1968年パリ。政府に対し学生が蜂起するという政治情勢の中、アメリカから留学に来ていたマシュー (マイケル・ピット) は、父親が著名な作家というテオ (ルイス・ガレル) とイザベル (エヴァ・グリーン) の双子に出会う。3人は意気投合し、マシューはテオとイザベルの家に居候となる。両親がいない間に、テオ、イザベル、マシューの3人は、どんどんセクシュアルな関係を深めていく‥‥


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冒頭、当時の世情をとらえたフィルム・フッテージが流れ、アンリ・ラングロワが率いていたシネマテーク・フランセーズの活動が差し止められることに反対した、当時のヌーヴェル・ヴァーグの先鋒や、多くの映画好きの学生が立ち上がる様がとらえられる。この映画の主人公マシューもいわゆるフィルム・バフであり、アメリカから留学、というか、学校に行っている様子も見えないから、きっとわりと裕福な家庭に育った、ひがな映画ばかり見ている遊民だ。その彼が、門を閉じられたフィルム・フランセーズの前でイザベルとテオに出会うという出だしからして、イタリア人のくせに自らヌーヴェル・ヴァーグの一員だと自称するベルトルッチらしい。


そしてこれから、マシュー、イザベル、テオの3人による、極々危ないバランスの上に成り立つ共同生活が描かれる。学生運動時代のパリを舞台に、当時の若者の愛とセックスを描くという、これまでに何度もベルトリッチが描いてきたことの変奏であるわけだが、愛とセックスと政治を描いた映画なら、これまで星の数ほど作られてきた。しかし、それに映画が絡むところが、いかにもベルトルッチだ。そして確かにこれらの要素がすべて揃う一時期というと、まさしくヌーヴェル・ヴァーグが華開いた、この時のパリを逃してはあるまいと思う。


とはいえ、基本的に冒頭の一部分と、点在する街頭シーンを除けば、基本的に映画はテオとイザベルの家の中だけで進み、登場人物は率先して外の世界に出ていくわけではない。それなのに時代の雰囲気というものを濃厚に感じさせるのは、単に登場人物のファッションや、会話に現れる映画や政治の話のせいばかりとも思えない。確かに当時のパリを覆っていたと思われる、ある熱気や、同時に気だるさも感じさせてくれるのだ。この映画を見た後、アパートに帰って、思わず山田宏一の「友よ映画よ」を紐解いてしまった。そうそう、これ、気分はこの感じなんだよ。


とはいっても、「ドリーマーズ」がただ安易に懐旧の情に流されたり、閉ざされた頽廃を描いているだけかというと、そういうわけでは決してない。というか、ベルトルッチは、懐古趣味とはまったく無縁で、歳とるに従って、ますます若返ってきているという気すらする。むしろ昔の作品の方が老成していたような印象が強い。確かに「ドリーマーズ」の舞台は過去で、濃厚に当時の雰囲気を感じさせはするが、それを今現在、そこにいるような感覚で撮っている。その若々しい手触りが、安易な懐古趣味から一線を隔てているのだ。


実際、ベルトルッチは、歳とってからの方が活躍の幅を広げている。現在、これだけ世界を舞台に活躍している映画監督というのは、他にほとんど例を見ない。中国で「ラスト・エンペラー」を撮ったかと思えばアフリカで「シェルタリング・スカイ」を撮り、チベットとアメリカで「リトル・ブッダ」を撮った後、イタリアに取って返して「魅せられて (Stealing Beauty)」と「シャンドライの恋 (Besieged)」を撮り、そして今回のパリなど、現在、本当に世界を股にかけて活躍している映画監督は、ベルトルッチ以外いないと断言してもよかろう。これは是非とも、次辺り東京を舞台に何か撮ってもらいたいものだ。


一つベルトルッチがやはり以前に較べ歳をとった、あるいは熟年の域に達したと思えるのは、まあ、これは記憶で書いているのだが、「革命前夜」や「暗殺の森」といった、「ドリーマーズ」に描かれている年代にベルトルッチ自身が撮った作品と較べると、作品を覆っていたアナーキーなエロティシズムの代わりに、「魅せられて」や「シャンドライの恋」でも見られた、どことなしに暖かみのある視点、余裕、あるいはユーモアが出てきたことだ。


例えば、マシューがイザベルの写真をパンツの中に隠し、後でそのイザベルにパンツを脱がされた時にマシューのチンポコの裏にその写真がくっついていたなんてシチュエイションは、私は爆笑してしまった。ベルトルッチ作品の中では、「ドリーマーズ」同様に特にそのエロティシズムで知られている「ラスト・タンゴ・イン・パリ」でも「ルナ」でも、見ている時に一度たりとも笑った記憶なんてないのに (忘れているだけかもしれないが)、「ドリーマーズ」では、かなり微笑や苦笑を誘うシーンが出てくる。もしかしたらそれはベルトルッチが老成したせいではなく、私が歳とって気張らず作品を見ることができるようになったせいなのかもしれないが、いずれにしても、以前はそれほど感じなかった余裕のようなものが感じられる。


それでも登場人物の3人は、それぞれが青春の真っ盛りであり、時にたがを外してセックス三昧に耽っても、ふと人生に思いを馳せたり、それと同じくらいの重さで映画にも思いを馳せたり、自分の本当に好きな人が自分の兄であることに苦しさを感じたりする。ベルトルッチにとって息子が母親に性的な欲望を抱いたり、兄妹がそういう感情を持つ、近親相姦的なシチュエイションはわりと頻繁に現れるモチーフである。それを詳しく検討するにはベルトルッチ本人の個人史を知らなければならないし、その辺りは専門家に任せるが、たぶん、彼ほど真摯に対象に向かい、真面目に映画を撮ろうとしている映画作家はいないだろうということは言えるのではないか。そして、それこそがそもそものヌーヴェル・ヴァーグの存在理由だったはず。


登場人物では、事前に知っていたのはマシューに扮するマイケル・ピットだけだった。「完全犯罪クラブ (Murder by Numbers)」ではオタクぶりがはまっていたという印象が強烈だったが、今回、彼は実はレオナルド・ディカプリオに似ていることを発見した。かなり雰囲気や演技の仕方、喋り方がそっくりで、もしかしたらベルトルッチは、最初、ディカプリオをこの役に考えていたかもしれない。もちろんメイジャーになってしまったディカプリオがこういうあまりにも露骨にセクシュアルな役を引き受けるとは到底思えないが、「ラスト・タンゴ・イン・パリ」のマーロン・ブランドの例もある。いやあ、ディカプリオがもしマシュー役をやってたりしたら、近年の映画界最大のスキャンダルというか、最大の話題となっただろうにと想像してしまうのだった。


ところで私は、一昨年、パリにヴァケイションに行ったのだが、私も映画好きを自称しているのに、シネマテーク・フランセーズに足を運ぼうという考えは、露ほども思い浮かばなかった (まだあるんだよな?) エッフェル・タワーの袂にも行ったし、ごく近くまで接近したはずなのだが、他の観光名所を回るのに忙しくて、映画どころじゃなかった。ニューヨークに住んでいても、最近はフィルム・フォーラムやウォルター・リード・シアターにもとんとご無沙汰している。出不精になったせいもあるが、「ドリーマーズ」を見て、もうちょっと映画という媒体に対して貢献しようという気持ちにならんといかんなあと、ちょっとばかり反省した。  






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The Dreamers (I Sognatori)   ザ・ドリーマーズ  (2004年2月)

 
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