Tár


ター  (2022年12月)

「ター」は、唯我独尊的な女性オーケストラ指揮者を描く話だ。私は最初、この映画を実話のドキュドラマ化だとばかり思っていた。つい最近、公共放送のPBSで、かつてアメリカの主要オーケストラの一つであるボルティモア・フィルで、初めて女性として音楽監督に就任したマリン・オルソップのドキュメンタリー「ザ・コンダクター (The Conductor)」を見たばかりだったので、てっきりこれはもうオルソップを題材とした話だとばかり思っていた。 

 

映画の主人公リディア・ターもオルソップもゲイで、パートナーと一緒に暮らし、子どもを養子にとっている。リディアのパートナーはオケのヴァイオリン奏者で、オルソップのパートナーはホルン奏者という違いはあるが、そういう微妙な差が、逆に映画は事実を元にしているという印象を与える。 

 

二人ともニューヨーク出身で、共にレナード・バーンスタインに師事している。映画で、二進も三進も行かなくなったリディアがマスコミから隠れるように実家に帰り、自分の部屋で、まだ幼い頃、バーンスタインから手ほどきを受けた時のヴィデオを見るシーンがある。「ザ・コンダクター」で、オルソップがバーンスタインに指揮者になりたいんだと相談したというエピソードがあったので、本当に、これはもう、オルソップを題材とした話だとしか思えない。 

 

そしたら、「ター」はフィクションだと監督のトッド・フィールドが言っているのをなんかの記事で読んだ。とはいえ、フィールドがオルソップを知らないわけがなく、オルソップが映画のインスピレイションになっていることは確かだろう。 

 

リディアは誰の目から見ても有能な指揮者であることは確かだが、自分の流儀を押し通すあまり、敵も多かった。同居する女性はいるが、自分の元教え子との関係は今では泥沼で、それなのに新しいチェロの子に関心が向かう。自分の娘が学校でいじめられていると聞くと、相手の小学生の女の子を捕まえて脅す。敵だと見做すと相手が目上だろうが目下だろうが関係なく挑みかかるのは、ある意味芯が通っていると言え、あっ晴れと言えなくもない。 

 

ニューヨーク出身のリディアはジュリアードでも指揮を教えていたが、考え方の異なる生徒に、ねちねちといたぶるように自分のやり方を押しつける。 

 

このシーンは、途中からおおっと思わせるのだが、10分程度の長回しだ。しかもそのほとんどをリディアに扮するブランシェットが喋り倒す。あまりにも喋りまくる上にテクニカル・タームの羅列が続くのでかなりの量を聴き漏らすのだが、それでも、教室の中を動きまくるブランシェットを追うカメラは非常にエキサイティングな上、ブランシェットの表情だけでも魅せる。いや、ブランシェットって本当にすごい。 

 

一方、自己中だからといってリディアがストレスに晒されていないわけではなく、まことか空耳かわからないメトロノームの音で深夜に目を覚ましたりもする。ベルリンのアパートの向かいの部屋には老婦が住んでいて、付き合いがいいわけでもない。 

 

リディアの部屋にはグランド・ピアノが置いてあるが、昔のアパート・ビルで、たぶん特に防音に優れているというわけでもないだろう。私の女房は歌好きで、昔プロで歌っていたこともあるルーマニア出身のオペラ・シンガーからレッスンを受けているのだが、マンハッタンのセントラル・パークを見下ろすその部屋は、一方で特に防音がいいわけでもなく、ある時レッスンを受けていたら、階下の青年がうるさくて寝られないと文句を言いに来たことがあったそうだ。たぶん夜の仕事のために日中寝る必要があったのだろう。年代もののアパートに住む音楽家の周りの住人が、すべて音楽好きというわけでもない。 

 

うまく行っている時はいいものの、いったん負のスパイラルに陥ると、リディアのような敵の多い者はほとんど逃げ場がない。スキャンダルに巻き込まれ、周りから味方が全員去っていってしまったリディアには、しかし、それでも残されたものは音楽しかなかった。 

 

とにかく、こういう半分狂気じみたような、それでも美しさを感じさせる役をやらせると、ブランシェットの右に出る者はいない。ブランシェット以外にこの役がやれそうな俳優というと、ティルダ・スウィントンならやれたかなと思わないではないが、しかしブランシェットの最大の魅力というか強みは、後半、窮地に陥った時の表情にあり、たかぴーで通した女性が脅えたりそれでも貫き通したりする脆さと強さの同居した表情の見せ方は、唯一無二だ。 

 

ところで、場所は特定されないが、東南アジアでも指揮をとるリディアが、ボートに乗って川を遡上するというシーンがある。リディアが冗談で泳ぐのにいいんじゃないかというと、現地の者が、ワニがいるからと言う。こんな奥地にワニがいるのと驚くリディアに、マーロン・ブランドの映画の撮影の時に逃げたという。 

 

これは、もしかして「地獄の黙示録 (Apocalypse Now)」のことか、あれって、ワニもいたっけ? それよりも、ここではブランドが扮したカーツ大佐と、同様に下々の前に君臨する傲岸なリディアの対比、というか連想は避けられない。カーツ同様に文明から逃げるか追われるかしたリディアは、東南アジアで、神かアニメかのコスプレに興じる尋常じゃない者たちに囲まれ、タクトを振る。「地獄の黙示録」だったか。 

 




 









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ニューヨーク生まれのリディア・ター (ケイト・ブランシェット) は女性として初のベルリン・フィルの首席指揮者に就任し、マーラーの公開録音を控え、自伝を出版するなど脂が乗っていた。ゲイでもあるリディアは私生活ではコンサート・マスターのシャロン (ニーナ・ホス) と一緒に暮らし、二人の間には娘のペトラがいた。一方、指揮者として自分のやり方を曲げないリディアは、ジュリアード音楽院で生徒の気持ちを無視して指揮を指導し、自身が代表を務めるオーケストラでも独断でチェロ奏者を採用し、副指揮者を解雇しようとするなど、独善的な素行が目立ち、彼女に反感を持つ者も多かった。パーソナル・アシスタントのフランチェスカ (ノエミ・メルラン) は耐えられなくなって、ある日リディアの前から姿を消す‥‥ 


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