The Dark Knight


ダークナイト  (2008年8月)

ジョーカー (ヒース・レッジャー) の悪行はゴーサム・シティを震え上がらせていたが、一方、バットマン (ウエイン) (クリスチャン・ベイル) の存在は世の中から悪を追放するものではなく、バットマン一人ではこの世の悪の一掃には到底間に合わなかった。その上バットマンを真似をする者が出たりして逆に治安の点ではマイナスの面もあるため、むしろバットマンはいない方がいいという意見もあった。そんな時、正義感に燃える検事のデント (アーロン・エッカート) は敢然と立ち上がってジョーカーに挑戦状を叩きつける。デントはレイチェル (マギー・ジレンホール) に恋しており、その点でもウエインとは表沙汰にならないライヴァル関係にあり、どうしてもウエインはデントに対して皮肉屋的態度をとってしまうのだった‥‥


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近年、スーパーヒーローが住みにくい世の中になったというのは前回の「ハンコック」の項でも書いたが、生きにくさを最も強く感じているのは、元々内省的で、皮肉屋とも言えるバットマンがその筆頭に挙げられるだろう。自分の私財を投じて世のため人のために役に立とうと思ったら、心ない人からバットマンの存在は不要だと言われてしまう。バットマンことブルース・ウエインは大金持ちであり、武器、コスチューム等は自費で賄って世のため人のため役に立とうと日々邁進しているのに、お前の存在が逆に犯罪を助長させるなんて言われたら、そりゃあくさると思う。


その一方で、悪を代表するジョーカーは好き放題やらかしてゴーサム・シティを恐怖に陥れる。味方ですら信用せず切り捨てたり叩き潰したりするジョーカーは、孤高の存在という点で、実は最も近い資質を持っている者はバットマンに他ならなかった。


つまり、「ダークナイト」ではスーパーヒーローが存在しにくくなるだけでなく、正義や悪という概念すら曖昧になり、バットマンとジョーカーという存在が限りなく近づいてしまう。実際問題として、バットマンは最後の最後でジョーカーに対して正義の鉄槌を振り下ろすことができなくなってしまうのだ。ジョーカーは言う、オレたちは似た者同士だと。


そしてさらに「ダークナイト」では、そのことを如実に知らしめる存在として、デント=トゥ-フェイスが登場する。最初はバットマンに輪をかけて正義漢、正の存在を代表する存在だったデントが、ジョーカーの奸計によって一気に負の存在に逆転する。つまり、この世に絶対的な正義というものはなく、人はいつ振り子のように正から邪の存在に転向してしまうかわかったものではない。あるいは最初から正義なんてものは存在せず、恣意的に時代や場所によって定義されているものに過ぎないとも言える。


こんな設定ではスーパーヒーローの活躍する場所なんてない。元々「バットマン」はアメリカ産スーパーヒーローにおいて最も強く負の香りのする存在だったが、ここにおいて極まったという感じがする。さらにジョーカーの存在がそのことを強く印象づける。実際の話、「ダークナイト」においては圧倒的に描写される時間はジョーカーの方が多い。バットマンは主役という感じがあまりしないのだ。ジョーカーを描き込むことによって相対的にバットマンが浮かび上がって来るのが、今回の「ダークナイト」の構造になっている。


そしてそのことを強力に印象づけるのが、映画の中ではなく、現実世界においてそのジョーカーを演じたヒース・レッジャーが既に死亡しているという事実にある。眠れないために睡眠薬やらドラッグをいくつも服用した挙げ句、急性中毒によって死亡したというレッジャーのニューズは今春、電撃のように世界中を走り抜けたが、撮影中も眠れなくてその張りつめた精神を叩きつけたかのようなレッジャーの怪演は、正直言って主人公のバットマンを霞ませる。


さらにデントを演じるエッカートは一昨年、「サンキュー・フォー・スモーキング」によってタバコを吸うことは悪いことではないということを口八丁手八丁で我々に思い込ませようとした男だ。彼にとっては正と悪は元々恣意的なものであった。その上、今回、「ダークナイト」公開時にバットマンを演じるクリスチャン・ベイルがドメスティック・ヴァイオレンスで警察沙汰になるという事件が発生、ゴシップ記事を賑わせた。


こういう虚構と現実が入り交じった結果、「ダークナイト」においては正義や悪という概念はほとんど機能しないものになった。そこに感じとれるものは登場人物の相対的な力関係、バランス、存在感そのものである。元々正義と悪の所在に頭を悩ませていたバットマン、悪に徹底することで魔法のような磁力を発揮するジョーカー、そして正義と悪の両方に揺れるトゥ-フェイスの三すくみが成立した結果、「ダークナイト」においては作品の主人公をバットマンと断言することに抵抗すら覚える。多くの者にとって「ダークナイト」を見終わって最も強力に印象に残っているのは、明らかにレッジャー演じるジョーカーだろう。後半は映画を見ながらバットマンではなくジョーカーを応援している自分を発見した者も多いに違いない。


近年、スーパーヒーローは自分の存在理由に頭を悩ませてきたわけだが、「ダークナイト」はさらにそのことを一歩進めた感がある。絶対的な正義が存在するためには絶対的な悪が必要なわけだが、ジョーカーはその悪を突きつめるともはや絶対的な悪ではなくなることを証明してしまった。一方のバットマンは、自分の存在を頼りにされなくなったためにいじけた皮肉屋的印象が強い。正義が存在するためにはまず悪が必要であり、しかもその悪が絶対ではない場合、正義はあくまでも二次的な存在に過ぎない。まず悪とは何か、それはどこに存在するのかを確かめる必要がある。


「ダークナイト」が今回提出したのはこの問題提起である。それにしてもそれに果たして答えはあるのか。バットマンはどうやってこの問題に折り合いをつけるのか。自分の存在意義と使命を再確認したスパイダーマン、新たな意義に目覚めた「スーパーマン」等、皆スーパーヒーローはそれぞれに悩める昔と決別して前に進んできたわけだが、目前に最も大きな壁が立ちはだかっているのがこのバットマンだ。


もしかしたらバットマンは、「スター・ウォーズ」のダース・ベイダーのように一度悪の側に落ちる必要があるのかもしれない。しかしそうなった場合、ダース・ベイダーのようにそこから二度と這い上がれなくなってしまうかもしれない。そうなったらいったい誰がゴーサム・シティを守るのか。人々が全員悪に落ちてしまえばそういう問題も解決するのだろうか。クリストファー・ノーランはこの問題にどのような解決を考えているのだろうか。正統派スーパーヒーローものとして今後を期待させるブライアン・シンガーの「スーパーマン」とは異なり、一癖あるバットマンはまた別の意味でスーパーヒーローもの全体の今後を占う上で最も重要なシリーズであることは論をまたない。しかしそれにしても、「バットマン」はいったいこれからどこへ行くのだろう。そこに希望はあるのだろうか。







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