The Curious Case of Benjamin Button


ベンジャミン・バトン 数奇な人生  (2009年1月)

第一次大戦末期、ニュー・オーリンズ。ある時計職人が息子を戦争で失った悲しみのために時を逆回りさせることができるようにとの願いを込めて作った時計が動き出した時にこの世に生を受けたベンジャミンは、生まれた時から既にしわくちゃの老人のようで、母は出生児に死亡、父は怖れのあまりベンジャミンをとある敬老施設の前に捨てる。そこで雇いのクイーニー (タラジ・ヘンソン) に拾われたベンジャミンは、段々老人のような姿から、成長するに従って逆に若返って行くという、普通の人間とは逆の成長の仕方をするのだった‥‥


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実は映画を見て、帰ってきてからクレジットを調べるまで、これがスコット・フィッツジェラルドの原作を映像化したものだとはまったく知らなかった。映画が始まる時にクレジットで名前を見た覚えはないし、終わる時はクレジットが流れ始めると席を立ってしまうから、いかにも原作がありそうな作品だとは思ってはいても、「偉大なるギャツビー」のフィッツジェラルドはまったく連想しなかった。


だいたい、公開時にはあちらでもこちらでも話題になっていたために、こちらはあまりよけいに前情報を仕入れたくなくて、わざわざ情報をシャット・ダウンしていたくらいだ。それでブラッド・ピットが段々若返って行くという、そのことだけは知っていたが、あと知っていたのは共演ケイト・ブランシェット、演出デイヴィッド・フィンチャーというくらいだった。


映画は冒頭、現在時間で病院で死の床にいるデイジー (ブランシェット) が、看病している娘のキャロライン (ジュリア・オーモン) にベンジャミン・バトンという人間が書いた日記を読むように頼み、そのベンジャミンの人生を回顧して行くという体裁をとっている。ベンジャミンが生まれたのは第一次大戦末期で、その戦争でとある時計職人の息子が死亡する。絶望した時計職人は、死んだ息子を取り戻したいという願いを込めて、逆回転する時計を作る。そしてその時計が時を刻み始めた時に生まれたベンジャミンは、既に外見は老人で、成長するに連れて若返って行くという数奇な運命を辿ることになる。


もちろん主人公ベンジャミンを演じるのがピットだ。実はまだ「幼い」老人の部分も、ピットが歳とったら確かにこんな顔になりそうだなと思え、いくらなんでもここは別人が演じているだろうが、よくこんな俳優を見つけてきたなと思っていた。そしたら、映画を見た後に雑誌等で情報を漁っていた女房によると、この老人の部分も基本的にピットが演じており、それをデジタル処理で縮小したり歳老いたりさせているということだ。


本当? じゃ、どこからどこまでがデジタル・ピットなんだと訊いても彼女も断定はできなかったが、少なくとも歳老いたベンジャミンの多くをピット自身が演じているのは確かなようだ。テクノロジー恐るべし。それでも、その核の部分はやはり生身の俳優が演じなければならないというところを救いと考えるべきか。いつぞやジェイムズ・キャメロンが生身の俳優を一人も使わないオール・デジタルの「実写」映画を撮ると言っていたのを聞いたことがあるが、それはいったいどうなったんだろう。


実際の話、生身では到底演じるのが無理なところをデジタル処理したパートよりも、生身のピットがメイクで若作りしたり歳とったりしている (と思える) 部分の方が私には興味深い。むろんそういう部分にも幾ばくかのデジタル処理が行われていたりするんだろうが、それでもその方が好もしく思えるのは、私がやはり生身の人間の表情を見ることこそが映画の醍醐味の一つと思っているからだ。いずれにしても、やはり、はにかむような笑みを浮かべる表情をさせると、ピットほどいい顔をする男優はそうそういまいと思ってしまう。本人はいまだにそういわれるのが嫌いでマッチョ役をやりたがるんだろうが、それってやっぱりもったいない。


演出のフィンチャーはこれまでに「セブン」、「ファイト・クラブ」と2度ピットと仕事しており、共に若々しいピットではなく、シリアスな部分のピットを描いている。共にピットの役幅を広げる転換期となった作品であり、その点でのピットとフィンチャーの相性はかなりいい。むしろ「ベンジャミン・バトン」で、フィンチャーが一時期にせよ初めてはにかむピットを描いたことにへえと思ってしまった。


主演のピットにスポット・ライトが当たるのはしょうがないが、しかしブランシェットもだいたい二十歳前後から老境までを演じており、特に無理目の若い頃より、腰が曲がって動きが緩慢になってきた辺りの方がいい。だいたい、昔から演技派と言われている俳優は皆おしなべて老け役がうまい。演技派だからといって皆うまく腰曲げきれるわけではないと思うのだが。それにしてもこちらも、中年期に服を脱いだ時の肌のたるませ方の特殊メイクなんて、うまいよなあ。


ブランシェットとピットは既に「バベル」で共演していて、その時も夫婦だった。今回はピットの特殊な事情のために正式な夫婦になるわけではないが、しかしそれでも事実上夫婦のような関係になる。ま、いくらなんでもピットが今度はアンジェリーナ・ジョリーの元を去ってブランシェットといい関係になるというのはあり得ない話だろうが、しかし、ジェニファー・アニストンの時も最初はそう思ったのだった。


さらに映画では、事前にはまったく出ていることを知らなかったティルダ・スウィントンが出てきておおっと思ってしまった。今、あぶらの乗っている年代の女優では、私が1、2を争うと思っているブランシェットとスウィントンの競演だ。二人が同じ映画に出るのはもしかしたらこれが初めてではないのか。惜しむらくは二人はまったく違うシチュエイションで出て来るので、競演とはいっても二人が同じ絵に収まるシーンがあるわけではない。いずれにしても彼女なら英仏海峡遠泳やりそうだと思った。「ディープ・エンド」で、とても冷たいに違いないユタの湖に潜って行ったシーンを思い出した。


さらについでに言うと、そのスウィントンとピットも、昨年の「バーン・アフター・リーディング」で共演している。こちらも実際に同一スクリーン上に二人が登場するシーンがあるわけではないとはいえ、ブランシェットとスウィントンが、既にピットを介して同じ文脈に出てくることがあったのか。それにしてもピットって、いい女一人占めじゃないか。それとも長続きすることのあり得ない関係でこれらの美女と結ばれるよりは、いっそ関係なぞないことの方がいいのか。あらぬ妄想を抱いてしまうのだった。


たまたまであるが、先頃うちの女房が江口寿史の「青少年のための江口寿史入門」を買ってきた。昔はともかく、私は最近はほとんどマンガを読まなくなっているのだが、これは面白いから読めと強く推されて読み始めた。その中の一編、「岡本綾」が、もろ「ベンジャミン・バトン」だった。年と共に逆行して若返って行くという話は、「ベンジャミン・バトン」に限らず、どこかで誰かがきっと書いているだろうとは思っていたが、こんな近場にいたか。しかも後書きを読むと、これにはさらに原作があって、山田太一の「飛ぶ夢をしばらく見ない」がそもそものオリジナルだという。山田がフィッツジェラルドを読んでいたかは知らないが、人が若返る物語というのは発想としては特に突飛なものでもないだろうから、この手の話は探せば世界中にあるだろう。


それで「ベンジャミン」だが、この作品で最も気にかかったのは、最後、若返って少年になり、さらに幼くなって死んだはずのベンジャミンの晩年? だ。最後、彼はどんどん幼くなって行く。少年になり、赤ん坊になる。そしていったいどうやって死んだのか。胎児になってかくんと死んでしまったのか。それとも空中に消滅したか。これは寓話なんだからそんな重箱の隅を突つくようなことを言ってもしょうがないだろうと言われそうだが、しかしその寓話をリアリズムたっぷりに実写で撮ろうとしたのがこの作品であるわけだから、最後まで見せてくれてもいいじゃないか。生まれてきた時はちゃんとしわしわじじいを見せているんだし。


一方、江口のマンガでは、若返るというのは「ブラインドネス」みたいな原因不明の伝染病のようなものになっており、まず若化速度が人に較べて速いイヌが胚化して地上から消える。ひまわりも双葉になり、消える。そうそう、どうせならそこまで見せてもらいたいのだよ。もっとも、「岡本綾」でも、人間が最後どうなるかまでは描かれていない。しかし、読むのに1分しかかからないたった9ページのマンガでもこの余韻を残すことができるのかと感銘を受けた。確かに全盛期の江口って面白いわ。


人間、歳老いて行くと逆に子供になるというのはよく言われていることだ。段々気難しく、言うことを聞かなくなって手のかかる子供みたいになる。それはベンジャミンも例外ではない。さらにどうもベンジャミンは過去の記憶も失って行くみたいで、少年化したベンジャミンは本当にだだをこねるただのきかん坊でしかない。かつて幼い時に老成して達観したところを見せていたあのベンジャミンはいったいどこへ行ってしまったのか。これでは人生の終わりにまた子供に戻って一生を締めくくるというよりも、それまで学んできたことがただ元の木阿弥に帰ってしまっただけというようなはかなさ、無念さの印象の方が強い。


これが近年のクリント・イーストウッドの映画だと、一見悲劇だが、作品そのものは強い前向きの勇気を与えてくれる。しかしフィンチャー作品では、「ゾディアック」もそうだったが、登場人物はほとんど生活破綻して、実際に悲劇のまま終わってしまう。そこには未来に対する希望のようなものはあまり感じられない。こないだエンタテインメント・ウィークリーをぱらぱらとめくっていたら、フィンチャーの、この作品は死についての物語だというコメントが載っていて、さもありなんと思ってしまった。イーストウッドとフィンチャーという、リアリスティックな演出という点では近年では一、二を争う演出家の印象がこうも違うか。








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