Talk to Her (Hable con Ella)

トーク・トゥ・ハー  (2003年1月)

こないだ、毎度のことながら夜中にTVをつけて横目で見ながら仕事をしていた。私は夜中にTVを点けている時はIFCかサンダンス・チャンネルのインディ系の映画専門チャンネルか、さもなければ音楽チャンネルとたいてい見るチャンネルが決まっている。その日もやはりサンダンスにチャンネルを合わせていた。そうすると、たまたまその日発表があったヨーロッパ映画賞の発表セレモニー中継を再放送していて、なんとなく見ていたら、ペドロ・アルモドヴァルの最新作「トーク・トゥ・ハー」が、作品賞、監督賞、脚本賞と、主要な部門を総なめにしている。


まだ歴史の浅いヨーロッパ映画賞は、カンヌとベルリン、ベネチアの3大映画祭以外の外国の映画賞はあまり大々的に報道されることもないアメリカにおいて、ほとんど知られていない。一般人では、こういう映画賞があることすら知らない者の方が多いだろう。アメリカ人にとってはアカデミー賞という世界最大の映画賞があるだけでなく、年末から年明けにかけ、ゴールデン・グローブ賞を含め各種の批評家賞が目白押しで、他国の映画賞までは目が向かないということもあろう。


とはいえ、こういうセレモニー中継は、滅多に輸入されないヨーロッパ映画の傾向を知りたい者にとっては重宝することも事実だ。 カンヌでホストを担当していたシャーロット・ランプリングを見て、衝動的に彼女が主演している「まぼろし」を見に行って、ついでにフランソワ・オゾンという名を発見するというような楽しみ方もできる。てなわけで、「トーク・トゥ・ハー」はいきなり私の頭の中にインプットされることになったのだった。


看護士のベニーノ (ハヴィア・カマラ) は事故で昏睡状態に陥ったアリシア (レオノア・ワトリング) を看病して既に数年経つ。実はベニーノは以前からダンス教習所に通うアリシアに恋い焦がれていたため、アリシアと四六時中一緒にいられる今の状態は、ベニーノにとって願ってもない状態だった。一方、旅行記者のマルコ (ダリオ・グランディネッティ) は女性闘牛士のリディア (ロザリオ・フローレス ) と恋仲になるが、彼女は闘牛に突き倒され、昏睡状態となり、ベニーノのいる病院で治療を受けることになる。ベニーノとマルコは二人の昏睡状態の女性を通じて親しくなり、ベニーノはマルコに、たとえ昏睡状態でいようと、彼女に話しかけることが大切だと説くのだが‥‥


アルモドヴァルは「オール・アバウト・マイ・マザー」では、彼の持つエキセントリックな部分に、こなれてきた話巧者ぶりや日常性がうまい具合に融合され、それまでのマニア受けする作風から脱皮して新しいファン層を開拓するのに成功した。「トーク・トゥ・ハー」は、さらにそういう部分が進化したと言えるかもしれない。もちろん、アルモドヴァル特有のひねくれたユーモアとか尋常じゃないセクシャリティ、尽きないロマンティシズムは健在であり、題材も多分にセンセーショナルなものを含んでいるのだが、その見せ方が以前ほど人を選ぶような極端なものではなくなったような気がする。とはいえいまだにその内容は過激といえば過激なのだが、もっと万人に訴えかけることのできる、普遍的な語り口に到達しつつあるように見える。それとも私がアルモドヴァル・タッチに慣れただけなのか。


アルモドヴァルの作品では、常に観客は各々の倫理観やモラルに再対峙することを迫られる。彼の作品を見ていると、我々が拠って立っている常識や正邪の観念が、実に頼りない、実質のないものであるかということを痛感させられる。「トーク・トゥ・ハー」では、マルコがどちらかというと常識的、ベニーノが非常識な行動をとるのだが、だからどうだというのだ。結局常識的、非常識的であることはどちらも現世での幸せを約束するわけではない。ただ、常識を守らなければ、他人に迷惑をかけることがあるかもしれない。しかし、それでも一線を超えようとする人間に、どこまで他の人間が口出しするできるというのか。


ベニーノはほとんどストーカーとなってアリシアに激しい思慕の情を寄せるのだが、ベニーノの視点から見ればこれは純愛であって、実際、彼の部分の話は、話に引き込まれると泣けてくるくらいだ。 ただし、それでもごく一般的な視点、つまりは常識から見るとやはり犯罪であって、許さるべきことではないだろう。 実は、私はまったく常識的な人間であり、マルコに肩入れしても、ベニーノのような行動をとることは金輪際ないだろうなと思う。しかし、それを語り口と信念によって観客を納得させ、昇華させてしまうところがアルモドヴァルの監督しての力量であると言える。そしてそれはほとんど成功しているのだ。


しかし、だいぶ語り口がうまくなってきたとはいえ、それでもだいぶ話の展開の上での都合のいい偶然が何度も起こったり、作為が見え隠れしたりする。それもまたアルモドヴァルらしいといえばそれまでだが、マルコがリディアと知りあいになる時の蛇のエピソードや、ベニーノがアリシアに声をかける時に、初対面の男に家まで送らせるアリシアの態度などは、いくらなんでもそれはあるまいと思わせるが、そういうものだろうか。私がアリシアなら、その場で徹底的に排斥するんだが。また、作品中でこれは要らないとか、よけいなものと感じられる部分もいまだに多く見受けられる。それがアルモドヴァル・タッチを作っている要素の一部であることもわかりはするが、一度しか出てこないベニーノのアパートの大家とか刑務所の看守 (二人共やはり女性だ) とかは、ほとんど話に関係ないことを延々と喋ってたりするが、あれは、話にただもっと女性を入れたがったがためにしか見えなかった。


そういえば、「オール・アバウト・マイ・マザー」に出演していたセシリア・ロスとマリサ・パレデスが、作品の中の舞台を見に来る観客の中の一人としてカメオ出演しているそうだ。実はこの話、劇場に出かける前に知人から聞いていたのだが、上映中はすっかり忘れていて、まったく気づかなかった。それだけ話にのめり込んでいたからとも言える。主要登場人物以外の人間まで気にしている余裕がなかったのだ。


他には話の中に挿入される劇中劇の白黒のサイレント映画が傑作で、これには大笑いさせられた。アルモドヴァルの作品では、わりと捻ったユーモアで笑わされることが多いのだが、今回は特にこのサイレント映画の部分が笑いを受け持っており、結構大笑いさせられる。こういうマンガを昔読んだような気がしないでもないが、それを実際に作って撮ってしまうというのは、また別の次元の話である。


ところで「トーク・トゥ・ハー」で最も心癒されるというか、カルチャー・ショックを受けるのは、基本的に恋愛ドラマと言えるこの作品の主人公の男が、一方はオタク面の青年、もう一方がハゲの中年男であり、しかも中年男のマルコの方は、それでも花形女闘牛士からぞっこん惚れられてしまうという設定をいかにも当然という感じで設えているところにあったりする。アメリカ映画であっても、中年男やあまり冴えない男が恋愛映画の主人公になることがないわけではない。しかし、王道を外した外見の中年男がここまで正々堂々と主役を張るのは、はっきり言ってほとんどない。冴えない中年男といっても、アメリカ映画ではそれを演じるのはアル・パチーノだったりするのだ。


無論マルコ役のグランディネッティは、いい顔をしているとは思うのだが、やはりあの顔はハンサムというのとは違うだろう。ヨーロッパ映画の恋愛ものの主人公だって、癖のある役者だったりはするが、やはりハゲは滅多に見たことがない。と書いて、そういえば「ヴァンドーム広場」では主演のカトリーヌ・ドヌーヴが、ハゲの中年のおっさん相手に濡れ場を演じていたなと思い出した。実際、ヨーロッパの俳優にはハゲも多いからな。とはいえショーン・コネリーはかつらを被って007を演じていたじゃないか。でも、あれは007だから特別とも言える。うーん、ハゲと役柄との関係は‥‥ちょっと難しい。







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