パリのファション誌「エル」の編集者ジャン-ドミニク・ボービー (マチュー・アマルリック) は息子と一緒にドライヴ中、脳梗塞で倒れ、そのまま入院する。しかし目覚めたジャン-ドミニクの身体機能は麻痺したままだった。彼はかろうじて瞬きすることのできる目の合図だけで世界とコミュニケーションを図らなければならなかった‥‥


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「潜水服は蝶の夢を見る」はドキュドラマ、つまり実話の映像化だ。1990年代、フランスを代表するファッション雑誌の編集長であったジャン-ドミニク・ボービーは脳梗塞で倒れ、身体が麻痺してしまう。彼が唯一自分の意志で自由に動かせるのは左目だけで、彼はその左目の瞬きだけで世界とコミュニケーションをとらなければならなくなる。一度瞬きすればノン、二度瞬きすればウィ。意思の疎通役の女性がアルファベットを順に述べ、意図するアルファベットが来たら瞬きして知らせる。時間はかかるがとにかくこれで自分の言いたいことを外部に知らせることができる。ジャン-ドミニクは契約していた出版社と連絡をとる。それは自分の本を出すというものであった。少しずつ、少しずつ書き取りは進み、彼の本は体裁を整え始める‥‥


正直言って自分がそんな状況に置かれたと思うとぞっとするが、実際にそうなってしまった者にとっては、そんなことも言っていられない。とにかく今できるだけのもの、手段、知恵を総動員して周りとコミュニケーションを図らなければならない。それができなければ自分自身が朽ち果てていくだけだ。


作品は冒頭、いかなる理由でか、病院に運ばれて自分自身の身体が動かないことに気づき、医者や看護婦に言いたいことを言おうとしてもそれが伝わらなくてもどかしく感じるジャン-ドミニクの一人称の視点で始まる。観客にはジャン-ドミニクのセリフが聞こえるので彼の考えていることはわかるが、医者にはそれは聞こえないのだ。ジャン-ドミニクが少なくとも自分自身では叫んでいるつもりなのに。


これはきついと思う。これはホラーだ。生きているのに死んだものと思われて生きながらにして埋葬されるというホラーと、ジャン-ドミニクの置かれたこの状況は大差ない。ジャン-ドミニクの場合は一応彼が生きていることは周りの者が知っており、そのままでも生きたまま埋葬されたり火葬されたりすることはないことだけは確かだが、しかし自分の意志が相手に伝わらなかったら、つまり周りとコミュニケーションがとれなかったら、これは事実上その人間は存在しないものと大差ない。だからこそジャン-ドミニクはたとえどんなに時間がかかろうと、瞬き一つでしか社会と繋がる伝手はなかろうと、その手段にすがるしかない。


作品はジャン-ドミニクの一人称の視点で始まり、それがほとんど最初の15分から20分くらい途切れなく続く。観客はすべてが思う通りにならないジャン-ドミニクの視点に同一化することを強要されるのだ。それだけで結構きつい。うちの女房なんて上映が始まってしばらくしたら、いきなり肩を回したり首を回したりして座りながら簡単な屈伸や柔軟を始めだした。後で訊いたら自分の身体がなんだか固まってきそうな気がして、じっと座ったままじゃいられなかったそうだ。それはよくわかる。


予告編ではたぶん元気な時のジャン-ドミニクを演じているマチュー・アマルリックが映っていたので、まさかずっとこれでいくとは予想もしてなかったのだが、しかしあまりにも一人称視点の映像が続く。もしかしたら回想のシーンで彼がまだ元気な時の姿を三人称視点のカメラが映し、現在のジャン-ドミニクはずっと一人称視点のままなのかなと思い始めていた。そしたら、その回想のシーンも最初はジャン-ドミニクの一人称の視点で始まる。「エル」のフォト・セッションに顔を出したジャン-ドミニクの視点となったカメラが前移動している、その彼の視点であるはずの映像に、いきなりジャン-ドミニクの姿が入ってくる。


最初は、おっ、と思うのがだが、すぐに慣れるのは、こういう便法に現代の観客は慣れきっていてすぐに順応できることが大きいだろう。演出のジュリアン・シュナーベルも観客のそういう適応を期待したというか、最初から大丈夫だと確信していたに違いない。とはいえ一人称視点だったはずのカメラに、その映像を見ているはずの本人がいきなり出てきてそれにすぐ慣れるというのも、ヘンと言えばヘンだ。だからといってそれに特に違和感を感じるわけじゃないのは、わりと人は夢では一人称と三人称を混同する夢を平気で見るからじゃないかと思う (私はあまり夢を見る方ではないが、見る時は平気で映像が私の視点になったり、そこに私自身を見たりする。) さもなければ特に本格系の推理小説じゃあるまいし、一人称と三人称の交錯、使い分けというかなりの離れ業を、こんなに簡単に受け入れることは難しいんじゃないだろうか。


いずれにしても、2時間をずっと主人公の視点のままで撮ることは、正直言って現実的ではなく、いくらなんでもそれでは途中で人は飽きるだろう。だから途中でカメラがジャン-ドミニクの視点から三人称視点に移行する、あるいは三人称視点も利用するというのは、ほとんど必然であったに違いない。とはいえ、一人称視点カメラでのジャン-ドミニクの独白には (むろん彼は実際にはしゃべれないから、これは相手には聞こえない) 意図せずしてユーモアが漂っていたりするが、むしろカメラが三人称視点を獲得してからの方が事態がより深刻に見えるのは、やはり三人称視点というものの方が、対象に対してより距離を置くからか。障害を負った本人の気分と同一化する視点より、他者の視点となった方がよりその負の面がはっきりと見えるからか。


作品ではジャン-ドミニクが実際にどういう風にして身体が麻痺することになったのかというきっかけや経緯は描かれず、麻痺した状態のジャン-ドミニクの視点から始まる。彼の回想シーンもところどころ挟まるが、それほどその量は多くなく、結局彼が実際にどのようにして倒れたかが描かれるのは最後の最後、作品も終わる間近である。もうその時までに、彼が倒れた原因というのは話の焦点としては二次的なものに過ぎないから、たぶんもう描かれることはなく終わるのだろうとなんとなく思っていたら、最後の最後に出てきた。いずれにしても彼が倒れた時が作品としての最後に来ているのは、基本的にその時が人生を満喫していた時の彼の人生の終わりだったという認識が作り手にもあったからだろう。その後、彼は超人的な努力で本をものにするわけだが、その本が彼が生前考えていたものとは遠く隔たったものになったのは明らかだ。


主人公ジャン-ドミニクを演じるのがマチュー・アマルリックで、いくつかの回想シーンを除けば身体の動かない、字義通りの目だけの演技だけしか許されない。カメラが彼の視点になっている場合は、彼がカメラを持っているわけではないだろうから、基本的にほとんどすべてのシーンで出ずっぱりという設定なのだが、実はその半分以上で本人は登場していなかったことになる。


その妻セリーヌを演じるのがエマニュエル・セニエ、病院で最初、ジャン-ドミニクと地道に意志の疎通を図るスピーチ・セラピストがマリ-ジョゼ・クローズで、お、彼女と主人公に扮するアマルリックは、スティーヴン・スピルバーグの「ミュンヘン」で、一緒に映りこそしなかったが共演していた中ではないかと思ってちょっと調べたら、その「ミュンヘン」の撮影監督であるヤヌス・カミンスキーが、ここでも撮影を担当している。実はこの映画の裏のフィクサーはスピルバーグであったのだ。


演出は「バスキア」、「夜になるまえに」のジュリアン・ベルナールで、これまで撮った作品のすべてが実話を映像化したドキュドラマで、その主人公はだいたい夭折に近い死に方をしたり、生前はかなり辛酸をなめていたりするのが共通している。しかしその辛酸という点では、今回の「潜水服」より非情で厳しい環境というのはあまり考えられない。


以前、生命保険に加入する時に、ジャン-ドミニクのように倒れて寝たきりになった場合のための介護保険というオプションがあり、ついでに詳しくその話を聞いてきた女房によると、介護保険というのは最長5年が上限なのだそうだ。もしそれ以上寝たきりになった場合はどうなるのですかと女房が担当の者に訊いたら、統計上、いったん寝たきりになった者はほとんどが5年以内に死ぬので、それ以上の保険は必要ないのですと言われたそうだ。数字というのは血も涙もないと思ったものだが、実際にジャン-ドミニクも身体が麻痺してから結局5年もってない。血も涙もない数字に人は勝てない。


まったく話は変わるが、今日TVを見ていたら、いきなりヒース・レッジャーがたぶん睡眠薬のオーヴァードースでソーホーの自宅で死亡したというニューズが流れてきた。まだ28だったそうだ。1日2時間しか眠れなくて睡眠薬を常用していたらしい。レッジャーといいジャン-ドミニクといい、彼らと比較すると毎日毎日もうちょっと寝かせてくれ、つらいぞと思いながら必死でベッドから抜け出す自分がこの上ない仕合わせな身のように思えてきた。たぶんもうちょっと自分の境遇に感謝してもいいんだろう。







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潜水服は蝶の夢を見る  (2008年1月)

 
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