The Ballad of Buster Scruggs
バスターのバラード (2019年1月)
The Ballad of Buster Scruggs
バスターのバラード (2019年1月)
先週予想した通り、キアヌ・リーヴス主演の「レプリカズ (Replicas)」が一週でこけ、もう今週は上映していず、代わりといっちゃなんだが今回見たコーエン兄弟の新作「バスターのバラード」は、告白してしまうが映画館で見たわけではない。年の瀬で見たいもの見ておかないといけないもの今見るべきもの後回しでよさげなもの、等を色々と理由をつけてこねくり回して順番付けした結果、今冬はこれまでで最もそういう振り分けに失敗した冬となった。
だいたい、クリント・イーストウッドの新作「運び屋 (The Mule)」とか、アルフォンソ・クアロンの白黒作品の「ローマ (Roma)」等、とにかく公開したら何が何でも見るという再優先順位筆頭作品を除き、2番手以降に回した作品や公開に気づくのに遅れた作品はどれもすぐ劇場から消え見逃すという展開を、なぜだか今冬は飽きもせず繰り返している。我ながらこの判断ミスは呆れるばかりなのだが、こういうことは起きる時は起きるというのも、過去の経験から知っている。とはいえ、学習して次から同じことは繰り返さないようにという風にもならないのも、これまた学習済みだ。
こういう時にNetflixというのは、ありがたい存在ではある。「ローマ」もそうだったが、「バスターのバラード」も、Netflix作品だ。要するに、ほとんど劇場公開と時を同じくして、ストリーミングでも配信している。しかもこちらは基本的に見たい時にいつでも見れ、公開が終わったので見逃すということがない。欠点としてはやはり自宅でのTV画面視聴では、うちの場合は42インチ画面でしかなく、サウンド・バーもないため、臨場感という点ではやはり映画館にはかなわない。HDTVとはいえ4Kでもないため、画像の細部の再現にも不安が残る。しかし、やはりまったく見れないよりはマシだ。
Netflixという鬼子の存在には業界でも意見が分かれていて、容認派もいれば反対派もいる。映画は映画館で見るものという映画館至上主義派は、TVで映画を見ることに強硬に反対する。実際、「ローマ」のようなモノクロ作品は、TV画面だとかなり黒の表情が潰れることが予想され、私も慌てて映画館に行った。一方、映画館に固執して逆に潜在的観客をなくすよりは、Netflixのような媒体も積極的に利用すべきという意見もある。「ローマ」をNetflixで製作したクアロンの場合はこの口だったかと思うが、実は何も考えてなかったというのもありかもしれない。なぜなら、やはり映画作家はモノクロで作品を製作しようと考えている場合、その最終アウトプットがスクリーンではなくストリーミングだとしたら、その是非を考えると思うからだ。オファーが来たから乗っただけというのが、実は「ローマ」には最もしっくり来る気がする。
明らかに自分の作る映画にかなり意識的なコーエン兄弟の場合、自分たちの作品がだいたい常に通好みで、映画館で一斉拡大上映するよりも単館公開が適しているということを踏まえた上での、Netflix配給だと思う。スクリーンに固執して都市部以外の潜在的観客に届かないよりは、ストリーミングでも人が見てくれた方が嬉しいというところではないか。
その「バスターのバラード」は、全部で6話から成るオムニバス西部劇だ。話として全体に連なる筋やテーマがあるわけではなく、構成として全話に共通しているのは、西部劇というただ一点のみだ。全体的なトーンとしては、ブラック・コメディ的な印象が強い。とはいえまったくそういう印象を受けない話もある。最もブラックなのが第3話の「食事券」で、第2話「アルゴドネス付近」もブラックと言える。第5話「早とちりの娘」は、ブラックと言うよりも悲劇という感じだ。いずれにしても、そういう捻った、世界を斜に見るみたいな印象が、唯一の共通点と言えなくもない。
ということは別にして、やはりコーエン兄弟、只者ではない。どの話も一癖も二癖もあって面白い。冒頭の「バスターのバラード」からして、主人公のバスターはシンギング・カウボーイというか、ギターを弾いてカメラ目線で話を進める。人を食っているとしか言いようがないが、これがまた滅法面白い。コーエン兄弟ならではの美意識のあるヴァイオレンス描写が、ブラックなコメディ展開と相俟って、強い印象と後味を与える。
どの話も面白いが、個人的に強く印象に残ったのが、第4話の「金の谷」と、第5話の「早とちりの娘」だ。「金の谷」は一匹狼の山師が金を発掘しようと川床を掘り進める話で、ただ一人、朝から晩まで人と話をすることもなく、ただただ地中を掘る。そのほとんどは骨折り損のくたびれ儲けにしかならない。それでも掘る。掘り続ける。
思い出したのはポール・トーマス・アンダーソンの「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド (There Will Be Blood)」のダニエル・デイ-ルイスで、彼も同様に、こちらは金ではなく銀目当てだが、ただただ穴を掘り進めるという作業を休みなく続けるという偏執狂的人間を体現していた。それに較べれば、「金の谷」で主人公の山師を演じるトム・ウェイツは、そこはかとなく剽軽なオーラを発しており、デイ-ルイスほどシリアスではない。しかし、いずれにしても近くに誰もいない状態で怪我したり何か問題が起きても、誰も助けてくれる者はいない。実際、そこそこの金塊を発掘した山師は、それを狙う別の男に撃たれてしまう。
話がさらに面白くなるのはそれからで、撃った男は山師が完全に息の根が止まっているのを確信するために、ただただ待つ。シャツから滲み出る血が固まり、何時間か経って山師が死んでいることを確信して初めて、男は次の行動に移る。やっぱり忍耐なのだ。他に誰も頼るもののない状況では、先に忍耐力を切らして動いた方が負ける。自分をどこまで律することができるか。それができない者は西部では生き残れない。
次の話の「早とちりの娘」も、昔見た別の映画、こちらは「ミークズ・カットオフ (Meek’s Cutoff)」を思い出したおかげで、より印象に残った。西部に向かう移住者は、基本的に馬車に乗らない。馬車に追随して歩く。いざという時にウマが使えないとそれこそ命取りになるから、ウマを弱らせないようにするためだ。馬車があるのにそのそばを人が黙々と一緒に歩くという構図を延々と撮った「ミークズ・カットオフ」は、そのイメージが強烈で印象に残るが、同様の絵が「早とちりの娘」でも描かれる。しかも主人公を演じるゾーイ・カザンは、「ミークズ・カットオフ」にも出ている。コーエン兄弟が「ミークズ・カットオフ」を見ていて「早とちりの娘」がそれに触発された話というのは、ほぼ確実だと思う。それにしてもカザンは、「ミークズ・カットオフ」では生き残れたのだろうか。
第1話: バスターのバラード (The Ballad of Buster Scruggs)
陽気なカウボーイのバスター (ティム・ブレイク・ネルソン) は歌が大好きで、どこへ行ってもギター片手に歌っていたが、迷惑がられることも多かった。ある日入った酒場でバスターはまた騒ぎを起こしてしまう。
第2話:アルゴドネス付近 (Near Algodones)
銀行強盗に失敗した男 (ジェイムズ・フランコ) は木の枝に吊られ、絞首刑になろうとしていた。運よく通りすがりの男に助けられるが‥‥
第3話: 食事券 (Meal Ticket)
手足のない男 (ハリー・メリング) は興行主の男 (リーアム・ニーソン) と共に、旅すがらリンカーンのゲティスバーグの演説等を朗読してなにがしかの金を稼いでいた。しかし冬も深まり、山奥の村で人も集まりにくくなってくる。
第4話: 金の谷 (All Gold Canyon)
男 (トム・ウェイツ) が川床で金の発掘に余念がない。ついに金塊を発見したと思ったのも束の間、男の後ろに新たな男の姿があった‥‥
第5話: 早とちりの娘 (The Gal Who Got Rattled)
新天地に向かって移住途中のキャラバンにいた娘 (ゾーイ・カザン) は、兄が死亡してしまい、今後のことを護衛の男 (ビル・ヘック) に相談する。男は段々娘に好意を抱き始め、プロポーズする。
第6話: 遺骸 (The Mortal Remains)
馬車の中に4人の男と一人の老婦人が乗っている。彼らはするともなく四方山話を始める。その中の一人が言うには、彼らは賞金稼ぎで、馬車の上に死体を載せているという。
___________________________________________________________