Stefan Zweig: Farewell to Europe


シュテファン・ツヴァイク: フェアウェル・トゥ・ヨーロッパ  (2017年5月)

私は週末、日中に上映している映画を観る場合が多い。こっちの予定や行動パターンに最も都合よく、だいたいマチネーの割引料金で観れ、しかも空いている。まったく文句ないのだが、時に空いているというよりも、ガラガラのほとんど人のいない状態の時があり、そういう時はさすがにちょっと寂しいかなと思う。やはり作り手としては人に見てもらいたいだろう。


実は先週観た「バスターズ・マル・ハート (Buster's Mal Heart)」もそうだった。観客は斜め前方に座っている若い男性と私の二人きりで、思わずニューヨーク圏800万市民の中のたった二人かと思った。


そしたら、今回は二人どころか、観客は私一人だけだった。最初から最後まで私だけ、私より先に座ってた者もなければ、私より後に入ってきた者もなく、一人ぽっちで貸し切り状態で映画を観た。上映が終わってドアを開けてロビーに出ようとすると、すぐ外で掃除のお兄ちゃんが所在無げに立っていた。映画を観ている間に地上から人類が消滅したという事態は免れたようで、ほっとした。


とはいえ映画の主人公であるシュテファン・ツヴァイクを、私もほとんど知っていたわけではない。作家でマリー・アントワネットやメアリ・スチュアートらの偉人の伝記で知られており、晩年はブラジルで暮らして自殺した、くらいのことを知っていただけで、著作を読んだことはない。でも「人類の星の時間」なんて、タイトルだけでそそられる本もあり、いつかは読んでみたいとは思っていた。


映画はヨーロッパに戦争の暗雲が広がるナチが台頭してきた1936年から、ツヴァイクが自殺した1942年までを辿る。既にオーストリアからは亡命して自宅はなくなっていただろうとはいえ、その時住んでいた英国が描かれることはなく、南北アメリカを何度も訪れるツヴァイクをとらえる。


国を追われたとはいえ、希望を捨てていたわけではなかったツヴァイクは、海外メディアからのインタヴュウにも、ナチや祖国を悪く言うことはない。しかしそれは人としてどうなのかと訝る記者の一人は、トイレの中までツヴァイクを追いかけて真意をはかろうとする。


こないだ横山秀夫の「64」を読んでいて、上役の意向を質すために広報課の主人公がトイレの個室にこもってひたすら目的の人物が現れるのを待つという描写があったが、映画でもツヴァイクの言動に納得の行かないジャーナリストの一人が、トイレの中にまでツヴァイクを追いかけるというシーンがあった。もしドナルド・トランプがシークレット・サーヴィス抜きでトイレに行くような機会があったら、たぶんすべてのジャーナリストはチャンスと見て追いかけるんだろうなと思った。


映画はブラジルでのツヴァイクの歓迎レセプションで始まり、自殺したツヴァイクの部屋をとらえるシーンで終わるが、冒頭と最後のこの二つのシーンが、長回しでとらえられている。両方とも5分くらいにおよぶ長回しで、しかもそれだけでなく、両方ともカメラはフィックスのままでほとんど動かない。微妙なパンやチルトがあるだけで、近年長回しでここまでカメラが動かなかった映画は、とんと思い出せない。


前者ではそのレセプションの会場にツヴァイクが現れるまで給仕たちが主としてとらえられ、ツヴァイク本人が登場するのはショットの終わりの方で、しかも最初は誰が誰だかわからない。後者は今度は自殺したツヴァイクがベッドの上で横たわっているのが開閉するドアの鏡に一瞬映るだけで、これまたツヴァイク本人を目にする機会はほとんどない。それよりもドアが開いて鏡に映る鏡像がどんどん動いている時、その鏡をとらえているカメラが鏡の中に映るはずと思っていたが、それもない。CGで消したのか、それとも私のカン違いかなんかか。長回しは演じる者、演出する者、観る者すべてに緊張を強制するが、カメラがほとんど動かないため、そのテンションも実は微妙に高くはない。最後のショットなんて主人公が死んでいるせいか、わりと脱力の印象すらある。


ツヴァイクは自殺であり、遺体が発見された際、傍らにあったという遺書も読み上げられる。それを聞くと、ツヴァイクは、ナチの台頭等によって絶望したからという悲観的な理由ではなく、そういう世界から新たなる一歩を踏み出すために、積極的に自殺したという、むしろ前向きな印象を受ける。私は死ぬが、それで終わりではない、これは新しい旅立ちなのだ、みたいな、熟慮の末の選択肢の一つを選んだだけだ、悲しむには当たらないという、そういう感じだ。不治の病に侵された者が尊厳死するという選択があるが、それに近い、いや、それよりももっと前向き、死んだらまたそこで執筆を続けるだけ、みたいな意志の力が感じられる。


考えたら文豪の自殺というのは、川端康成とか三島由紀夫とか、絶望の末に自殺したというよりも、未知の世界にジャンプした、という印象の方が強かったりする。この世で考えるべきことは考えた、後は次の世で、みたいな印象だ。たとえこの世に絶望していようとも、そこまでに至った道程に強い思考の力強い筋道があるため、死んだという事実に対して衝撃を受けはするが、それは悲しいというのとはちょっと違う。厭世的だったという太宰治とか芥川龍之介の自殺ですら、ある程度そういう印象はある。要するに希望というのは姿を変えた絶望のことか。いずれにしても思考は力だと思うのだった。


ちょっと思うところあったので、さすがにこの機を逃したらもう一生読まないかもと思ったので、アマゾンで死の直前の作品「チェスの話 (Chess Story)」を手に入れて読んでみた。単純に面白い話で、なるほどチェス・プレイヤーって、「ボビー・フィッシャーを探して (Searching for Bobby Fischer)」とか「愛のエチュード (The Luzhin Defence)」もそうだが癖あるよなと思っていたら、そのチャンピオンと素人との船上での勝負になり、その素人軍団に強力な助っ人が現れるところから、話が大きく展開する。この助っ人が、まさに思考することの力強さと危うさを体現しているのだ。チェスなんて駒の並べ方すら知らないのに、手に汗握らされる。ツヴァイクって、こんなに面白い話を書いて、そのすぐ後に自殺したのか。









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1936年、既に名を成していた作家のシュテファン・ツヴァイク (ジョゼフ・ヘイダー) は、招かれてブラジルに到着する。ブエノスアイレスで行われた作家の会合では南北アメリカのジャーナリストも挙って参加して、ツヴァイクの意見を聞こうとしていた。ナチの台頭によって戦争は不可避のものとなりつつあり、オーストリア出身のユダヤ人作家であるツヴァイク自身も危険を察知して英国に亡命していたが、まだ母国や人間への信頼を捨てたわけではなかった。ツヴァイクはその後も真夏のブラジル、極寒のニューヨーク等を転々としながら、最終的にブラジルに定住する家を見つける‥‥


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