The American


ジ・アメリカン (ラスト・ターゲット)  (2010年9月)

ジャック (ジョージ・クルーニー) はヨーロッパでプロの暗殺者のために特別あつらえの銃器を製造提供する、アメリカ人技術者だった。腕はいいが癖があって気難しく、そのため雇用者のパヴェル (ヨハン・レイゼン) から疎んじられる傾向があり、さらに何者かがジャックの命を付け狙ってもいた。ジャックは次の仕事を最後に引退する決心をしてイタリアの寒村での仕事を請け負う。そこの売春宿で出会った若い娼婦クララ (ヴィオランテ・プラシド) にジャックは惚れ込んでしまい、彼女と一緒に暮らすことを考えるようになる。一方、スナイパーのマチルド (テクラ・ルーテン) は何度もジャックに微妙な調整を注文し、後はでき上がった特製ライフルをマチルドに届けるだけになった‥‥


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タイトルは「ジ・アメリカン」、舞台はヨーロッパ、主としてイタリアの寒村を中心に展開する作品中に登場するアメリカンはたった一人、主人公ジャックを演じるジョージ・クルーニーだけだ。つまり「アメリカン」は、徹頭徹尾クルーニーのためにあるような映画と言える。


ところでアメリカ人というのはわりと旅行好き、というか、懐に余裕があるからか、よく海外旅行をする。少なくとも数年前まではそうだったし、今でも金を持っている者はやはりよく海外に行っている。そこでアメリカ人は、ほとんどが世界のどこへ行こうとも、自国語、つまり英語で通す。


むろん多少の現地語を勉強したりもするが、それは旅行にアクセントを付ける以上のものではなく、話が込み入ってくると、とたんに英語に変わる。だいたい、外国に行って現地の人に話しかける時、すみません、英語話せますか、といって話しかけるのは、世界でアメリカ人とイギリス人だけだ。いくら英語が事実上の世界共通語だとはいえ、フランス人が海外でいきなり人に、すみません、フランス語話せますか、といって話しかけることはないだろう。日本人がヨーロッパに行って、すみません、日本語話せますかといって話しかけることは、想像することすら不可能だ。


このことは映画の中でも当然そうだ。クルーニーはほぼ全篇を英語一本で通すし、彼と知己を得る神父や娼婦は、彼らの方から英語でコミュニケーションをとろうとしてうまく話せないと、もっと英語を勉強しなくちゃ、なぞと言う。つまりアメリカ人は、現地の言葉を話せない部外者でありながら、階級的には彼らの上に位置している。クルーニー演じるジャックは、自分の方から行動するのではなく、神父がジャックに話しかけてくるように、人が話しかけているのを待っているだけでいい。


世界はアメリカが主導するという構図で成り立っているなら、それに従っていれば何も問題は起こらない。それなのにジャックが自ら行動を起こして娼館に赴き、娼婦に愛情を持つことは、自らそれまでの構図を崩すことに他ならない。ただでさえ法律に反することを生業としているジャックにしてみると、自分から能動的に動くことが利にならないのは明らかだ。


ジャックは腕の立つ銃器製作者だが、しかし職人気質の彼は扱いが難しかった。引退を考えるジャックだが、よりにもよってこの時期に、通った娼館の娼婦に本気で惚れてしまう。一方、既に冒頭で描かれているように、ジャックに対しては刺客が放たれている。第三者に恋愛感情を持つことが危険であることは論を俟たない。それまでもたとえベッドを共にした相手でも、非情に切り捨てることで窮地を凌いできた。今回もそうすべきなのはもちろんだが、しかしジャックの中では何かが変わり始めていた‥‥


とにかく徹底してスタイリッシュに一人のアンダーグラウンドで生きる男を描いたのが、「アメリカン」だ。イタリアを舞台としていることもあり、ベルナルド・ベルトリッチの「暗殺の森 (The Conformist)」を思い出す。両者とも特にスタイリッシュなヴィジュアルが特徴的なこともあるが、「アメリカン」のスタイリッシュさは、「暗殺の森」に勝るとも劣らない。というか、時にほとんど構図のための構図みたいになる。


ジャックがコーヒー・ショップで席についていて、わざわざ彼を構図の下端に寄せて撮るなんて絵は、実験映画でもない普通のナラティヴな作品では普通しないだろう。まるでエドワード・ホッパーの絵を見ているようなのだ。確かに、ホッパーの絵のような無機質な不安定さを醸成しているとは言える。その、情感を殺して生きているはずの無機質の代表とも言えるジャックが感情を持つとどうなるか。愛情と無感情、ヨーロッパとアメリカ、過去と現在、無機質とオーガニックが拮抗する。


演出はアントン・コービンで、過去、いくつもの音楽映画、ミュージック・ヴィデオを撮っている。ヴィジュアルへのこだわりは人一倍であることが窺われる。撮影のマーティン・ルーエはずっとコービンと一緒に仕事をしているようだ。これまたベルトルッチと撮影のヴィットリオ・ストラーロとの関係みたいだ。


もちろん出演者もクルーニーを除き、ヨーロッパ人で占められている。女性スナイパーに扮するテクラ・クーテンは、ライフルを担いで歩けそうなタフさを持っているわけではないが、それでも冷酷さとプロフェッショナリズムを感じさせる。レベッカ・デモーネイと、フィギュア・スケーターのカタリーナ・ヴィットを足して割ったような、いかにもヨーロッパ的香りのする美人。対するクララに扮するヴィオランテ・ブランドは、クーテンとはまったく逆の、こっちはヨーロッパの田舎の純朴な感じを出している。基本的に作品に登場する女性はこの二人と冒頭のみ出演のイリーナ・ビョークランドだけなので、クーテンとブランドによる陰陽、洗練と純朴の対比が効いている。男性ならどちらが好みかで趣味がわかる。


仕事の仲介役のパヴェルを演じるヨハン・レイゼンは、ダニエル・クレイグが歳をとったらこんな感じに渋くなりそうだと思わせる。ジャックがライフル工作に必要な部品を手に入れるガレージ主として出てくるのは、「勝利を (Vincere)」でムッソリーニに扮したフィリポ・ティミ。実は家に帰ってきてフィルモグラフィをチェックするまで、まったく気がつかなかった。


この作品、実はマーティン・ブースの原作「影なき紳士 (A Very Private Gentleman)」において、主人公はブース同様英国人に設定されている。同じ英語を喋るとはいえ、英国人とアメリカ人では受け止められ方には大きな違いがある。特に場所によっては、アメリカとイギリスとではほとんど180度近く異なる印象を与えるところもあるだろう。原作が書かれた時代と現代との差もある。


それが結果として今回の映像化にどういう影響をもたらしたかがポイントだ。特に、実際に世界中で名の知れたハリウッド俳優であるクルーニーが主人公を演じたことが、作品に決定的な印象を与えている。イングリッシュをアメリカンにしてしまったことに傲慢さを感じるか、あるいは新しい息吹きを与えることに成功したか。実はよくわからない。少なくともクルーニーではない無名に近い俳優が演じた方がよりリアルになったかなとは思うが、どうしても目立ってしまう親分肌のクルーニーがストイックに演じることで、作品に微妙なずれというか破綻めいたものが見え隠れして、実はその危なさもまた惹かれる。「マイレージ、マイライフ (Up in the Air)」みたいなイメージどんぴしゃりみたいな作品に出ると、今度はどうしてもこういう冒険をしたくなるんだろう。今回はクルーニー出演作では凝った絵作りや同様の緊密さ、危うさ等で似ているのは「ソラリス (Solaris)」か。そして同様にやはり魅力的な作品なのだ。








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