Jonestown: The Life and Death of Peoples Temple

放送局: PBS

プレミア放送日: 4/9/2007 (Mon) 21:00-22:30

製作: ファイアライト・メディア

監督: スタンリー・ネルソン


内容: 1978年のガイアナの人民寺院の集団自殺事件を回顧する。


The Bridge

放送局: IFC

プレミア放送日: 5/7/2007 (Mon) 23:00-0:40

製作: イージー・スリー・タイガー・プロダクションズ、ファースト・ストライプ・プロダクションズ、RCA

製作総指揮: アリソン・パーマー・バーク

監督: エリック・スティール

撮影: ピーター・マッキャンドレス

編集: サビン・クラエンビュール

音楽: アレックス・ヘッフェス


内容: サンフランシスコのゴールデンゲイト・ブリッジから飛び降り自殺を図る者たちをとらえる。


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ここんとこ、ちょっと自殺づいている、というとすごくやばく聞こえるが、自殺がメイン・テーマの興味深いドキュメンタリーを立て続けに2本見た。1本目がガイアナの人民寺院の集団自殺事件を回顧した「ジョーンズタウン: ザ・ライフ・アンド・デス・オブ・ピープルズ・テンプル (Jonestown: The Life and Death of Peoples Temple)」で、2本目がサンフランシスコの金門橋ことゴールデンゲイト・ブリッジから飛び降りる者たちに焦点を当てる「ザ・ブリッジ」だ。


人民寺院の集団自殺事件は、やはり歴史に残る大きな事件であるので最初からそこそこ興味もあったわけだが、「ブリッジ」の場合は、実は世界最大の自殺の名所であるということらしいゴールデンゲイト・ブリッジを主題とするドキュメンタリーということを聞いて、なんとなく興味が沸いてきた。毎年何十人もの人が、アメリカ中どころか世界中から集まってきてわざわざ身を投げるというブリッジ。いったいブリッジの何がそこまで死を思う人間を惹きつけるのか。


死というものはつい100年前くらいまではわりと身近にあった。死が特に日頃意識するものではなくなったのは、医学が飛躍的に進歩した20世紀以降の話であり、だいたい夫婦というものは、ごく限られた階級を除き、生んだ子の何人かは子供のうちに死ぬことを考えに入れて子作りに励んでいた。うちの父母の代ですら兄弟姉妹は何人もいて、やはりそのうち何人かは子供の時に死んでいる。当然その時代に死ぬ最も大きな理由は戦争だが、うちの父の兄弟の一人は子供の時、台風のために潰された家屋の下敷きになって死んだ。半世紀以上も前の話だが、つい半世紀前には人はそういう理由で死ぬこともあったとも言える。


それが医学やテクノロジーの発達や、一部を除き戦争が起こらなくなったせいで、死が縁遠くなった。しかし近年、またぞろ連続して起きている大きな事件や災害のせいで、人間はやはりいつ死ぬかわからないという考え方が復活してきているような気がする。昨年、今年とアメリカではハリケーンや竜巻、豪雨豪雪、地すべり、山火事等の自然災害で死ぬ人がかなりの数に上った。人はいつ死ぬかわからない。近年のTV番組では、人が死ななければ話が始まらないCBSの「CSI」を筆頭に、ディスカバリー・ヘルスの「Dr. G」やA&Eの「ファミリー・プロッツ」、あるいはサリー・マンの「ホワット・リメインズ」といった番組が、死をまた日常の側に引き戻そうとしているという感触を受ける。しかしそれでも、好むと好まざるとにかかわらず事件に巻き込まれたり事故に遭ったり病気になったりして死ぬことと、自殺することはやはり違うと言わざるを得ない。


さらに、「ジョーンズタウン」の集団自殺はほとんど狂信的指導者による大量殺人的色彩が濃い。基本的に入信した人々は善意の人々であり、死を意識しているわけではなく、一緒によりよく生きていこうという前向きの意志を持っている者がほとんどだった。それが共同体が瓦解した時、ほぼ強制的に自殺を強いられる。番組は当然その集団自殺をクライマックスに、そこに至るまでの人民寺院=ジム・ジョーンズと、彼に振り回された信者の姿を、かろうじて死を免れた人たちのインタヴュウ、および当時の映像を交えながら浮き彫りにする。


結局この手のやつではそういう風に落ち着くことになるのだが、やはりジョーンズは人一倍自意識と見栄、権力欲の強い、本当は最も指導者に相応しくないタイプだったということが、この番組を見るとよくわかる。新しい村を求めて大勢の信者がバスに乗って移動する時、ジョーンズの隣りに座っていた女性はバスの後ろに特別に設えられたジョーンズの個室に呼ばれる。後からやってきたジョーンズはパンツを降ろすと、これはあんたのためにやっているんだと言ってその女性とセックスしたそうだ。なんか、こういう新興宗教の指導者って、ドラマや小説だと皆この手の画一的独裁者的な描かれ方をする場合が多いが、本当にそうなんだなと思う。とにかく宗教は胡散臭い。


いずれにしても、ガイアナに渡っても魂が救済されるわけでもこの世に楽園が築けるわけでもないことにうすうす感づき始めた信者たちは離脱を求めるようになり、一方、格好のニューズ・ネタを見つけたマスコミがそれに群がる。ジョーンズは自己弁護に走り、それでも信者の気持ちを繋ぎとめておくことができないことを見てとると、その時視察に来ていたレオ・ライアン議員もろとも、ガイアナを去ろうとプロペラ機に今まさに搭乗しようとしていた人々に銃弾を浴びせる。番組では、その時死んだふりをして九死に一生を得た人たちにも話を訊いている。


一方、ジョーンズは教団に残っていた信者に対しては服毒自殺を迫る。どうしてもいったん掴んだ権力を手放すのは嫌だったらしい。それを諦めるくらいなら全部壊してしまえという、ガキの発想と一緒である。人の心理を手玉にとって、口八丁手八丁で最後の最後まで騙しつくすだけに、よけい性質が悪い。結局、900人以上という信者が死亡し、ジョーンズも頭を撃ち抜かれた姿が発見されるが、自殺か殺されたのかは今もって定かではない。


FOXの「X-ファイルズ」に、この事件を元にしたエピソードがある。モルダーの奔走むなしく新興宗教の信者が全員死んでしまうのだが、このエピソードは印象的な話が詰まっている「X-ファイルズ」の全エピソードの中でも、1、2を争うくらい印象に残る。集団自殺って、怒りとか悲しいとかの感情が湧くとかいうよりも、なんで、と呆然としてしまうのだ。30年後の今、事件を傍観してもやはり言葉もない。事実の方が圧倒的にこちらの想像力を超えてしまっているので、そのことを前にしてはただおろおろしてしまうだけなのだ。


ところで人民寺院は南アメリカのガイアナに移る前、70年代、一時期サンフランシスコを本拠にしていたことがある。「ブリッジ」でとらえられるゴールデン・ゲイト・ブリッジの近くなのだ。あんな風光明媚な町が自殺の名所をお膝元に抱え、やばい教団と接触があったのか。うーむ。しかし、そういう場所だからこそ新興宗教に目をつけられ、死を思う人が最後の瞬間にはせめてそういう場所を死に場所として選ぶのかもしれない。


「ブリッジ」では自殺した者の家族や知人、関係者から話を聞いて、自殺した者を浮き彫りにすると共に、何が人を自殺に導くのかを考察する。ここで明らかに人民寺院事件で残された家族と異なるのは、自分の意志で自殺した者に残された家族の表情には、悲しみだけでなく、ある一種の諦観に近いもの、微笑すら浮かんでいることにある。人民寺院事件で残された家族には、やはり今でも納得しがたい、諦めきれない悔しさや悲しさといったものが垣間見えたりするのだが、それが明らかに本人の意志による自殺の場合、残された者はどんなに時間がかかってもそれを受け入れるしかない。それが差となって現れるのだという気がする。


「ブリッジ」も「ジョーンズタウン」も、九死に一生を得た関係者、つまり「ブリッジ」の場合、自殺しそこねた者にも話を聞いている。そして「ブリッジ」ではその部分が最も面白い、といっては不謹慎だが、最も興味深い話になっている。その若い男は死のうと思って橋から飛び降りた瞬間に、しまった、やっぱり生きていたかったと思う。しかし既に身体は宙に浮いている。そこで必死になって最も着水時に衝撃が少なそうな姿勢をとろうと空中でもがくのだ。


その甲斐あって生きて今、話を聞くこともできるのだが、橋を蹴って飛んだ瞬間に後悔してもがくというのは思わず笑ってしまうと同時に、なにやら感動すらしてしまう。彼は飛び降りる前に橋の上でオレはこれから死ぬんだと感傷的になって長い間ぼろぼろ泣いていたが、誰も彼に誰何したり大丈夫かと訊いてくる者はなく、そのうちドイツ人観光客が近づいてきて、写真を撮ってくれと頼まれたそうだ。私がこれまでに聞いた中でも1、2を争うブラックなギャグである。


「ブリッジ」は、ニューヨーカー誌に掲載されたタッド・フレンドの書いた「ジャンパーズ (Jumpers)」というレポートに衝撃を受けたエリック・スティールによって企画された。当然自殺した者、未遂に終わった者の関係者から話を聞くわけだが、この作品が最も衝撃的なのは、約1年間にわたってブリッジに焦点を合わせ続けたというカメラがとらえた、自殺する者がジャンプする瞬間の映像がいくつも収められていることにある。特に作品の最初と最後に言及され、最も印象的なエピソードの一つを提供する男性が、両手を広げ、まるで空を飛ぼうとでもしているかのようにゆっくりと身体を傾けて落ちていく瞬間をとらえた映像は、視覚的に最も印象に残る。


普通の常識人の考え方だと、そうやって橋の下で自殺者を待って記録するくらいなら、橋の上で待って自殺する者を止めろということになるかと思う。しかし、記録することを職業とするカメラマンやヴィデオグラファーは、時にそういうヒューマニズムや常識を犠牲にして、自分の職業を優先させてしまう。もちろん彼らに良心がないとかそういうわけでは決してない。こないだ見たショウタイムの「ディス・アメリカン・ライフ」でも、高波にさらわれて死んだ女性を写真に撮り続けたカメラマンの話が出てきていたが、彼だってもちろん自分のとった行動について自問せざるを得ない。


この種の話題としては最も知られていると思われる、アフリカで食べ物がなくて飢える子供のすぐ後ろで、ハゲタカがその子が死ぬのを待っているという写真を見たことがある者も多いと思う。あまりにも強烈な写真で、これを撮ったカメラマンは当然の如く批判にさらされた。金を稼ぐために一人の子の命を犠牲にしたと徹底して叩かれた。しかし、そんなの、人に言われるまでもなく現場でその写真を撮ったそのカメラマンが誰よりもよく知っている事実なのであり、人から批判されるまでもなく、自分自身よくわかっていた。結局そのカメラマンは、自責の念に耐えられなくなって精神の均衡を崩し、自殺する。この話もドキュメンタリー化されていて (「The Death of Kevin Carter: Casualty of the Bang Bang Club」)、シネマックスで放送されていたのを見た。


とまあ、マイナス指向の話をどんどん連鎖的に思い出してしまったわけだが、しかし、それにしてもこういう自殺ものって、結構見るのがきつい。なにを血迷ってこんなのを2本連続で見てしまったものやら。TV画面を見ながら途中からどんどん自分のエナジー・レヴェルが低下していくのが自分でもわかった。特に「ブリッジ」では、何人もの自殺した人間をフィーチャーするのだが、近親者のインタヴュウによって浮き彫りにされる自殺した人間、あるいは自殺に失敗してインタヴュウを受けている人間の気持ちにシンクロしたりなんかすると、かなりまずいという危機感が働く。あれってどう見てもいくらか伝染的なものがあるからな。だからこそ自殺の名所みたいなものができる。


ところで「ブリッジ」のポスターであるが、当然今これを見て人が思い出すのは、デイヴィッド・フィンチャーが映像化した「ゾディアック」だろう。あれも霧の中に浮かぶゴールデンゲイト・ブリッジを使っておどろおどろしい雰囲気の醸成を狙っていたが、実はあのポスターは、見ようによっては人が目を閉じている風に見えないこともない。変な脱力ポスターだなと私は思っていた。それよりも見上げる視点のこの「ブリッジ」のポスターの方がより不気味である。そういう角度から撮った写真も観光写真として利用されていたりもするが、いったん見上げる視点の方が圧迫感があると感じてしまうと、一転してそれが不気味なものに変貌する。サンフランシスコ観光に行くべきかどうか。   







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ジョーンズタウン: ザ・ライフ・アンド・デス・オブ・ピープルス・テンプル (人民寺院の生と死)   ★★★
The Bridge
ザ・ブリッジ   ★★★

 
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