妻を寝とられ、離婚調停の最中、山奥の湖畔に越してきて一人執筆活動を続けるミステリ作家のモート (ジョニー・デップ) の元に、ある日、ジョン・シューター (ジョン・タトゥーロ) と名乗る見知らぬ男が現れ、モートが自分の作品を盗作したと糾弾する。最初はとりあわなかったモートだったが、シューターはしつこくモートにつきまとい、脅迫する。身の危険を感じるモートだったが、平和な地元の警察はほとんど役に立たない。そのうちにもシューターの行動はエスカレートし始め、その魔の手は、モートのボディ・ガード (チャールズ・ダットン) だけでなく、妻のエイミー (マリア・ベロ) の周辺にも伸び始めていた‥‥


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相変わらず人気があり、毎年必ず何かが映画化されるスティーヴン・キング作品、「シークレット・ウィンドウ」は、「Four Past Midnight (日本では「ランゴリアーズ」)」所収の「秘密の窓、秘密の庭 (Secret Window, Secret Garden)」の映像化である。中編の作品だが、長かろうが短かろうが、とにかくキングの人気というものは不変だ。しかも新しかろうと古かろうと関係なく映像化される。


キング作品がここまで映像化されるのは、作品の面白さもそうながら、そもそもの設定が現実に実際にありそうな作品が多いということにも因るだろう。初っぱなからリアリティを無視して飛ばす作品もあるが、私見では、どこにでもありそうなシチュエイションがどんどんずれていくというタイプの作品が、最も怖く、想像力をそそる。「シャイニング」然り、「クージョ」然りだ。たとえ「キャリー」や「デッド・ゾーン」みたいに超能力者が主人公の作品でも、その登場人物の日常生活の描写が生きているからこそ、後々、その日常が取り返しのつかないものになっていく時の恐怖感や焦燥感が倍増する。そのため、元々キングの書くホラーの特徴は、描き込んで段々話を盛り上げていくというタイプの作品が多い。現実世界がずれていくという状況とそういうスタイルが、うまくマッチするんだろう。


そのためか、逆にキング作品の映像化は、どちらかと言うとハズレの作品の方が多い。大量の言葉を駆使して恐怖を盛り上げていくために、キング作品はどうしても大部の本になりやすいのに対し、映画の場合、観客の持久力が持たないため、どうしても2時間強程度で作品に区切りをつけないといけない。しかしそれだけの内容を詰め込むには、どうしても時間が足りないのだ。そのため、どんなに面白くて映像化の意欲をそそろうとも、キング作品はよほど注意してかからないと足元をすくわれる。昨年の「ドリームキャッチャー」なんて、その失敗例の最たるもんだろう。あれもこれも詰め込んだ挙げ句、結局収拾がつかなくなってしまった作品に、強引にオチをつけていた。


その点、4時間、6時間、8時間なんて時間を使えるTVのミニシリーズの方がキング作品と相性がいいのは明らかで、一時ABCが8時間にも及ぶ「ザ・スタンド」を筆頭に、「シャイニング」、「ストーム・オブ・ザ・センチュリー」、「ローズ・レッド」等、キング作品を好んでミニシリーズ化していたのは、当然と言えば当然と言える。実際、そのできはともかく、キング作品の持ち味を殺さないようにじっくりと描き込めるミニシリーズは、少なくとも、原作者のキング自身は自画自賛していた。


2時間で終わらなければならない映画の場合、キング作品の映像化で最も向いているのは、実は短編から中編、しかもホラーではない作品の方だったりする。「スタンド・バイ・ミー」、「ショーシャンクの空に」、「黙秘」等の佳品はすべて中短編で、しかもホラーではない。ジャンルとして演出の仕方が確立しているホラーよりは、これらのドラマ作品の方が、演出家の腕の見せ所が生きるという気がする。


面白いのは、その中編、「シークレット・ウィンドウ」が入った「Four Past Midnight」に一緒に収められているのが「ランゴリアーズ」で、「シークレット・ウィンドウ」は今回2時間の映画になったが、「ランゴリアーズ」は4時間のTV映画になった。とはいえ「ランゴリアーズ」は、中編とはいえ、それだけで別に一冊の本にしてもいいくらいの長さがある群像劇で、個々のエピソードを付け足すことによりいくらでも長くできるというのは確かにあった。


「シークレット・ウィンドウ」はそれに較べると登場人物の数が限られ、基本的に閉鎖された場所での話なので、徐々にストーリーが展開する。妻が浮気をして離婚沙汰になったのは精神的に大きな打撃で、おかげでモートは人目を避けるように山奥の湖畔で隠遁生活を送るようになったが、それ以外はごく普通の生活で、もしかしたら執筆活動のためには、その方がよかったかもしれない。それが謎の男シューターの出現により、どんどん歯車が狂っていく。いかにもキング的なシチュエイションだ。


主演のモートに扮するデップは、わりとホラーに出る機会が多い。いくら「エルム街の悪夢」で出てきた俳優といっても、一応現在ではスター俳優としてまつられているにしては、このホラーの数は尋常ではない。特に一時、「ノイズ (The Astronaut's Wife)」(そういえばこれでデップの妻に扮していたのは、先ほどオスカーをとったばかりのシャーリーズ・セロンだった)、「スリーピー・ホロウ」「ナインス・ゲート」と、ホラー映画に連続して出演していた時期があったが、茫洋としているように見えて実は繊細そうな風貌が、ホラーを撮ろうとする演出家にアピールするんだろう。


そのせいだろうか、それらの作品のポスターが、またわりと似たり寄ったりだったりする。特に「シークレット・ウィンドウ」と「ナインス・ゲート」は、写真のアングルに本人のメガネやちょびヒゲの具合までそっくりで、作品タイトルだけ変えても誰も気づくまいとすら思ってしまう。両方で出版業界に関係する役というのも共通している。両作品で基本的に異なるのは、一方では常時煙草を放さないヘヴィ・スモーカーであることに対し、一方では禁煙中であるというところか。いずれにしても、つまり、やはりデップが放つある種の、本当は何考えているかわからない、みたいなオーラが求められているのだ。また、この雰囲気を逆に利用すれば、「パイレーツ・オブ・カリビアン」みたいな、独特の独りよがりの個人完結型のギャグにも使用できる。もちろんそちらの方だって、昔からティム・バートンを中心に、かなり重宝されていた。


「シークレット・ウィンドウ」は、主人公のデップも当然そうだが、何ものか正体のわからない不気味なシューターの存在感が、その印象を決定している。その点で、ほとんどノー・メイクのくせにホラーの悪役ができるジョン・タトゥーロの一癖も二癖もある面構えは、作品になくてはならぬものだった。「エルム街の悪夢」のフレディがそのメイクに何時間もの時間がかかるであろうことを思えば、タトゥーロという役者の貴重さがわかろうというもの。


監督のデイヴィッド・コープは、「ジュラシック・パーク」や「スパイダーマン」等、どちらかというと脚本の方で知られているが、「スティア・オブ・エコーズ (Stir of Echoes)」なんていうホラーの佳作も撮っている。「スティア・オブ・エコーズ」の方が、シューターみたいなキャラクターがいない分だけもっと現実的な筋書きだった。


最後に、タイトルでもあるシークレット・ウィンドウが、少なくとも映画では効果的に使われているとは言えなかったのが気がかり。最後にそのシークレット・ウィンドウを通ってカメラが移動していく、というのでわずかに利用されるが、それまでは会話の中に登場したりはするが、で、だからなんだわけとしか思えないくらいしか使われていない。なんかの象徴として使うにしても、もうちょっとなんか使いようがあったのでは。原作ではシークレット・ウィンドウはもうちょっと思わせぶりに登場しているのだろうか。






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Secret Window   シークレット・ウィンドウ  (2004年3月)

 
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