The Good Thief


ギャンブル・プレイ  (2003年4月)

私はミステリ好きなこともあって、映画でも謎解きものとか、コン・ゲーム、あるいは最後にどんでん返しが用意されているものとかに弱い。それもハリウッド大作よりも、この手のものはインディ系のスリラーの方が、作り手の遊びや心意気が伝わってきて、より楽しめる。というわけで、「グッド・シーフ」も予告編を見た時から疼いていた。ジャン-ピエール・メルヴィルが1955年に撮った「賭博師ボブ」のリメイクであり、私は大昔にそちらの方も見たことがあるはずなのだが、タイトル以外、内容はまったく覚えていない。昔はヨーロッパ映画の洒落やエスプリがわからなかったのだ。ガキだったんだなあ。


モンテ・カルロのヤク中の場末のギャンブラー、ボブ (ニック・ノルティ) は、カジノにかけられている複製の泰西名画のオリジナルが、近くの建物に厳重に保管されていることを知る。最後の花火とばかりに、ボブはその名画を盗む算段を立てはじめる。ボブの若い相棒パウロ (サイード・タグマウイ) を手始めに、仲間を集め始めるボブだったが、思わぬところから、ヒモから救ってやったロシアから来た売笑婦のアン (ヌッツァ・クキアニゼ) に計画がばれてしまう‥‥


ニール・ジョーダンといえば、人々がすぐ思い出すのは、やはり「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」だろうが、私は「クライング・ゲーム」が一番印象に残っている。その他の作品でも、私がよく覚えているのは「モナリザ」とか「狼の血族」とかの初期の小品で、予算のでかい大型作品の方は、実はそれほど面白いと思った覚えはない。この人は小品の方が絶対向いていると思っていた。最近、やはり大型作品には懲りたようで、また初期を彷彿とさせる、小型でも自分の撮りたいものをとるという方向に返ってきてくれて、なにやら嬉しい。ただし、どうしても彼は神様とか奇跡とかから離れられないようで、そういう性向が正面に出過ぎると、鼻につくという嫌いはないでもない。私は基本的に神様とか宗教とかは信じていないのだ。今回のような神様の絡まないインディ・スリラーこそ、私の見たいジョーダンだ。


とはいえ、正直に申し上げると、この映画、実は最後の最後になって、私はロストしてしまった。つまり、筋が追えなくて、結局、なんで最後ああいう結末になったのか、わけがわからなくなった。こういうひねった作品だとありがちだが、最後にストーリーが腑に落ちなかったのは私だけではなかったようで、「メメント」の時もそうだったが、今回も映画が終わった後、場内がざわざわとざわめいて、で、結局彼と彼は共謀してたんじゃなかったの、とか、なぜ彼らはああなったんだ、とかいう話し声が聞こえてきた。よかった、理解できなかったのは私だけではなかったのだ。


弁明させてもらうと、ヨーロッパ産のこの手の作品に共通して言えることだが、最終的な映画の印象は、筋立てはもちろんだが、作品の持つムードや雰囲気で決定することが多く、「グッド・シーフ」もその例外ではない。そのため、最終的に結局何がどうなったんだということを100%理解しなくても、充分楽しめるようにはなっている。特にこういう、主人公を中心に多くの脇キャラが登場する作品の場合、その人間関係やそれに付随する行動が作品の大きな比重を占めるため、どちらかというと、その辺のこだわりこそが見るポイントだと言える。


その点で、登場人物の中で最も比重が高いのは、主人公のボブを演じるニック・ノルティよりも、彼らに絡んでくる紅一点 (正確には男勝りのムキムキ女がいるため紅二点なのだが) のアンを演じるヌッツァ・クキアニゼだと言えないこともない。ボブの計画を成功させるのもご破算にするのも彼女の行動次第ということが読めるので、いやでも彼女の一挙手一頭足に注目せざるを得ない。その上、クキアニゼは抜群の美人でプロポーションもいい。アメリカ的なグラマーではなく、胸も大きすぎなく、手足のすらっとしたスレンダー・タイプで、こういう美人を見るのは、ヨーロッパを舞台とする映画の醍醐味の一つだ。特にカジノに出向くため、背中がケツの上のところまで開いたドレスを着ている姿なんて、惚れ惚れしてしまう。肩甲骨ってセクシーだなあと思ってしまうのであった。それに、舌っ足らずな喋り方もいい。頭悪そうなやつがああいう喋り方をすると、ただ腹が立つだけなんだが、やはり美人は得だ。あと、「アンダーグラウンド」のエミール・クストリッツァが、ギターも弾く強盗団の一味として登場していた。


元々、最後の最後になって神様がすべてをひっくり返したり決定したりするジョーダン作品では、物事の整合性というものは、あまり重きを置かれない。大切なのは経過であって、結果はいつでも逆転する要素を含んでいる。その点で、最後に万人が納得する結末があることを最上とするハリウッドで撮ったスリラーの「IN DREAMS」が失敗作となってしまったのは、当然すぎるくらい当然だ。「グッド・シーフ」でも、一応それなりの理屈は通っているようには見えるが、結局最後、彼らはどういう理由からああいう行動をとり、ああいう結末になったかを徹底的に問い詰めれば、多分ジョーダンははっきりとは答えられないのではないかという気がする。


実際の話、最後にカジノで大博打を打つボブとアンの展開は、あれは神の見えざる手が働いていたと考える以外、理解不能だ。そういう展開を本気で持ってきてしまうところが、ジョーダンのジョーダンたる所以である。つまり、そこで理詰めで行ってしまってはダメなのだ。私はミステリを読む場合、最後の最後にこれまでの謎が一挙に氷解する納得できる結末がないと頭に来る方なのだが、映画の場合だとそうでもない。映画というものは、そういう媒体なんだろうと思う。最後に颯爽と波止場を歩く主人公が格好よくさえあればいいのだ。







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