その時に、ステラに彼らの素性を紹介するために、初めてその時点で彼らの過去がさらりとではあるが紹介される。要するに、ついでに観客にも紹介しているわけだが、こうしたちょっとした紹介でもあるのとないのとでは、だいぶキャラクターに対する思い入れが違ってくる。


宣伝ではわりと派手にうたわれていたミニクーパーによるカー・チェイスは、実はそれほどでもない。あの小っちゃい車体が連なって疾走したり階段を走り降りたりするシーンはもちろん悪くないのだが、既に「ボーン・アイデンティティ」がほとんどのものを既にやっており、あまり新味はない。ミニクーパーでなければならない理由もちゃんと付けられているとはいえ、こじつけくさい。最初にステラが一人でミニクーパーを駆って、街中を右に左に、排気量がでかいだけの車の中を縦横無尽に縫って走るシーンの方がよほど爽快である。とはいえ、「ボーン・アイデンティティ」と「ミニミニ大作戦」で、アメリカでもミニクーパーの人気はうなぎ登りだそうだ。実際の話、毎回行くたびに路上に止めるスペースを探すのに苦労するマンハッタンであれば、ミニクーパーはお洒落でもあるし、あの小ささは重宝するだろう。


実は私の知人もこのミニクーパーのオーナーであり、乗せてもらったことがあるのだが、アメリカででかい車に囲まれながら走ると、結構心細い感じがしないこともない。周りは排気量がでかければでかいほどいい車であると錯覚していそうな奴が乗る車ばっかりで、そんなのに囲まれると、やはり事故った場合、怪我するのはこちらだけかとどうしても思ってしまうのだ。第一、ゴルフに行くのに、後ろにゴルフ・バッグを横にして置けなくて、いちいち後ろの座席の背もたれを前に倒さないと、ゴルフ・バッグさえ運べないのだ。ゴルフ・バッグは車のトランクに入れておくものと相場が決まっているアメリカ社会でミニクーパーが市民権を得る可能性は、やはりそれほど高くはないような気がする。







< previous                                      HOME

 
inserted by FC2 system