The Deep End

ディープ・エンド  (2001年8月)

「ディープ・エンド」は49年にマックス・オフュルスが監督した「レックレス・モメント (The Reckless Moment)」のリメイクである。しかし脚本/監督のデイヴィッド・シーゲルとスコット・マギーのペアに言わせると、「ディープ・エンド」は「レックレス・モメント」のリメイクというよりも、エリザベス・ホールディング原作の「ブランク・ウォール (The Blank Wall)」の再映像化と言った方が正しいらしい。私は基本的にリメイクというものを信用していないが、今回はわりと評もよく、原作も知らなければオフュルス版も見ていないため、ま、いいかと見に行った。それに主演がティルダ・スウィントンだし。


息子のボー (ジョナサン・タッカー) が柄の悪い男たちと付き合っているのを知ったマーガレット (スウィントン) は、その男ダービー (ジョッシュ・ルーカス) が働いているクラブに乗り込み、息子とのつきあいを止めるよう求める。しかしダービーはその晩、隠れてボーに会いに来た挙げ句、いざこざを起こして家の裏のボート置き場で足を滑らせて錨の上に転落、死んでしまう。ボーはそのことを知らず、翌朝死体を発見したマーガレットは息子が殺してしまったと思い込み、ダービーに錨を巻いて湖に沈める。しかしやがて死体が上がり、マーガレットの前に、ダービーのパートナーだと称する男アレック (ゴラン・ヴィシュニック) が現れる。彼はボーとダービーがセックスしているヴィデオ・テープを持っており、そのテープを警察に渡せば息子が疑われることになると言ってマーガレットを強請り始める‥‥


シーゲルとマギーは、94年に公開されたスタイリッシュな白黒のフィルム・ノワール「スチュア (Suture)」で注目された。しかし「スチュア」は批評家には好評だったが興行的には失敗したため、次回作の製作にハリウッドのメイジャー・スタジオの援助が得られず、第2作の「ディープ・エンド」まで、実に7年の月日がかかっている。結局「ディープ・エンド」はスタジオじゃない、ヨーロッパのまるで映画興行とは関係のない出資者から金を集めて製作したそうだ。


シーゲルとマギーは「スチュア」に続いて「ディープ・エンド」もペアで脚本を書き、演出している。私は完璧にゲイのカップルだとばかり思っていたが、本人たちはあくまでも「ペア」であって、「カップル」ではないと言っているらしい。写真を見ると、どこがゲイのカップルでないのかよくわからないが。いずれにしてもよくよく気が合うペアであることにはかわりはないようで、ほとんど一心同体となって書き、演出するため、脚本に至っては既にどの部分を誰が書いたのかは思い出せないとのことである。


スウィントンは「ザ・ビーチ」ではもったいないとしか言い様のない使われ方だったが、主演で最初から最後まで出ずっぱりの今回は、彼女のうまさを堪能できる。デレク・ジャーマン作品の常連だったということや「オルランド」のようなエキセントリックな役の印象が強いので、息子思いの母親を演じる今回は、あら、普通の役もできたんですか、という感じがする。息子がよりにもよって他の男とセックスしているヴィデオを見せられて、驚愕するが、しかし、それでもすぐにその息子を守らなければと思い直す内面の葛藤を、一言も声を発せずに表情だけで完璧に観客にわからせることができる役者というのは、そうはいまい。


しかしスウィントンを見る度に思うのだが、彼女とケイト・ブランシェットは印象がすごく似ている。顔がというよりも、持っている雰囲気がそっくりだ。今回もブランシェットがマーガレット役をやってもまったく違和感なかったろうと思った。ブランシェットの方が一般的にスウィントンより美人と思われているだけに、ちょっと見映えのする役を多くやっていると思うが、それが役者として本当に得しているのか、それとももしかして損しているのかはよくわからない。


「ER」のコバッチュ先生役で知られるゴラン・ヴィシュニックがアレックを演じており、強面の強請り屋として登場しておきながら、段々マーガレットに同情していくという役どころを好演している。心臓発作を起こしたマーガレットの義父をアレックが助けたことが契機となって、映画の後半はサスペンスを維持しながらマーガレットとアレックとのねじれた愛憎関係に焦点が移っていく。そのことはともかく、元々善人だったろうとはいえ、アレックがあまりにも簡単にマーガレットに同情するようになり過ぎなんじゃないだろうかというのが、ちと不満と言えば不満。その点、完璧に悪役に徹したアレックのボスのチャーリーに扮するレイモンド・バリーの方が、私には印象は強かった。


「ディープ・エンド」では水が重要なモチーフとして使われる。死体を沈めるレイク・タホはもちろん、水槽や蛇口から垂れる水、そこだけわざわざスロウ・モーションになって落ちて砕ける水タンク等、水のイメージには事欠かない。それなのに、後半、焦点が専らマーガレットとアレックに移ってから、めっきり水のモチーフの回数が減る。では前半のあの水はいったい何の意味があったのか。特に前半これだけ水を出したからには、私はクライマックスはてっきり車が湖に飛び込むなり、誰かがダムに落ちるなりするといったシーンが用意されているとばかり思っていた。それなのにそのまま終わってしまって、それだけは残念だ。前半の水はすべて捨てエピソードですか。


話は変わるが、最近のハリウッド映画はCGシーンが多く、スペシャル・イフェクツに関わる人間の数が半端じゃない。それらのスタッフもすべてクレジットされるため、近年エンド・クレジットが極端に長くなってきている。私は一応製作に関わった人への敬意と、こんな人がこんなところに! みたいな意外な発見をするのが楽しみで、エンド・クレジットが終わる最後の最後まで見るのを常としてきた。


だから私が10年前にニューヨークに来た時、本編が終わってクレジットが流れ始めた途端、一斉に立ち上がって劇場を出ていく観客に驚いたものだ。日本にいた時は、観客はほとんど皆、クレジット・ロールが終わって場内が明るくなるまで座っているもんだった。今でも結構そうだと思う。しかし、アメリカで最後までクレジットを見ていて、明るくなった時、場内に座っているのは自分一人だけという体験を何度もし、いきなり掃除を始める係員に、もう終わったんだけど、とでも言いたげな胡散臭い顔で見られ、しかも見てもいったい何をするのかまったく見当もつかない新しいスペシャル・イフェクツ関係の羅列が5分も続くようになってきた現在、そのクレジットを終わりまで見るのが苦痛になってきた。


おかげで最近、私もエンド・クレジットを最後まで見ることはほとんどなくなった。せいぜい出演者だけを確認して終わりである。最後まで見ると、協力やスペシャル・サンクス等で意外な名前を発見する楽しみがあったりするんだが、もう、それだけを見るためにずっと座り続ける気がしない。ちと前置きが長くなったが、実は、「ディープ・エンド」を見た時、出演者を確認して、さて、出るかとちょっともたもたしていたら、なんとエンド・クレジットが終わっちまったのであるということを言いたかったのだ。


これは最近では新鮮なショックであった。元々ハリウッド大作に較べると関係者が大幅に少ないインディ映画で、しかも特撮がほとんどないため、クレジットが短いというのは納得できる話なのであるが、しかし、本当に、ほんの1、2分で終わっちまったんではなかろうか。そのくらいの数の人間しか関係してなくて、本当に映画ができてしまったんだろうか、と、実に不思議な気持ちになってしまった次第。







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