Silence


沈黙 -サイレンス-  (2017年1月)

「サイレンス (Silence)」、つまり遠藤周作の「沈黙」というと、我々の世代では中学(高校だったかもしれない)の国語の教科書で覚えている。神は人間の問いかけに答えることはなく、ただ沈黙するのみという「沈黙」は、その内容、ストーリー、含意もそうだが、それまでの展開をざっと拾っただけで小説のクライマックスの抜粋を教科書に載せてしまうという、そのことでも記憶に残った。 

 

要するにそれまでの経緯を知らずにいきなり核心に入る、あるいはネタをばらされるみたいな印象を受けた。私は本格ミステリ好きで、そういうネタばらし的なことをやられると、興味が半減してしまう。むろん「沈黙」はミステリではないが、それでも神が人の問いに答えるかどうかが興味の核心である時、神は答えなかった、沈黙を通したという結果を先に知ってしまうと、それ以前の展開に対する興味が減じてしまうのはいかんともし難い。 

 

国語の授業の教科書では、夏目漱石の「こころ」でも同様の印象を受けた。友人が下宿先の娘に恋心を抱いていることを知りながら、その友人を差し置いて娘の母に娘を嫁に下さいと言って結婚の約束を先にとりつけ、結果として友人を自殺に追い込んでしまったという「先生」の過去が明らかになる。これまたクライマックスの抜粋を先に読んでしまったことで、それで小説を全部読もうというよりも、もうこれでいいやとなってしまった。 

 

そういう理由で覚えている小説というのは、これはもうカンニングしたような気分で、かなり負い目がある。古文を読むのとは違うのだ。というわけで「沈黙」と「こころ」は、今でもなんか手にとれない。書店や古本屋でたまに見かけるようなことがあると、思わず目をそらす。遠藤先生ごめんなさい、漱石、また今度、と心の中で呟いてお茶を濁す。 

 

その「沈黙」が、ハリウッドで映画化された。しかもマーティン・スコセッシ演出で。これはさすがに見逃すわけにはいかんだろう。おかげで原作を読み通すより先に、映像化したものを見ることになってしまった。たぶんこの先も後ろめたい思いをしながらも原作に手を出すことはなかろうと思うから、今これ見なかったら後がない。 

 

これまで深く考えたことはなかったが、九州、長崎におけるキリスト教の普及と対する迫害は、世界の歴史的に見ても異色と言えるんじゃないだろうか。世界歴史とは宗教戦争の歴史と言っていいくらいのものだから、特定の宗教に対する弾圧や迫害というのは、いつの時代のどんな場所にでもあった。 

 

しかし17世紀長崎におけるキリスト教の弾圧、隠れキリシタンという存在や彼らを見極めるための踏み絵という仕組み、そのイコンを隠す方法など、当時の長崎以外にはなかったのではないかというものがいくつもある。見えないところに、あるいは見えているものの中に判じ絵として十字架を紛れ込ませるというのは、どちらかというと「ダ・ヴィンチ・コード (The Da Vinci Code)」でトム・ハンクスが解き明かそうとしている謎みたいで、こう言っちゃなんだがミステリ心を煽る。 

 

それにしても、白土三平の「カムイ伝」でも当時のキリスト教の迫害は酷かったというのを読んではいたが、映画の冒頭の温泉熱湯がけや波打ち際の磔刑を見ると、残酷で痛々しくて、目をそむけざるを得ない。ちょん髷というよくわからないものを頭にのっけて世にも残酷な仕打ちを平気でするのを外国人の目から見たら、日本人ってすごく残酷な民族と思うのは避けられまい。世の中の宗教弾圧の歴史は残酷なものだらけだが、日本人も負けちゃいなかった。 

 

その残忍非道な令をにこにこしながら下す井上筑後守に扮するイッセー尾形がまた嫌味たらたらで憎らしくて、こう言っちゃなんだがいい味出している。 

 

と、私は感じていたが、日本にいる私の知人は私とまったく逆のとらえ方をしていた。私はイッセー尾形はとてもいいが、キチジローに扮している窪塚洋介は場を乱してあまり感心しないというようなことを言ったら、知人は、キチジローはユダだからはみ出して当然、それよりもイッセー尾形を何、あれと罵倒していた。 

 

なるほど色んな見方があり、どれもそこそこスコセッシの狙い通りなんだろう。ただしスコセッシの場合、真面目に宗教問題を撮ってしまうので、ちょっと観客に距離感を与えてしまうのは事実。数十年前にもそれで「最後の誘惑 (The Last Temptation of Christ)」を撮って、結構批評家からくさされた。 

 

今回は批評されるというより無視されたという感じに近いのは、作品のできではなく、そういう入れ込み過ぎがやはり見る者に距離感を与えてしまうからではないだろうか。特にユダヤ人が仕切り、中近東やチャイナ・マネーが流入し、人種の入り乱れるハリウッドで真面目にイエス・キリストのことを考えても、あまり注目されずに浮いてしまったという印象を受ける。もうちょっと誰かがなんか発言し、もうちょっと何かの反応があってもいいような気もするが、どうもこの映画、映画好きと日本人の枠を超えて人の注意を惹くまでには至らなかったようだ。 

 

主演のアンドリュウ・ガーフィールドは、「サイレンス」ではなく、かつてハリウッドで干されていたメル・ギブソンの「ハクソー・リッジ (Hacksaw Ridge)」でアカデミー賞の主演男優賞にノミネートされている。「ハクソー・リッジ」での役は、戦争で出征しても信仰上の理由から戦闘に参加して敵を殺すことはしないという軍人で、衛生兵といえども、当然仲間からは相手にしてもらえない。その主人公が、戦場で自分の命をかけて負傷した仲間を自陣に連れて帰るのだ。ある意味「サイレンス」のロドリゴと同じ人種だ。 

 

というトレイラーを見せられただけでの私の理解は間違ってないよなと「ハクソー・リッジ」情報をチェックして、これが第二次大戦の沖縄を舞台にしているということを初めて知った。ギブソンの監督だし、またヨーロッパかどこかでオーストラリアが参戦した戦争ドラマだろうと思っていた。予告編ではあれが沖縄という感じはまったくしなかった。相手も日本兵だったっけ?  

 

いずれにしてもこれでガーフィールドは時代は違えども日本南部に二度赴き、ある時は神の言葉で人々を教え導き、ある時は米兵だろうと日本兵だろうと戦闘で負傷した者たちを救出する。これは日本人はガーフィールドに足を向けて寝れない。しかしスパイダー-マンとカイロ・レンがいながら救えなかった鎖国時代の日本って、ある意味すごい。因みにこないだガーフィールドがCBSの「ザ・レイト・ショウ (The Late Show)」に出ていたが、本人はガンジーに大きな影響を受けているそうだ。 

 

それにしても「ハクソー・リッジ」なんていうタイトルじゃなく、「前田高地」にしてくれていれば、「パッセンジャー (Passengers)」じゃなくて、こっちを優先したのに。浦添の前田の高台のことだろ? よおく知っている。なんで基地にも近くないあの辺にぽつねんと米国総領事館があるのかも今やっとわかった。そういう激戦地の近くだったからか。


近くの嘉数高台の展望台は、ちゃちいが景色がよく見渡せる、観光客にはほとんど知られてない穴場だ。しかしあの辺は予告編で描かれていたような岩地の崖ではなく、鬱蒼と木の茂る森の急斜面だ。スクリーンに映る景色が亜熱帯じゃないから、これが沖縄だとはまったく気づかない。日本公開の節のタイトルは、切に「前田高地」を推す。


しかし「サイレンス」同様、大衆にはアピールしなかった「ハクソー・リッジ」の公開は、今では既に終わっている。これで今年に入ってアン・リーの「ビリー・リンの永遠の一日 (Billy Lynn's Long Halftime Walk)」に続いて、これはと思った映画を連続で見逃している。今年の映画観賞がなんか思いやられる。 










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17世紀マカオ。イエズス会宣教師のフェレイラ神父 (リーアム・ニーソン) が日本の長崎に布教に行って、弾圧され信仰を捨てたという知らせが届く。いったい何が起こったのか、フェレイラの弟子だったロドリゴ神父 (アンドリュウ・ガーフィールド) とガルペ神父 (アダム・ドライヴァー) はバリグナノ神父 (キアラン・ハインズ) に許しを乞い、事実を確認するために自分たちも日本に向け旅立つ。二人は長崎出身で事情に詳しいキチジロー (窪塚洋介) の案内で、なんとか平戸に到着する。そこでは厳しい迫害にも耐え、アンダーグラウンドでキリスト教を信仰する人々がいた。ロドリゴとガルペも廃屋で姿を隠しながら人々を教え導こうとするが、その我慢と忍耐も限界に近かった‥‥


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