放送局: PBS

プレミア放送日: 1/9/2002 (Wed) 21:00-22:00

製作: アロンソン・フィルム・アソシエイツ、

製作: ロジャー・ワイズバーグ

監督: ジョシュ・アロンソン


内容: 聾唖者のために生まれた最新技術、コクリア・インプラントが起こす波紋をとらえるドキュメンタリー。


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「音のない世界で」を放送したPBSはPublic Broadcasting Systemの略で、公共放送のことだ。日本のNHK教育のようなものと考えてもらえれば、まあ間違いないだろう。NHKと違って受信料は払わなくてもいいが。ケーブルTVと契約していなくても見れる地上波としては、唯一番組中にコマーシャルの挟まらないチャンネルであり、ケーブル・チャンネルのディスカヴァリーやヒストリー・チャンネルを別にすれば、最も多くドキュメンタリーを編成しているチャンネルでもある。そのPBSが今回放送した「音のない世界で」は、昨年のアカデミー賞のドキュメンタリー部門にもノミネートされている。


世の中には聾唖者がおり、彼らの助けとなる補聴器も多種製作されている。しかしこの番組のテーマとして取り上げられているコクリア・インプラントほど物議を醸した補聴器はない。ただの補聴器ではなく、大がかりな手術によって頭蓋の中の聴神経を司る部分に、電気的に音声信号を補強する小さな人工内耳を埋め込むのだ。そういうとしかつめ顔をする人の顔が目に浮かぶようだが、考えればペイスメイカーだって心臓に人工物を埋め込むわけだし、それで聾唖が解決するなら、別にそれでいいのではないかとも思う。ペイスメイカーと違って、手術が必ずしも成功しなくても、命にかかわるようなことはないだろう。


それがここまで問題となるのは、聾唖という問題と切り離せない不可欠な難問が付随しているからだ。誰もが経験から知っているように、語学の習得は幼ければ幼いほど早い。まだ固まっていない、柔らかな頭脳が必要なのだ。大人になってから新しい言語を習得しようとしても、簡単にはいかない。聾唖者だってそうだ。コクリア・インプラントの埋め込みも、幼ければ幼いほどよい。二十歳になってインプラントを埋め込んでも、ほとんど効果はないのだ。そのため、聾唖の子を持つ親は、まだ物心もつかない子供にこの手術を施す。番組で出てきた手術を受ける子は、まだ2歳半だ。


聾唖者の夫婦、ピーターとニタにはまだ幼いヘザーという女の子がいる。彼女も聾唖だ。ピーターの両親は聾唖ではなく、彼らの影響を受けたヘザーは、私もコクリア・インプラント手術を受けて話せるようになりたいと訴える。ニタですら、それで聞こえ、喋れるようになるのなら私だってやってみたいと興味を示すが、大がかりな手術と、たとえ手術を受けてもそれだけで聞こえるようになるわけではなく、その後に話せるようになるための徹底した事後教育が必要であること、既に成人したニタがそれらを習得する見込みはあまりないこと、さらに、一生バッテリーやトランスミッタ等の必要機器を身体から肌身離さず身につけていなければならず、それらの助けなしでは、たとえ頭蓋にインプラントが埋め込まれていても役に立たないことなどを知って、断念する。


それでも、他の子たちと自由に遊んでみたいという気持ちが捨てられないヘザーは、まだ希望を捨てない。しかし、手術を受けた子たちを訪れたヘザーは、その子たちが手話を解さず、普通の子同様に振る舞っているために仲間に溶け込めず、疎外感を味わう。そういう時、聾唖者のための設備が全米で最も整っているメリーランド州を訪れたピーターとニタは、スーパーマーケットで店員と手話でコミュニケーションがとれることに感激し、すぐに移住を決心する。そこの学校では、ヘザーも手話だけですぐに友達ができ、それ以来、彼女はコクリア・インプラントのことを口にしなくなる。


一方、クリス (ピーターの弟である) とマリは共に聾唖ではないが、2歳半になる息子のピーターは耳が聞こえない。聴覚を使わず、喋る訓練をしないで育つ聾唖者は、ある種の脳神経を使わないために、脳が未発達のまま成長する可能性が高い。聾唖ではないクリスとマリは、息子が聾唖のまま大きくなることの試練を考え、何とかこの子に人生のチャンスを100%与えてあげたいと思い、手術を受けさせる決心をする。手術後、最初のテストで今まで音に対して反応しなかったピーターが音のする方向に振り向いた時、思わずマリの目から涙がこぼれる。


結局、ピーターとニタの夫婦、クリスとマリの夫婦は、共に子供たちにとってそれがベストと思われる別々の選択をするのだが、それが最良の選択だったかどうかは誰にもわからない。一応現時点では両者とも自分らの選択に満足しているが、果たして10年後、20年後にもそう思っているかという質問には、誰も答えられない。面白いのはピーターとニタをはじめ、親が聾唖でない場合、子に手術を受けさせる例が圧倒的に多く、親が聾唖の場合は、そうでない方が多いという事実だろう。健常者の親が聾唖の子を生んだ場合、その子の人生のこれからの障害や苦労を考えて、何とか話せるようにしてやりたいと考える。そのためなら手術やその後の訓練や一生機器を装着していかなければならない煩雑さなど、些細な問題でしかない。


ところが聾唖の親の元に生まれてきた聾唖の子に対しては、親はそういう手術を子に受けさせたがらない。彼ら自身、聾唖であろうともこれまで自分の人生を生きてきた自負と経験があるし、手術やその他もろもろのリハビリなどなしでも素晴らしい人生が送れることを自ら実証している。もちろん聾唖というのはハンディキャップであり、クリスは勤めてはいるが、自分が企業のトップに上りつめることはないだろうというのは自覚している。しかし、彼には聾唖者のカルチャーやアイデンティティを捨ててまで、子に手術を受けさせる気は毛頭ない。また、手術を受けさせたことによって、自分の子が自分たちの知らないまったく別の世界に行ってしまうことに対する本能的な恐怖もあるだろう。手塩にかけて育ててきたつもりなのに、もしかしたらある日、その子が自分とまったく違う世界に住んでいることを発見することになるかも知れない。そうなった時に、自分は耐えられるか。


クリスとピーターの両親は、共に健常者である。そのため、聾唖の子を育てる苦労を知っており、手術を受けさせることを薦める。しかしピーターは、なぜそんなことをしてまで聞き、喋ることが重要であるかが納得できない。ピーターとニタにとって、コクリア・インプラントは害あって利なきものに見える。なぜそこまでする必要があるんだ。我々はそんなものがなくても生きていける。我々はハンディキャップは持っているかも知れないが、それでも他の人々と基本的に何も変わるところはない。それなのになぜある種の人々は哀れむような目で我々を見るんだ。


結局、提出される疑問のほとんどに解答は出ないまま、番組は終わる。実際、それらの疑問に100%自信をもって答えられる人間はいないだろう。二組の親の判断が正しかったどうかは、将来、成長した子供たちが自分で判断するしかなく、そしてその答えも、数年、数十年後にはまた違うものになるかもしれない。そして何度もあの時手術を受けていたら、あるいは受けていなければという、答えのでない「もし」に悩まされて悶々とすることになるかもしれない。しかし時計は元に戻らない。願わくは彼らが後悔だけはしない人生を送れるようにと祈るのみだ。








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Sound and Fury

音のない世界で   ★★★1/2

 
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