Separate Lies   孤独な嘘 (セパレート・ライズ)  (2005年10月)

会社役員のジェイムズ (トム・ウィルキンソン) とアン (エミリー・ワトソン) の夫婦は忙しいロンドンでの生活に嫌気が差して、郊外にも家を持つ。ある時、通いの家政婦のマギー (リンダ・バセット) の夫が誰かの車に引っ掛けられて転倒し、そのまま帰らぬ人となる。近くのバチェラーのウィリアム (ルパート・エヴェレット) が運転する車に引っ掻き傷を見つけたジェイムズは疑惑を持ち、ウィリアムに問い質す。ウィリアムは自分の過失を認めるが‥‥


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3年前に「ゴスフォード・パーク」脚本で世を唸らせたジュリアン・フェロウズの初監督作。この人、元々は役者なのだが、いつの間にか脚本を書くようになり、認められ、ついに演出にまで進出した。演出を手がけるようになる役者というのは掃いて捨てるほどいるが、まず脚本で認められ、それから演出と、段階を経て監督になる者は珍しい。役者は現場で演出の勉強はできるだろうが、脚本の書き方は誰かが教えてくれるわけではないからだ。


「セパレート・ライズ」は、やはり「ゴスフォード・パーク」同様、英国の上流階級の住むお屋敷を舞台としてドラマが展開する。この手の英国お屋敷ものは、マーチャント/アイヴォリー作品を例にとるまでもなく、綿々と製作されて倦むところがない。もちろん需要もあるのだろうが、お国柄というのもあるだろう。実は私もこのジャンル、しかもミステリーを絡ませたこのジャンルには目がない方だ。


こういう性向を持つのはなにも私だけに限らないようで、こないだ書店のミステリーのコーナーを覗いたら、ずばり「英国カントリー・ハウス殺人事件集 (English Country House Murders)」という、郊外の別荘で起きる殺人事件ばかりを集めた、その種のファンには堪らないペイパー・バックがあった。ドイル、チェスタートン、カー、クリスティ、セイヤーズから、ブランド、レンデル、P. D. ジェイムズまで、郊外の屋敷を舞台とする事件だけを扱ったミステリを収めた短編集で、私がいそいそと買って帰ってきたのは言うまでもない。やはりこの種の作品は定番なのだ。これらの作品は完全に逃避娯楽と言えるもので、純然たるエンタテインメントに徹し、読んだから得るものがあるかというとほとんどそんなことはないだろうが、しかしはまると抜けられない。異邦人である私ですらそうなのだから、この種の作品がどれだけ英国人にアピールするかは、考えるまでもなさそうだ。


で、「セパレート・ライズ」であるが、最初、劇場で予告編を見た時に、フェロウズの監督作ということでもう見る気ではいたのだが、「ゴスフォード・パーク」よりももっと緊密でミステリ色が濃い作品だった。もちろん、それこそが私がこの種の作品に求めているものに他ならない。原作のナイジェル・バルチンは主として50-60年代に活躍した作家/脚本家で、既に30年以上前に物故しているが、著作が何度も再販されて読み継がれているところを見ると、根強い人気があるようだ。


主人公のジェイムズとアンのカップルは、経済的にはまったく文句のない生活を送っており、あまりにも忙しいロンドンでの生活に嫌気が差して、郊外に別荘を求め、主として週末はそこで暮らしている。文句なしの豪邸であり、専業主婦のアンですら自分専用のメルセデスを運転している。当然執事ならぬ通いのお手伝いがおり、そのマギーの夫がある日、自転車に乗っていて車にはねられ、打ち所が悪かったためにそのまま帰らぬ人となる。最近アンが親しくしているウィリアムのレンジ・ローバーに引っ掻き傷を発見したジェイムズは、ウィリアムが事件と関係しているんじゃないかと疑惑を抱き、ある時、食事に誘い出して真偽を問い質す。案の定、ウィリアムはマギーの夫と接触した車は自分の車だったことを告白する。ジェイムズは自首を勧めるが、もちろん事件の真相はそれだけではなかった‥‥



(注) 以下、かなりネタばれあり。


家に帰ったジェイムズは、アンにやはりウィリアムが張本人だったと告げるが、しかしアンの様子がおかしい。実はアンとウィリアムはできていて、事故を起こした車の中に一緒にいたのだ。しかも運転していたのは自分だったとアンは告白する。一挙に奈落に転落するジェイムズ。しかし、ジェイムズはウィリアムには自首を勧めたくせに、今回はアンとウィリアムに憤りを感じはしても、アンの保身に思案を巡らす。しかし、元々は優しい女性で、あまりにも四角四面なジェイムズに気詰まりなためにウィリアムの気安さに傾いたアンは、段々嘘を塗り固めることに疲れ始め、マギーに真実を告白するという。ウィリアムとジェイムズはアンを必死に引き止めるが‥‥


という風に話は展開して行く。善良なビジネスマンだが、自分の考えるモラルを他人にも押しつけ、それがかなわないと、今度は真実を糊塗しようとするジェイムズ、やはり真面目で優しい家庭の主婦だが、結局不倫に走り、罪を犯し、それがばれると、今度は開き直ったりして周りの人間を振り回すアン、どうしようもない、離婚したばかりのいい歳をした放蕩息子だが、人から好かれるウィリアムと、三者三様の思惑が交錯した結果、最後は思わぬところに事件は着地する。


ジェイムズを演じるウィルキンソン、アンを演じるワトソン、ウィリアムを演じるエヴェレットと、それぞれ見所があって最後まで飽きさせない。最初善良そうで後で事実隠蔽に奔走するジェイムズを演じるウィルキンソンと、最初悪役っぽい登場で後でシンパシーを感じさせるウィルアムを演じるエヴェレットでは、エヴェレットの方がどちらかというと役得。とはいえウィルキンソンは、いつの間にかこういう役もできる貫禄がついた。昔々の「フル・モンティ」では、しがない無職の男という役が板についていたのに。ここでは妻を寝とられ、嫉妬の感情に苦しみながらも、平常心を保とうと努力し、自分よりも妻の保身を図る。それは妻のためというよりも自分の地位を守るためでもあるのだが。エヴェレットは、なんか最近シルヴェスタ・スタローンに似てきたような気がする。それなのに近年「危険な関係」等、役柄としては以前同様、あるいは以前にも増してこういうプレイ・ボーイ的な役ばかりなのも不思議。やはり女性にはアピールしているのだろうか。


しかし不幸な役柄ではあるが、酸いも甘いも噛み分けているはずの二人の男を結果として結果として手玉に取ったアンを演じるワトソンが、実は最も怖い。どこから見ても同情を買い、罪を犯したことにも情状酌量の余地があるが、いつの間にやら自分のしたことをジェイムズに責任転嫁して、彼の見ている前で堂々とウィリアムの元に走るのだ。結局最後に最も惨めな思いにとらわれるのはジェイムズであり、アンはそれを慰める立場ですらある。いったいなんだこれは。アンはジェイムズのマインド・コントロールでもしたのか。


アンは一応、本気で悩んで本気でベストの道を選ぼうとしているのだろうが、その選択はどう考えても独りよがりである。それが別の視点から見るとなぜ彼女は被害者であり、彼女だけが善人であるように見えるのか。彼女こそがこの作品で唯一起こった犯罪の真犯人であるのにもかかわらずである。それがこの映画で本当に一番怖い点である。というか、そういう思い込み激しい役でぴたりとはまってしまうワトソンって、やはりかなり怖いぞと思ってしまうのであった。






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