Shutter Island


シャッター・アイランド  (2010年2月)

1954年。ボストン郊外の孤島シャッター・アイランドに建てられているアッシュクリフ精神病院に、テディ (レオナルド・ディカプリオ) とチャック (マーク・ラファロ) の二人のマーシャルが派遣されてくる。病院から患者が一人行方不明となり、その消息がしれないのだ。捜査を開始する二人だったが、コウリー院長 (ベン・キングズリー) をはじめ、病院で働く者は二人に特に好意的というわけではなく、敵意をむき出しにする者もいた。テディは病室で、患者が残したと思われるメモを発見する。院長はたぶんに道徳的にすれすれの新しい療法を試しており、何かを隠しているのは明白だった‥‥


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ピーター・ジャクソンの新作「ラブリーボーン (The Lovely Bones)」の評がよくない。公開直前まではわりと期待されていたと思うんだが、公開された途端ネガティヴな評ばかりが席巻してしまった。印象としては、「ザ・ロード・オブ・ザ・リングス (The Lord of the Rings)」と同じレヴェルの作品を期待していたら肩透かしを食わされた、というよりも、「ラブリーボーン」のできに関係なく、「ロード・オブ・ザ・リングス」を過大評価してしまったから、その次の作品がなんであろうと貶すことになっていた、と誰もが思っていたとしか思えないくらい、かなり貶されている。


しかし、私はまったく逆の印象を持っていた。マジック・リアリズム風の絵作りの予告編を見た時から、これは「乙女の祈り (Heavenly Creatures)」だ、これこそ私の見たかったジャクソンだ、と、公開を心待ちにしていた。しかし今は「ラブリーボーン」よりは「アバター (Avatar)」の方がプライオリティ高いかなと考え、その「アバター」を一緒に見ようとしていた女房の体調がよくなくて、「アバター」を見るのを先送りにしていた。


その「アバター」を見れたのがやっと先週のことで、それで今週やっと「ラブリーボーン」かと思っていたら、劇場の上映予定をいくら探しても「ラブリーボーン」がない。いつの間にか「ラブリーボーン」はひっそりとその公開を終えてしまっていた。批評家からも一般の映画ファンからも散々くさされていたからなあ。おまけに原作のファンからもそっぽを向かれては、興行的な成功は覚束ないだろう。


だからというわけでもないが、今週はそのためマーティン・スコセッシがまたまたレオナルド・ディカプリオを起用して製作したサイコ・スリラーの「シャッターアイランド」を見に行くことにする。ちぇっ、「ラブリーボーン」、見たかったのに。


さて、「シャッターアイランド」だが、この作品、1950年代が背景と現代でこそないが、舞台はボストン郊外の小島と、近年よく見るボストン舞台のドラマ、しかも、やはりこれまた近年の傾向通り、わりと陰々滅々とした話だ。何を隠そう原作はデニス・ルヘインと聞けばそれも納得だ。「ミスティック・リバー (Mystic River)」「ゴーン・ベイビー・ゴーン (Gone Baby Gone)」と、近年ボストンが暗い印象を与える原因となっている作品の原作を書いているのが、ルヘインなのだ。さらに「エッジ・オブ・ダークネス (Edge of Darkness)」「ディパーテッド (The Departed)」等、近年のボストンを舞台とする作品の多くが決して明るいとは言えない理由の多くは、ルヘインに帰すような気がする。


「シャッターアイランド」はジャンル分けするとサイコ・スリラー、サイコ・ホラー、あるいは雰囲気たっぷりのゴシック・ホラーと言える。しかしこれまでのルヘイン作品は、暗くはあっても「サイコ」とか「ホラー」とか形容される作品ではなかった。実際耳に入ってくる話を聞くと、「シャッターアイランド」はルヘインが新しいジャンルに挑戦した意欲作、みたいな調子で評されている。


一方、スコセッシはホラーと相性がよくないわけではない。というか、スコセッシがこれまでに撮った作品の、特にヴァイオレンスの部分は、印象としてはかなりホラーだ。「ケープ・フィアー (Cape Fear)」なんていうクラシック・ホラー? のリメイクだって撮っている。スコセッシのヴァイオレンス・ホラーの特色は、その主体が、なんか、あっちの世界に行っちゃっている人という印象を濃厚に感じさせるところにある。要するに、話してもわからない人と対峙する時、人は恐怖を感じる。スコセッシの場合、その相手が、人が普通に生活している日常の場にいることから来る怖さの度合いが強い。人が豹変するのだ。


「シャッターアイランド」の場合、舞台が精神病院ということもあり、登場人物の多くが多かれ少なかれうさんくさかったりする。そういう場所で行方不明の人間を捜そうとする場合の抵抗や困難は当然だ。しかも主人公テディは、本当ならこういう辺地での行方不明者探しを担当するような下っ端ではない。しかし私生活で妻ドロレスを失った痛手から立ち直れていないテディは、ほとんど一線から退くような形でこの任務に就いていた。


最初単純に見えたこの任務は、一筋縄ではいかないことがすぐに判明する。コウリー院長やナーリング医師は表面上は調査に協力を惜しまない態度を見せているが、実際にはテディらの存在を疎ましがっているのがありありだ。彼らは道義的に疑問な療法を試している疑惑があり、その詳細を明らかにしないだけでなく、重要な証拠物件を故意に隠していた。テディらは失踪したレイチェルの病室で、帳簿上は66人しかいないはずの病院で、67人目を捜せというメモを発見する。果たしてそれは何を意味しているのか‥‥


スコセッシとディカプリオがまたタッグを組んだサイコ・ホラーという面ばかりが強調されているのだが、この作品、実はかなり芸達者な面々が脇を固めている。ディカプリオの相棒チャックを演じるマーク・ラファロ、コウリー院長を演じるベン・キングズリーを筆頭に、テディの妻ドロリスにミシェル・ウィリアムス、失踪したレイチェルにエミリー・モーティマーとパトリシア・クラークソン、ナーリング医師にマックス・フォン・シドー、患者の一人はジャッキー・アール・ヘイリーだし、セキュリティのジョン・キャロル・リンチもうさん臭くていい。私個人の印象を言うと、やはり「エクソシスト (Exorcist)」のシドーの存在が、いかにもホラーっぽい雰囲気を漂わせることに貢献していると思う。


「シャッターアイランド」は説明のつかない超常ホラーというわけではなく、 一応最後に話の辻褄を合わせて終わらせる。面白いは面白いのだが、作品としてもうちょっと詰められるのではというのは言えると思う。見ている間に、もしかしてこの話、こういう話じゃないのかと観客にわからせてしまう嫌いがたぶんにあるのだ。これが90分程度にまとまっていたら一気に魅せて終わらせてしまえるものを、と思ってしまう。


そう思ったのは私だけじゃなかったようで、こないだエンタテインメント・ウィークリーをぱらぱらとめくっていたら、「シャッターアイランド」のこの部分を端折れば80分にまとめられるというコラムを載せていた。私は映画を見ながらその後の展開を予想したりなぞ普通はしないのだが、そういう間を観客に与えてしまう。私の場合、もしかして、と思ったその予想がずばりで、しかもチャックの役割りまで予想した通りになった。犯人当て推理小説を読んでるんじゃないんだから、もちろんそんなのが当たっても嬉しくもなんともない。むしろ外れてあっと言わせてくれる方がよほど楽しい。


これはたぶんルヘインの持ち味が、犯人当てというよりも事件の動機や人間の業といったところで冴えるからではないかという気がする。もちろんそういう要素も映画の中にはあるし、犯人当てではなく、どちらかというとゴシック・ロマンという要素を楽しむことの方が先決ということもあろう。また、スコセッシがいつものように細部まで律儀に映像化しているもんだから、逆に観客に先を予想するゆとりというか間を与えてしまう。その乗りこそを楽しめればよかったんだが、ああ、損した。楽しみ方を間違えた。









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