The Counterfeiters (Die Fälscher)

ヒトラーの贋札  (2008年3月)

1936年、ナチ政権下のベルリン。ユダヤ人のサリー (カール・マルコヴィクス) は偽札からパスポート、ID等、あらゆる贋作を作る稀代の職人だったが、結局ナチの手によって強制収容所入りさせられる。ナチはポンド紙幣やドル紙幣の偽札を作り、それを市場にばらまくことで連合国側を転覆させようと考え、サリーをはじめユダヤ系技術職人を一か所に集め、偽札作りを始める。ナチの手先になぞなりたくはないが、かといって指示に従わなければ殺される。同じユダヤ人収容所仲間の中でも意志の統一がとれないまま、戦局は次第に終盤を迎える‥‥


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「ヒトラーの偽札」は、事実を基にしたいわゆるドキュドラマだ。一番最初にこの作品のことを耳にしたのは今年のアカデミー賞の外国語作品賞にノミネートされた時で、その時既に、ナチのキャンプで辛酸をなめたユダヤ人ものということで、ほぼすべての媒体が受賞はこの作品で決まりだろうと当確扱いにしていた。ユダヤ人が牛耳るとされているハリウッドにおいては、票を集めやすい作品というのはある。


第二次大戦時、連合国側の経済システムを機能させないものにしようと、枢軸側はアートや技術系に秀でたユダヤ人を集め、精巧な偽札工場を構築した。その中心となったのが、その手の贋作作りに天才的手腕を示したサリーだった。サリーの作るポンド紙幣は、英国の銀行のお墨付きさえ獲得する。これで無事ドル紙幣も作ることができたなら、連合国の基盤を根底から揺るがすことが可能だ。


一方、彼らはドイツのためになることをしているということで他のユダヤ人と比較して優遇されるが、当然同胞はそのことを快く思っていない。またサリーをはじめその他のユダヤ人も、内心ではナチにおもねることを潔く思ってはいなかった。特にそのことにこだわったのがブルガーで、彼は自分の命を賭してもこの作戦を妨害すると宣言する。戦局は進みドイツの敗戦は濃厚になってきた。作戦の責任者であるヘルツォークはサリーをつつき、これ以上時間がかかるなら一人ずつ殺していくと通達する。サリーはヘルツォークの言うことを聞いてブルガーを売るか、ブルガーに組して死を覚悟するか決断を迫られる‥‥


この映画、視点はユダヤ人寄りであるが、作ったのはオーストリア人であり、オーストリア代表としてアカデミー賞にノミネートされている。むろんオーストリアにもユダヤ系はいるだろうが、監督のステファン・ルツォヴィツキーという名はユダヤ系には全然聞こえない。ホラーの「アナトミー (Anatomy)」の人で、むろん強制収容所とホラーとでは共通項はなくもないとは思えるが、しかしそれにしても第2次大戦ドラマか。


それでさすがにちょっと気になった調べてみたら、ルツォヴィツキーはユダヤの血は入ってないどころか、何代か前にはそれこそナチの一員がいるそうだ。ナチの末裔がホロコースト・ドラマか。とはいえルツォヴィツキーは特に内省的という性格でもないようで、「ヒトラーの贋札」に特に思想的批判的な意味を持たせたかったわけではなく、単純によくできたドラマとして興味を惹かれただけらしい。「ある仕事をするのは毎月の家賃を払わなければならないから」という態度は、むしろ現代の職人映像作家としては正しい姿勢なのかもと思わせられる。


そういう姿勢のためか、この作品は収容所を生き抜いた一人であるブルガーの原作を基にしているのにもかかわらず、主人公はブルガーではなく贋作作りの職人サリーであり、ブルガーは完全に脇扱いであるばかりか、えもするとブルガーがサリーの邪魔をする悪人のようにすら見える。主張していることはブルガーの言うことが100%正論であるのにもかかわらずだ。


ブルガーはナチの横暴傲慢を憎み、ナチの思い通りに事を運ばせないためには何事をするのも辞さない。堂々とサリーに対し、オレはお前の邪魔をすると宣言する。しかし、偽札ができなければそれはナチの怒りを買い、収容所のユダヤ人に対する態度を硬化させる。それは一直線に死に直結するのだ。そのため世渡りのうまいサリーは、ここは自分を殺してでもナチの言いなりになって偽札を作った方がいいと考える。彼のそれまでの人生そのものが、たぶんそういう人生哲学にのっとったものだろうと思えるから、当然収容所内だろうとそういうものの考え方をするだろう。


こういう、世渡りのうまさのようなものを垣間見せながら、サリーは同胞に対しては仲間意識は強く、決して仲間を売るような真似はしない。そのへんが彼が自分で決めた自分なりのルールなんだろう。考えたら サリーは当代一流の贋作作りとして、 無尽蔵といってもあながち過言ではない金を持っていた。たとえいくらだろうとそれなりの時間さえかければ彼が作れない金はないのだ。こういう職人にとっては最終的には自分を律することができるのは自分自身しかなく、奢侈に溺れずに長く一線にいられたのもそういう克己心の強さがあってこそだ。


映画の冒頭と最後では、そういう自律心並びに世渡りのうまさのためにホロコーストを生き延びたサリーがモンテカルロでほとんど投げやりにギャンブルに興じる姿を描く。一夜の余興、一夜の女遊び、しかしそれらはほとんど究極の体験をしてきたサリーにとって、もはや心を休ませることができるものではなくなっていた。


しかしふと思うのだが、サリーがギャンブルでばらまく金は、やはり彼が作った偽札だろう。畢竟いくら博打ですろうとも、サリーにとっては痛くも痒くもない。なくなればまた作ればいいだけだ。むろん収容所のように大掛かりな設備があるわけではなく、個人で製作するのは物理的に上限があるだろうが、少なくとも生きていくのに苦労することはあるまいと思われる。


一方でその他の収容所仲間が戦後を生き抜くのに苦労することは、そのために戦中の悲劇を思い出さないでいられることでもある。逆に言えば、戦争が終わるとすぐに昔の生活に戻れることができたはずのサリーは、最も収容者時代の体験に記憶をはせらせる時間が多かったと思われ、そのことは戦前の元の生活に戻ることを難しくしたことだろう。今やどんな完璧な偽札を作ろうとも、そのことは収容所時代の記憶に直結するに違いなく、もはやサリーに心の平穏は永遠に約束されることはない。サリーは自分の作った偽札を手にすると、わざわざ負けるためにモンテカルロを訪れる。むろんそれは自分の心の中の虚無を改めて気づかせるだけに過ぎない。


こういうことを考えさせはするが、「ヒトラーの贋札」はルツォヴィツキーの発言からもわかるように、モラルというよりもどう展開するかわからない物語性の方に重点を置いた構成になっている。が、それでも話としては昨年のポール・ヴァーホーヴェンの「ブラック・ブック」と比較すると、「ブラック・ブック」ほどエンタテイニングというわけでもない。どちらかというとスティーヴン・スピルバーグの「シンドラーのリスト」の方に近い。あるいは「アンネ・フランク」か。それでも、やはり背筋を伸ばして訓戒を聞いたりお勉強したりする気持ちではなく、まず娯楽作品として存在しているこのバランス感覚が、実は「ヒトラーの贋札」の最も優れた資質なのではと思う。







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