アメリカの数ある勝ち抜きシンギング・コンテストを見ていていつも思うことは、次から次へと現れる才能の層の厚さだ。なんでこのレヴェルで既にプロじゃないの、という人材が在野にごろごろいる。これらの層の上に君臨するトップ・シンガーたちは、やはり運も才能も抜きん出ているんだなと思わざるを得ない。
そのことは、それらのタレントに曲を提供する作曲家やプロデューサーにも当てはまる。下手な曲を作っても日の目は見ないだろうし、下手なアレンジなんかしたりしたら干されるだけだろう。生半可な才能では生きていけない世界だ。
その、シンガー・ソング・ライターの勝ち抜きコンペティションが、「ソングランド」だ。自分で歌う歌ではなく、著名シンガーに歌ってもらう曲を、勝ち抜きで決める。毎回4人のシンガー・ソング・ライターが登場し、自作を歌い、プロのゲスト・シンガーが最終的にその中から自分が歌う曲を選ぶ。
因みに毎回プロのゲスト・シンガーは異なり、番組第1回のゲスト・シンガーは、ジョン・レジェンドだ。レジェンドって、自分で曲作っているものだとばかり思っていたが、人の曲も歌うんだ。いずれにしても、自分の曲をレジェンドがシングル・カットするというのは、シンガー・ソング・ライターにとっては、それだけで夢のような話だろう。こういう番組に登場する機会がなかったら、金輪際あり得ないチャンスに違いない。
最初登場した4人は、プロデューサー/ホストの3人と、レジェンドの前で自作を披露する。この中から一人落とされ、残った3人にそれぞれ一人ずつプロデューサー/ホストがメンターとしてつきっきりで歌に手を入れ、磨き上げる。できた歌を再度レジェンドの前で歌い、彼が最終的に自分が歌う曲を選ぶ。
まず、最初に登場して歌う時から、私の耳には既に完成した曲に聞こえる。英語の歌詞の善し悪しはともかく、結構誰もがキャッチーなメロディ・ラインで、それだけでヒットしそうだ。それにゲスト・シンガーとプロデューサー/ホストの面々がコメントし、その場で手を入れる。
すると、それだけでかなり曲が変わるのだ。これには感心する。既に結構いい曲じゃないの、これ、と思われた曲が、さらによくなる。今風なリズム、メロディ、アレンジになるのだ。ここはこんな感じにした方がいいんじゃないの、ここのリズムは、ここはハモって、ここの歌詞は‥‥と、目の前で、わずか数分でがらりと印象が変わる。プロデューサー/ホストが曲に手を入れ、ちょっと彼らの間だけでハモってみせる。歌詞カードのようなものは事前に渡されて手に持っているようだが、現実に曲を聴いて感想を言ったり実際に手を入れるのはその場でが初めてだと思う。しかし上手にハモる。先に歌い出した者が主旋律を歌い、次に誰かが3度で被せる、みたいなことをその場でしてみせる。本当に感心する。皆、プロだ。
番組は、毎回プロのゲストが変わる。第1回はレジェンド、第2回はウィル・アイ・アム、第3回はケルシー・バレリーニ、第4回ジョナス・ブラザーズ、第5回メーガン・トレイナー、第6回アロー・ブラック、第7回マックルモア、第8回オールド・ドミニオン、第9回レオナ・ルイス、第10回チャーリー・プース、そして第1シーズンの最終第11回は、番組ホストの一人でもあるライアン・テッダーが今度はゲスト・シンガーとして、彼がリード・シンガーを務めるワン・リパブリックが歌う曲を選出する。第3回に登場するカントリー・シンガーのバレリーニだけは知らなかったが、あとは堂々たる第一線で活躍するシンガーたちだ。しかし、これらのことが、ある種、問題を提供してもいる。
つまり、番組としては登場するシンガー・ソング・ライターの曲の善し悪しを選別するのではなく、歌ってもらうプロのシンガーを念頭に曲を選び、手を入れる。そのため、曲によっては、私見では、確かに手を入れてキャッチーで今風になったかもしれないが、それでも私は手を入れる前の方が、曲としてはよかったと思う、というのがいくつかあった。手を入れ過ぎて、これでは原曲とはまったく別ものだ。
それでも登場するシンガー・ソング・ライターたちは一見プロの意見を聞けて実作の場にいられ、喜んでいるように見えたが、しかし、内心ではどうだかと思う。シンガー・ソング・ライターが、自分の曲ではないと思えるくらい変わってしまった曲を、自分の曲として提供する意味はあるのだろうか。自分で自分の曲を歌うシンガー・ソング・ライターが、それくらいのプライドやエゴを持ってないわけがないと思うのだが。いずれにしても、やはり、アメリカの音楽の裾野は広大だと思わざるを得ないのだった。