Super 8


スーパーエイト  (2011年6月)

1979年夏。ジョー (ジョエル・コートニー) は友達のチャールズ (ライリー・グリフィス) らと共にスーパー8で映画を撮っていた。チャールズはアリス (エル・ファニング) をキャスティングして、夜、町外れの誰もいない駅で撮影を開始する。しかし列車が駅を通過する時、何者かのクルマが列車に突入してきて列車は脱線、大破し、チャールズらは危ういところで難を逃れる。その時、列車の積み荷のコンテナの内部で何ものかが暴れているのを目撃する。翌日から町は軍によって封鎖され、住民は避難を強要される。いったいコンテナの積み荷はなんだったのか‥‥


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スティーヴン・スピルバーグ製作、J. J. エイブラムス演出の「スーパー8」は、70年代の終わりのオハイオ州の小さな町を舞台にしたエイリアンSFものだ。もちろんここでキー・ワードは「スピルバーグ」と「70年代」で、つまり、これはエイリアンものといっても、近年流行りのアルマゲドン的地球壊滅SFではない。スピルバーグが同時代に製作した「E.T.」や「未知との遭遇 (Close Encounters of The Third Kind)」的な、人類/エイリアン共存的SFだ。


エイブラムスは、意外にもわりとシンプルでストレート・フォワードな作品も撮る。ABCの「エイリアス (Alias)」や「ロスト (Lost)」等を見ると、頭がこんぐらがっていったい何が何やらという感じになってしまうが、一昨年の「スター・トレック (Star Trek)」みたいな、ほとんど直球勝負の作品もある。今回の「スーパー8」も、それに近い。


というか、「スター・トレック」もリメイクということもあってややノスタルジックな味わいがあったが、今回はもろにそういう味わいを前面に押し出している。たぶん、近年流行りの地球滅亡SFに対するアンチ・テーゼというか、反動みたいなものという感じがする。今こそ人々はスピルバーグ的SFを必要としているのだ。


1979年というと、その時私は高校生で、「スーパー8」の主人公ジョーたちより3つ4つ年上だ。しかしティーンエイジャーの3つ4つ差というのは完全に違う世代に属すると言えるので一概に比較はできない。それでも、当時の私の世代、しかも片田舎では、8mm (ハチミリ) が趣味という大人はいないではなかったが、同世代で8mmを持って映画撮影の真似事ができるという裕福な趣味を持っている者はいなかった。


さらに「スーパー8」の場合、少年たちが使っているのは単なる8mmではない。カラーで音も入るスーパー8なのだ。当時私の住む世界では、ただの8mmですら高根の花だったのに、8mmとスーパー8の間には、さらに厳然たる一線が引かれていた。8mmが趣味とすると、スーパー8はセミ・プロ、みたいな印象があった。


つまり、「スーパー8」を見て最初に感じたのは、そういうノスタルジックな雰囲気と共に、何の職も持たない当時のアメリカの少年が、現像代やフィルム代をひねり出すのに多少困っていただろうとはいえ、それでもスーパー8を使って映画撮影の真似事ができるという、彼我の生活基盤の差なのだった。彼らの生活や部屋を見ていると、どう見ても私の高校時代の時より裕福という印象を受ける。


もっとも、ジョエルの母は家計を支えるためにたぶんパートに出てそこで事故に巻き込まれて死亡してしまうし、母が死んだ後は父が再婚もせずに一人でマーシャルの仕事をしながらジョエルを育てている。特に裕福というわけはないのだが、それでも、決して安くはないと思える映画撮影に必要なメイキャップのキットを揃えて持っているし、フィギュアの数だって結構なものだ。


映画を撮ってない時は新聞配達やマクドナルドでバイトしてせっせと金を貯めてたのかもしれないが、いずれにしても登場人物にはそれぞれ余裕が感じられる。誰もせかせかして生きている者はいない。一瞬驚くとはいえ、アリスがいきなりクルマを運転してきても、すぐさま皆それを受け入れる。人々に、国に、時代に余裕がある。むろん、だからこそノスタルジーを感じるのだろう。


登場人物では、ジョーに扮するジョエル・コートニーは文句なしのはまり役。狂言回しのデブのチャールズに扮するライリー・グリフィスも、紋切型とはいえ適役。ダコタ・ファニングの妹エルがこんなに大きくなっているのにも驚いた。「バベル (Babel)」で砂漠で脱水して死にそうになってアドリアーナ・バラザに抱かれているのを見たのはつい最近のような気がする。姉同様、演技派の血筋はちゃんと受け継がれている。


ジョーの父ジャクソンを演じるカイル・チャンドラーは、今シーズンで最終回を迎えるディレクTV/NBCのフットボール・ドラマ「フライデイ・ナイト・ライツ (Friday Night Lights)」で、常に怒っているコーチ役が定着したのをここでも引きずっている。昔からそんなに顔が変わっている気もしないのに、CBSの「アーリー・エディション (Early Edition)」の時の好青年が、なんでこんなに気難しい奴になっちまったのか。


たぶん、どういう意思を持って地球にやってきているのかわからないエイリアンに対し、少年たちが余裕や善意を持って対処できる時代というのが、この辺りまでなんだろうという気がする。これ以上時代が下ってしまうと、エイリアンはだいたい地球を侵略しにきているので、助けてあげるなぞもってのほか、愚の骨頂ということになって、登場人物がバカみたいに見えてしまう。純粋で無垢な少年たちがエイリアンとコミュニケートできる最後の時代が、1980年前後なのだ。


とはいっても、それでも近年の意志疎通必要なしの侵略型エイリアン跋扈の影響は無視できない。ここで登場するエイリアンは、一時的に人類に捕獲され、力を抑えられているとはいうものの、町一つ消し去るくらいの力は持っているし、人々をさらってきて何かに利用しようとしている。これはやはりどちらかというと、スピルバーグの「E.T.」のような無垢のエイリアンではなく、エイブラムスの「クローバーフィールド (Cloverfield)」の侵略エイリアンに近いと言える。


また、スピルバーグだって、近年撮った「宇宙戦争 (War of the Worlds)」では、エイリアンは地球に侵略するタイプだったし、TVでも「テイクン (Taken)」みたいなのがあったし、先頃TNTが放送を開始したエイリアンSF「フォーリング・スカイズ (Falling Skies)」では、スピルバーグらしからぬというか、現れるエイリアンは有無を言わさず人類に攻撃を仕掛け、地球征服を企んでいる。人類はエイリアンとの共存ではなく、生きのびるための戦いを強いられるのだ。スピルバーグですらエイリアンを敵視し始めた今、人類がエイリアンと共存する未来の可能性は加速度的に小さくなっている。









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